見出し画像

我々はなぜ渓を釣り上がるのか?

 『FlyFisher』2018年9月号 Summer 掲載

 子供の頃、両親に連れられて海水浴に行ったことを思い出した。まだ十歳だっただろうか。僕は浮き輪を体に通し、日差しの照り返す海面に目を細めながらぷかぷかと海に浮かんでいた。沖に目を向け、水平線が上昇しながら静かに近づいてくるのに胸が高鳴った。波が目の前にせり上がり、浮き輪とともに体が上昇する時の浮遊感、そして波を越えた後に待っている下降するときの胸のすくようなスリル。たまに大波が来てひっくり返り、海中で体をぐるぐると洗われたりもしたが、僕はその波を越える遊びが楽しくて一日中海に浮かんでいた。
 そして目の前でせり上がる波のその先に、胸のすくような海原があるであろうと、その景色を見たい一心で波を越え続けた。しかし幾度も波が視界を遮り、その先の海原を僕には見せてくれなかった。

 初夏。毎年釣りに来ていた奥会津の渓は渇水だった。その年は暖冬であったため例年より積雪が少なかったためだが、梅雨入りまえの初夏としてはまるで盛夏のような僅かな水量となっており、いつもの好ポイントはことごとく消え去っていた。
 僅かに残っているポイントにフライを流してはみるものの、魚の影すら見当たらなかった。盛夏のような釣りならばこれはもう上へ上へと行くしかない。僕は上流へと移動した。
 
 なぜ釣り人は上流を目指すのだろうか。
僕がフライフィッシングを始めた頃、入門書には「渓流は釣り上がっていく」と書いてあった。技術的に下流へフライをキャストするよりは、上流へキャスティングして流す方がフライをドラッグフリーで流しやすいなど理に適っているし、万が一釣れた時でも自分が下流側にいたほうが取り込みは優しい。釣り上がりとはとても合理的なのである。しかし実際に渓流で釣りをしていると、どうもそれだけではなく、「上」というものに僕は特別な感情を持って釣りをしている。

 湖や海と違い、渓流は上か下か、その二択である。登山も上へ上へと目指すが、そこには山頂というゴールが存在する。しかし渓流の釣りが上へ登るのは、川を形作る最初の一滴を見るためでも、重力に抗う哲学的なものでもない。目に見える目標がない。
ただ、「そこに魚がいるからだ(いたらいいな)」なのである。
だからこそ釣りとは恐ろしい。考えていれば魚釣りに「成し遂げる」という言葉は存在しないのである。「この川の魚を全部釣りあげた」とか、「流されて下流まで泳ぎ切った」とか。だからこそ、開高健や井伏鱒二、山本素石など、釣りという終わりなき所業から無限に言葉が紡ぎ出され、数多くの釣り文学が生まれてきたのだ。

 先日、某登山専門誌の元編集長と酒の席を一緒にする機会があり、「登山家から紡がれる言葉はなぜ素晴らしいのか?」という質問をしてみた。
彼はすこし俯きながら
「それは重力に抗いながら孤独の中で自問自答し続けるから、言葉が生まれてくるのだと思う」
と言った。
僕はその言葉がとても気に入った。
そういえば僕も独りで釣り上がりながら言葉が口から溢れ出てくる。「どうせ釣れないだろ」「魚は本当にいるのか?」「あと1時間釣って釣れなかったら今日は温泉に行く」「ガイドブックには尺連発と書いてあったのは嘘かよ!」と自問自答、というか愚痴が生まれてくる。
そうやってブツブツと釣り上がるのだが、流れるフライを魚が追っただけで胸が高鳴り、血圧は上昇、気分は上々。重力に抗うよりも流れに抗いながらうまくフライが流せる場所へと静かに移動して魚と対峙する。
それでうまく魚を釣れたりなんかしたら、そりゃあ、写真に撮って、一服入れて、「この川、この景色、自然て最高よね」とさっきまで愚痴を言っていたことなどコロっと忘れている。
そうやって釣れては上機嫌、釣れない時は愚痴を繰り返しながら上へ上へと川を上っていく。

 南会津で上流へと向かった僕は、盛夏でも水量が豊富な流れを目指した。
しかし案の定の大減水。盛夏でも流れが太く、川に立つのも一苦労だった川が簡単に遡行できるほどの渇水であった。
渇水で釣り易い川へと変化していたのを幸運と呼ぶべきか。入渓したところから釣りあがっていくものの、フライは虚しく流れ続けた。普段は渡渉が難しいポイントも難なく対岸へ渡り、黙々と釣りあがっていると、普段は釣り上がれない川に立っていることだけで不思議と気分が高揚してきた。そこで入渓した場所よりすこし下流の対岸に支流があったことを思い出した。水深もあり、太い流れの対岸に流れ込んでいる支流は毎年ただ眺めるだけであった。渇水で渡渉が楽な今ならその支流へ入れるのではないか。
 その場で僕は引き返し、入渓地点を通り過ぎて対岸の支流を眺める川岸へとたどり着いた。
目の前の流れは明らかにいつもより水は少ない。水深こそ腰ほどまであるが、流れは緩やかで渡れないことはない。
慎重に足を進め、対岸へと渡りきる。目の間には静かに流れる支流がある。右岸には緑眩しい山が、左岸には冬の雪崩のせいか一帯の木々がなぎ倒されて荒涼とした風景が広がっている。支流の流れはその殺伐とした風景と緑の世界を境界線のように静かに流れ、上流はその先の森の中へと続いていた。
僕はそのまま支流沿いを上流へ向かい、森へと入っていった。岸の砂地には先行者の足跡ではなく獣の足跡が続き、川の流れには木漏れ日が被さり、川音が耳を撫でる。倒れた木々でさえ絵になる静謐な光景が目の前に広がっていた。

 この光景は、目に入る景色だけでなく、この場所へたどり着く過程と相まってとても特別なものと思えた。
ほんのすこしの間、僕は釣りをすることも忘れていた。

その時、僕は海で遊んだことを思い出した。
素晴らしい光景が波の向こうにあるのではないかと何度も波を越えた子供の頃の記憶。

 釣りあがっていくものの魚の気配がなかった。しかしいつもの愚痴も出なかった。このまま登っていけば、いつか魚が釣れるだろうという楽観というか、希望があった。そう、希望である。
映画『砂漠でサーモンフィッシング』(11)は、イエメンの砂漠で鮭を放流する無謀な計画に奔走するイギリス人の物語だが、その中で「釣りでなら川の中に何時間も立っていられるのはなぜか」という釣り人にとって重要な問いが投げかけられる。
また、エッセイ『パブロフの鱒』を書いたポール・クイネットは言った。
〝伸びたラインが水辺へと伝えているのは、我々の希望だ〟と。

渓流の釣り人にとって〝希望〟は常に上にある。
僕が渓流でばかり釣りをするのは、そこが希望に満ちているからだ。遥か源流だけでなく、数メール上流の大石の影の流れ、その数十センチ上流の巻き返し。渓流のいたるところに希望はある。フライフィッシャーはその希望にフライを流しながらたまに失望しつつ、またその先の希望を抱き続ける。

我々はなぜ渓を釣り上がるのか?
そこには希望があるからなのだ。


『FlyFisher』2018年9月号 Summer 掲載

定価:本体1,800円+税
出版年度:2018

最後までお読みいただきありがとうございました。 投げ銭でご支援いただけましたらとても幸せになれそうです。