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フライフィッシング 最初の一尾

『FlyFisher』2017年12月号掲載

 川幅が二メートルにも満たない小さな里川に立ち、右手のコンクリートの護岸から突き出た雑草にフライを引っ掛けて悪態をついているのが僕だ。周囲にだれもいない里川で「ふざけんな!」と叫んでいる僕をどうか許してほしい。十年前のこの日はフライフィッシングを始めて川に立つこと四週間。いまだ魚が釣れないフライフィッシャーだったのである。

 独学で始めたフライフィッシング。様々なフライフィッシング入門書を買っては睨み、買っては睨んで必要な道具をリストアップし、いざフライフィッシングのタックル(釣具のことである)を揃えに某アウトドア専門店へ向かったのは、多くの書物で予習をしてから二週間目のことであった。
 専門店のフィッシングコーナーで商品を整頓していた二月なのに日に焼けて黒々なスタッフに「あの・・・フライフィッシングを始めようと思っていて道具を揃えたいのですが・・・」と恐る恐る声をかけてみた。「フライですか。渓流ですか?ホンリュウですか?」
ホンリュウ?いきなり知らない単語が出てきたが、我が生涯で初めてとなる釣りの質問に、予習からずっと渓流での釣りをイメージしてきた僕としては胸を張って質問に答えた。
「渓流のつもりです」
なぜ〝つもりです〟と口から出てしまったのか。決意無き行動への不安か、それとも釣りという未知の世界への畏れなのか。
「まずはロッドですね」と、ロッド売り場に案内された。「渓流なら4番か3番の7フィートあたりが使いやすいですが、初めてならカンリツリバで練習すること考えて4番あたりがいいと思いますよ」
カンリツリバ?
また知らない言葉が出てきたが、予習した本には「日本の渓流では3番が合っている」とどこかに書いてあったので「僕は3番でやるつもりです」と応えた。
 スタッフが勧めてくれたのは5ピースの7・2ftの入門パックロッド、一万円也。自転車を乗ってみたいと言ったら補助輪がついた自転車を勧められたような、少々傷つくスタッフチョイスではあったが、手頃な値段を勧めてくれたのは僕がフライフィッシングを挫折しても痛手にならないようにと慮ってくれたこのスタッフならではの優しさなのだろうと勝手に思うことにした。
 さて、ロッドといえばリールである。
グリップの下についているリールこそ、なんちゅうかこう、〝フライフィッシングです〟という感じである。映画『リバー・ランズ・スルー・イット』でジージーと音を立ててラインを手で引っ張り出すのを見て、このなんとも身体的な感覚が〝いかにも〟でカッチョいいなぁと憧れたあのリールである。
「フライのリールはラインを収納するだけのものですから機能はまず考えなくてもいいんですよハハハ」と優しい笑顔でショーケースから取り出したリールは二万円。機能は考えなくていい、ただラインを収納するだけの糸巻きの機械が二万円。ロッドより高い。しかし手渡されたリール以外を選択できる知識も経験も言葉も持ち合わせていない僕に残っていたのは「これで」という言葉だけだった。
「次はラインですね」
そう言ったスタッフを僕はどんな顔で見ていたのだろう。僕はすでにスタッフの言いなりとなっていた。
 「ラインは3番ですね」
僕はしたり顔で予習した知識を披露するが、ロッドが3番ならラインも3番は決まりきっているので今思えばかなり恥ずかしい。
無言で頷いたスタッフはラインのパッケージを手に取って言った。
「このダブルテーパーというのはラインの両方が細くなっているので、使っていて古くなったら反対にしてまた使えるので経済的です」
「それで」
この時の僕は〝経済的〟という言葉に滅法弱くなっていたので即答した。
「あとこのラインをリールに結ぶのにバッキングラインも必要ですね」
スタッフが棚から取り出したバッキングラインのパッケージを見ると八百円と値段が書いてある。それまでの買い物から見たら八百円など端た金である。
「それで」と軽くOKを出した僕はスタッフの次の言葉を待った。
「あとは・・・ウェーダーですかね」
ウェーダー。川に入るための防水の長ズボン。渓流でフライフィッシングをするためには必須のものである。ザ・フライフィッシャーなアレである。
「春は気にならないかもしれませんが、夏でも釣りをするなら、通気性のよい蒸れないゴアテックスが快適だと思いますよ。一度使うと戻れませんよ」
〝夏でも釣りをするなら・・・〟
〝夏まで釣りを続けられるなら・・・〟そう聞こえた僕は迷わずゴアテックスのウェーダーを指差し「それで」と決めた。
そのあとも僕はスタッフの説明を挑発と勝手に勘違いしながら、ウェーダーシューズや、偏光グラス、ランディングネットなどを「それで」を連発しながら買い求めた。
気がつけば後戻りできないお買い物総額となっていた。ロッドの一万円はなんだったのか。この状態で挫折したら回復不能の痛手となるであろうことは必至。腹をくくるしかなかった。
 解禁まであと一ヶ月。キャスティングの練習や、毛鉤の用意、そして川の下見もしなければならないなと、買ってきた偏光グラスをかけ、ウェーダーを履き、ロッドを握りしめながら自宅の部屋で覚悟を決めた。

 キャスティングの練習をしようと近くの公園へと出かけた僕はロッドにリールをセットし(もちろん専門店のスタッフにラインを巻いてもらった)、ラインをトップガイドから引っ張り出して数メートル余分にラインを地面に落とし、ロッドを真上から前へと振ってみた。ラインは茹ですぎたパスタのように張りなく足元へボテボテと下品に重なり落ちていく。前方へラインが飛ばないのは力が足りないからだと、思い切り振り下ろすと今度は自分の背中や頭と耳にラインが落ちてくる。本番ではこのラインに毛鉤がつくのである。このままではキャストするたびに体に毛鉤が刺さると知って絶対にカエシのない毛鉤にしようと僕は心に決めた。数時間、周囲の子供連れのお母さんたちからの冷たい視線を浴びつつも、ラインの先端が前方へ向かうようになった時、フライキャスティングをマスターしたと勘違いした。自分はもしかして天才なんじゃないかと。

 さて、ここで独学でフライフィッシングを学ぶ時の大きな問題が浮かび上がってくるのである。
〝正解がわからない〟のである。

これは正しいキャスティングなのか?
その判断を自分でしなければならない。

それは全てにおいてつきまとう。
フライの選択についても、どのフライが正しいのか、数百パターンから正解を探すのは初心者には困難であり川に立って釣りをしてみないことには、いつまでもたっても正解にはたどり着けず、また不正解もわからないのである。

 いよいよ解禁を迎え、生まれて初めて渓流に向かう時が来た。
今思えば、初心者が独りで行くような簡単な渓流ではなく、かなり山奥の山岳渓流ではあったが、当時の僕は川選びの正解を知らず、ただ木々に囲まれた渓流であればフライフィッシングらしい釣りができるだろうと思っていただけであった。

 今でもはっきりと覚えているのは、ウェーダーを履いて川に入った時の感覚である。
 川に足を踏み入れた瞬間、足をゆっくりと包み込んだ水のひんやりとした感触は不思議と懐かしい感じがした。そして濡れるということに抵抗を覚えだしたのはいつからだろう。なぜ水を疎ましく思うようになっていたのだろう。子どものころは靴を履いたまま水に濡れても気にしなかったのに。そんなことを考えた。ほんの足首までしか川に入っていないにもかかわらず、感情が高ぶった。ただ川の中を歩くのが楽しかった。僕はこのとき川と戯れていた。そして僕は川と戯れてよい水深の正解を知らなかった。膝くらいまでの水深であるものの、調子に乗った僕は対岸へ渡ろうとして渓流の太い流れを知らずに足元をすくわれて流された。
たぶん数メートルだとは思うが、全身が川に浸かり、這いつくばって岸から上がった時には頭が真っ白になった。初めての渓流の半日を着ていた服を乾かすのに費やした。
 川の深さと流れの太さの危険度の正解がわかった僕は、その後初めてフライを結んだラインを川面に流した。そのフライは#10のドでかいヒゲナガのフライである。
川底まで見通せる透き通った美しい川は魚がいないことまではっきりとわかる。そんな川面を虚しく流れるヒゲナガのフライ。
そこでまた正解が導き出される。魚がいないと見てわかる場所にフライを流しても魚は釣れないということである(春に#10のフライはありえないが、その時はわからなかった)。
どこに魚がいるか、その正解がわからないから闇雲に絨毯爆撃のようにフライを川面に落としていく。魚がフライを咥えるところを見たことがないので、「釣れる」ということがどういうことなのか、それすらもわからない。
初めての川での釣りは魚の姿をみることもできず、釣りというものがいかに釣れないものかと知っただけで終わった。翌週、地元の川へと場所を変えて毎週のように通いつめた。しかし同じように魚の姿を見ることもなく、虚しくキャスティング繰り返し、寂しげにフライが流れるのを見つめるだけで4週間が過ぎた。釣果は得られず日付の過ぎた日釣券だけが増えていった。
 
 川に立ちながら、こんなにも魚が釣れないのはなにかが根本的に間違っているのではないかと自らの釣りを疑いだすようになってくる。キャスティングが間違っていて、魚を追い払っているのではないか?川の歩き方が間違っているのではないか?フライの選択が間違っているのではないか?
すべてが間違っているのか、それともこれこそがフライフィッシングなのか。そんなことを考えながらヤケクソにキャスティングをして対岸のコンクリートから出ている雑草にラインを引っ掛けてしまった。
 「ふざけんな!」とついに声に出してしまった僕は、ラインを引き離そうとして力一杯ロッドを後方へ倒した。するとフライが対岸のコンクリートの岸すれすれにポトリと落ちた勢いで水飛沫がたった。一瞬僕はそう思った。フライが落ちたから水飛沫が立ったと。ロッドを後ろに倒していたので、ラインが水面をたるんで流されていく。慌てて左手でラインを手繰り寄せていくと、ラインがわずかに緊張しながら震えていた。僕は事態をようやく把握した。
魚が釣れたのだ。
 ロッドを小脇に抱え、両手でラインを手繰り寄せていくと、10センチほどのヤマメがフライを咥えて水面をクルクルと回転していた。
僕は雄叫びをあげた。人生でここまで感情を表に出したことはいまだかつて無かったことである。
しかし不思議なことに、このときの喜びはそれまでの苦労が身を結んだというものではなかった。
 僕はこの瞬間、自然と関わりを持てたことに感動したのである。川の中を泳いでいる魚と関わりを持つことは、それまでの僕にとって不可能であった。それが釣りというものを通じて、魚の生活に関わったことに感動したのである。それは魚だけでなく、自然というもの自体に関わったということである。

 僕はそれまで、釣りの正解は〝釣れる〟ことだと思っていた。
初めて釣った一尾から得られた正解は、それとはまったく違っていた。
慌てて手で掴んだラインから伝わる魚の鼓動から自然とダイレクトに繋がる実感。
これこそが釣りの正解なのだとこのとき僕は知った。


『FlyFisher』2017年12月号 Fall 掲載


定価:本体1,800円+税
出版年度:2017

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