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「ドーナツの[穴]を琵琶の[間]に置き換えてみよう」


伝統芸能の中で伝承され続ける[間(マ)]の正体とは何か。

私の中にある「体験としての[間]」が何であるのか、[間]についての考察を以前noteに書いてみた。




あれから、私の中の[間]は増幅し続けている。
そんな時にこの本に出会った。


「ドーナツを穴だけ残して食べる方法」
大阪大学ショセキカプロジェクト

この中に書かれている、


「ドーナツとは家である(美学の視点からドーナツの穴を覗く試み)」
([田中 均]大阪大学大学院文学研究科准教授)

に、一つの答えを見出した。

この「ドーナツの穴」を「伝統芸能の[間]特に[薩摩琵琶の間]」に置き換えて考えてみたい。

本編に書かれている「ドーナツの穴」を「伝統芸能薩摩琵琶の間」に置き換えて読んでみた。

※以下抜粋➕置き換え

『古代ギリシアの哲学者プラトン(紀元前427-347)が書いた対話編『国家』、
その中でソクラテスが対話の相手グラウコンに向かって、画家の技術について語っている箇所がある。
この一節は「寝椅子の比喩」として知られている。
文章中の「寝椅子」を伝統芸能の「間」、大工を薩摩琵琶奏者、画家を評論家に置き換えてみた。


ソクラテス「ここに3つの種類の[間]があることになる。一つは本性界にある[間]であり、ぼくの思うにはわれわれはこれを神が作ったものと主張するだろう。それとも他の誰かが作ったと主張できるだろうか?」

グラウコン「ほかの誰でもないと思います。」

ソクラテス「次に、もう一つは琵琶奏者の作品としての[間]。」

グラウコン「ええ。」

ソクラテス「もう一つは評論家が書物に描く[間]評論家の作品としての[間]だ、そうだね?」

グラウコン「結構です。」

ソクラテス「こうして、評論家と間作りの琵琶奏者と、神と、この三者が、[間]の三つの種類を管轄する者として、いることになる。」

グラウコン「ええ、三人います。」

ソクラテス「そのうち神は、かのまさに[間]であるところのもの自体をただ一つだけお作りになった。そしてそのような[間]が二つ、またはそれより多く神によって生み出されたことは無かったし、これからも生じることもないだろう、
それでは、この神のことを、われわれはこの[間]の「本性製作者」または何かこれに類した名で呼ぶことにしようか?」

グラウコン「少なくとも正当な呼び名であることはたしかですね。」

ソクラテス「では薩摩琵琶奏者は何と呼んだらよいだろう。[間]の製作者と呼ぶべきではないか?」

グラウコン「ええ。」

ソクラテス「では、評論家もそのような事物の製作者であり、作り手であると呼ぶべきだろうか?」

グラウコン「いいえ、決して。」

ソクラテス「すると君は評論家の事を、[間]の何であると言うつもりなのかね?」

グラウコン「先の二者が作るものを真似る者であると。」

ソクラテス「よかろう、すると君は、本性から遠ざかること第3番目の作品を産み出す者を真似るもの{描写家}と呼ぶわけだね?」

グラウコン「ええ、そのとおりです。」


薩摩琵琶奏者が作る[間]も、[間]そのものではないといえる。

[間]そのものとは、本性界にある神が作った唯一の[間]であるとしたならば、
この唯一の[間]は、二つに増えることもなければ、逆に減ってゼロになることもない。

この事により、

{琵琶の[間]}という概念は一つしかないし、無くなることもない。

琵琶から概念であるところの[間]だけを取り出す事は可能だろうか?

琵琶の音が無くなったとして、[間]は[間]として存在する事は可能だろうか?


この後に繋がる[場所と空間の考察]によって、可能かもしれないと思えた。

(空間は自由な広がりとして全体的に捉えているので、その特定の部分に愛着や濃密な記憶が結びつくことはない。
空間の意義は、いつまでも[場所]に人の心を束縛するような過去志向の感情や記憶から解放することだとさえ言える。

(場所には価値が凝固していて、家や故郷といえる。そこには個人の濃密な記憶が結びついている。
自宅跡地でかつて住んだ自宅を[想像で]見る事はできる。))



整理すると、

“場所🟰家や故郷(個人の濃密な記憶が結びついている)
“空間🟰自由な広がりと全体的に捉えるもの(特定の部分に愛着や濃密な記憶は結びつかない)


[間]とは空間といえるが、同時に場所[家]だとも言えるのだろうか?

琵琶は場所[家]だとして、空間であるところの[間]も場所になりうるのだろうか?

琵琶の[間]は、琵琶という[間]を囲う音が無くなっても、
忘れさられる事なく愛着を伴って存続し続ける事は可能だろうか?

思い出と結びついた琵琶の[間]がその者の中に残り続けると仮定して、
琵琶の音が消えてしまっても場所[家]としての[間]は無くならないとも考えられる。

私の『体験としての[間]』には記憶が結びつき愛着を形成している。

この項目の最後に、


「ガストン・バラシュラール著者『空間の詩学」が引用されている。

人が生まれ育った家は「われわれの最初の宇宙」であり、人はこの最初の宇宙を、新たに住まう様々な場所、例えば「隠れ家や避難所や部屋」のうちに再び発見すると論じている。

引用:ドーナツとは家である(美学の視点からドーナツの穴を覗く試み
[田中 均]大阪大学大学院文学研究科准教授


琵琶の[間]への強い愛着から、
本来琵琶の[間]が存在しないところにも琵琶の[間]を見出してしまうのなら、
琵琶の[間]は消えてなくなるどころか、
本来琵琶の[間]が存在しないところにも増殖しうる。

ドーナツの穴が家ならば、

私も
琵琶の[間]は家である。 と言ってみたい。

しかし、気がかりなのは、[場所(家)]としての[間]に、空間の意義(人の心を束縛するような過去志向の感情や記憶からの解放)を残す事が出来るのかということだ。言い換えるなら、[家]としての琵琶の[間]に私の心は束縛されてしまうのではないかということ。

いや、もうすでに束縛されているのかもしれない。



そんなこんなで、私は今から、
[間_空MAQUU」(A・BAO・MAQUU)プロジェクトを始動する。
もちろんア・バオア・クーをモジっているw

琵琶の[間]を琵琶を使わずに(時には琵琶の力を借りて)具現化するプロジェクトである。

琵琶の[間]を琵琶の[間]が普段は存在しないところに出現させる方法を楽しく模索するために。


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