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明日と明日

『FlyFisher』2016年2月号掲載

独り遊びであった釣りも、facebookやツイッター、LINEといったSNSの広まりとともに、今は釣り場で独りでもネットを介してリアルタイムで他人と体験を共有する時代になった。
 釣りに行くまでの退屈な目的地までの移動も、自然の豊かさと美しさも、釣れた魚の写真も、釣れなかったこと以外はすべてネットにアップする。
 僕もここ数年、釣りに行けば写真をfacebookで共有している。しかし釣り友達がほとんどいない僕の釣りネタは「いいね!」がほとんどつかず、「お魚おいしそう!」というコメントに「いえいえ食べませんよ、逃がします」と返信するものの、釣って逃すという行為が理解されないのをひしひしと感じたりしている。
 
 そんなfacebookに昨年から〝過去のこの日〟という機能が始まった。過去に自分が投稿した記事から、昨年の今日、二年前の今日、といった投稿が通知されるのだ。つまり過去の今日に自分が何をしていたかが知らされるのだが毎年僕は同じことをしていることに呆れてしまう。仕事柄、季節ごとに店舗業務が変わるが、昨年の冬と今年の冬は仕事としてはやってることは同じである。
今この原稿をパソコンの前で書いているが〝過去のこの日〟ではやはり「シーズンオフの原稿はつらい」と昨年の今日は書いている。精神的にも、「釣りに行きてえ行きてえ」と、昨年も二年前も三年前も書いている。

 言うなれば日記のようなfacebookであるが、釣りの記事を書いておいて良かったことがある。
毎年同じ川で遊ぶ僕にとって、釣りの写真をアップしておくと気づけばその記事自体が川の定点観測となっているである。渓流が解禁になり、シーズンが始まった時にとても釣りが楽しめた時期というのが過去の記事から思い出されるのである。多少の誤差はあるだろうが、楽しめる時期の目安が分かるというのはとてもありがたい。そして川の変化も感じられる。上流域では大雨などで毎年のように流れが変わる。ある年は一本の流れだったものが翌年には中州ができていて二つに流れが分かれていたりと写真を撮っておくことで自然のダイナミズムを感じられたりもする。

 このようなSNSの広がりによって体験を他者と共有するだけでなく、過去までも共有することに僕は違和感を感じなくなっている。

ただ、ふと思うことがある。
僕が死んだあと、このデジタルな記憶はそのまま他者と共有され続けていくのだと。

トマス・スウェターリッチのSF小説『明日と明日』(ハヤカワ文庫)は、そんな記憶のデジタルデータのほんのすこし先を描いた物語である。
アメリカ、ピッツバーグがテロリストの爆弾で消滅してから十年後、保険調査員のドミニクはピッツバーグが消滅するまでの期間を再現した仮想空間で保険調査に従事する。
 この〝仮想空間〟は、防犯カメラ、各種センサー、ICカード、スマートフォンの位置情報など膨大な公共や個人のデジタルデータをもとに当時生活していた人々の行動を街ごと再現したもので、被保険者の亡くなった原因がテロの被害かテロ以外の死因かを調査するために主人公が利用する。しかし、その仮想空間ではテロの犠牲になった主人公の亡き妻の生活も再現されているのだ。
仮想世界と現実世界が曖昧になり、妻の記憶にいつまでも囚われている主人公・・・。昨年のSF小説の中で屈指の作品である。

現実でもネットやデジタルデータ、SNSの進化により個人のものであった過去や思い出はただ過ぎ去っていくものではなくなった。
いまや過去と現在が並列に進み共有される時代なのである。

 ただ僕の場合、釣れなかったことは記録せずに隠蔽するものだから、失敗を省みない釣りのスキルは、いつまでたっても向上しないのだ。

明日と明日
トマス・スウェターリッチ/著 日暮雅通/訳
ハヤカワ文庫SF
1,123円 ISBN:978-4-15-012024-5

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