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<映画> バーニング 劇場版

 うだつの上がらぬ、鈍重で、口の臭そうな、ダサい下着をずり下げては自瀆に耽る作家志望の青年、ジョンス。大学で文芸創作を学んだものの、書くのは習作ばかりで、未だ自分が書くべきテーマを見つけられずに無為な日々を過ごしている。……
 街で偶然再会した幼馴染のヘミは、整形をして魅力的な女になっていた。奔放な彼女は、突拍子もなくジョンスに或る頼み事をする。
 「わたしがアフリカに旅行に行っているあいだ、わたしの部屋で猫の世話をしてくれない?」
 ジョンスはヘミの部屋を訪れ、コンドームをつけてもらいながら辿々しく性交する。彼女が旅立った後、ジョンスは彼女と彼女との性交を待ちわびながら、軍事境界線の目と鼻の先にある田舎町の実家とヘミのアパートを往復する生活をはじめた。……

 だだっ広い平屋に、ジョンスは牛の世話をしながら一人きりで暮らしている。父親は暴力事件の裁判中で拘留されており、母親は父に愛想を尽かして蒸発してしまっていた。ジョンスはソファで眠る癖があるようだった。暗い部屋で点るテレビからは、韓国の若者に拡がる格差社会を嘆くニュースが流れている。原稿に向かおうとしても、空っぽの自分からは何も出てきやしない。仕事の面接に赴いても、「何処から来たのだ」という問いにすら答えられず放棄してしまう。どうにも状況が閉塞的で、ジョンスは暗い不満を募らせているみたいに見える。
 ただ一つの希望、ヘミの帰国を知らせる電話が、彼女のベッドで自瀆をしている最中にかかってきた。悦び勇んで出迎えに上がると、空港にはヘミの他に見知らぬ男の姿があった。……



 漠然と生きる青年、誰とでも寝る女、ギャツビー、酒とジャズ、パスタ、マリファナ、井戸、失踪、猫、メタファー、……。村上春樹の普遍的エッセンスと、韓国映画特有の暗く生々しいサスペンスがうまい具合に融合した印象だ。原作「納屋を焼く」と比較すると、まず主人公と裕福な男の年齢が逆転していることが大きな違いである。成熟した三十一歳の作家と、うだつの上がらぬ大学出の作家志望の青年では、精神的な余裕に明らかな差が生じるだろう。じっさい、クールでニヒルな「僕」と、愚鈍で感情的なジョンスとでは人間としての性質がだいぶ異なっている。若いジョンスは嫉妬や愛を露わにするし、家庭や経済的状況、韓国社会の不況に対して暗い憤懣を抱いているようなのだ。
 そして暗い感情を匿しているのは、ヘミもまた同様だった。家族から金を借りて出奔し縁を切られてしまい、実家もすでに取り壊されてしまっているのだった。……

 ギャツビー的存在のベンが、ジョンスとヘミのいる車中で母親と電話をし、「DNAが優秀だから、大丈夫だよ」というようなことを語るシーンがある。この時、ジョンスの顔に影がよぎる。彼の父親は、怒りを抑えられぬ人間だった。諍いがあれば、カッとして暴力を振るう男、その男のDNAが、自分の中にも流れている。ジョンスはそんなことを考えたのかもしれない。
 このジョンスの父親が、ウイリアム・フォークナーの短篇「納屋は燃える」に出てくる主人公の少年の父、ハリスをモデルにした人物であることは明らかだ。ハリスは理不尽なまでに暴力的な性質の男である。諍いをしては、家族を連れて引越しを繰り返している。しかもどうやら、諍いの火種を自ら撒いているフシがあるようなのだ。引越し先の邸宅に向かう道すがら、避けられるはずの馬糞にブーツをめり込ませ、「靴を脱いでください」という黒人の召使の言葉を黙殺して高級絨毯を踏みにじる。女主人に罵倒され、ハリスは黙したまま絨毯を抱えて帰って娘に洗わせるが、落ちていた石を投げつけて余計に傷物にしてしまう。怒り狂った家主が裁判を起こし、むろんハリスは敗訴して罰金を命じられることとなるのだが、氷のような凶暴さを宿したハリスは、夜更にガソリンを抱えて邸宅に乗り込み、まんまと納屋を燃やしてしまう。……

 「バーニング」の登場人物たちの中に流れる閉塞的な暗い感情は、村上春樹の「納屋を焼く」よりもフォークナーの「納屋は燃える」に近く、それは現代の韓国の若者が抱える問題そのものを火種としている。ベンは喫茶店でフォークナーの短編集を読んでいたが、いったい何を思ったのだろう。このベンという男は、最期の最期まで謎のままである。ヘミの失踪に関与したであろう幾つかの物的、或いは状況的証拠、ベン自身の言葉を借りればメタファーという形での示唆があるものの、真実の暴露には至っていない。それにこのきわめて暗示的な物語の中に、父譲りの偏執狂的な凶暴性を爆発させたジョンスの小説的妄想が混じっていないとは誰にも言えぬ。
 だがひとつ確実に言えることは、この映画の中で唯一紛れもなく”燃えている”のは、納屋でもビニールハウスでもメタファーとしての女でもなく、誰しものの奥底にある普遍的な、”怒り”という激情であるということだ。……



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