はじめての入院 その2

▽入院するまえに、約8年間勤めた研究所を退職しました。

一度は「休職」して復職したのですが、さらに体調が悪化、研究所の存続問題もあり、やむなく辞めることに。

悔しくて泣きました。この仕事に就くのに、「下積み10年間」かかりました。その代わり、心おきなく、治療に専念できるよう、準備してきました。

入院中は、下記の内容を振り返ることが出来ました。ぐちゃぐちゃな字でメモ書き、ノートにまとめたこと、パソコン何度も繰り返して書き直したことです。


▽仕事にも治療にも入院にも「覚悟」は必要だと思います。

 公務は、プライバシーに関わる、国家間の緊張が高まるような機密を扱う仕事だったため、その仕事に就くためには「覚悟」が必要でした。貫いたルールは、酒の席、家族や知人でも「仕事の内容については一切話さない」という点です。これはかなりストレスがたまる行為でした。早朝から深夜まで勤務(週40時間以上残業)、休みは平日のみで調査。通院する時間も余裕もなかったのです。「自己管理」できませんでした。


▽仕事のストレスを軽減するトレーニングがあります。

約8年間、この職に就いていました。長く続けられた理由があります。イメージのなかで【今日の仕事内容は移動中の東京メトロの網棚に置いてくる】という作業をしていました。乗り換えが2~3回あったので、そのたびにどんどん普通の生活に戻るように努力したものです。最寄り駅に就くときは、《ふつうのわたし》に戻っていました。


▽病気の原因について、過労死するタイプだった。

仕事の内容がハードすぎたこと、相談した上司とのパワハラ等あって、身体が回復できないところまで進展していたことでした。過労死レベルでした。病気になれば周囲の同僚に仕事を投げる形になり、逆に軽くなるわけではなく、効率よく成果を上げなければいられなくなったのです。

いま思えば「やりたくないことから逃げる」ことができればよかった。または「嫌ならば早めに退職すればよかった」など、冷静に思います。

ところが、『皆やりたくない業務だからこそ、自分がやる役目がある、自分は《公僕》なのだ』と、

(原因1):仕事=研究に、自分の存在意義を見出してしまったこと。

(原因2):ほかの方に上手に頼ること出来なかった。良い意味で「依存先」が増えれば、一つ一つの負担が軽くなり、結果的に「自立できる」ことがわからなかったこと。

(原因3):自分が育ってきた環境がきわめて厳しいもので「我慢強かった」ということもあります。「いま堪えれば、そのうち自分の好きな研究できる環境・部署に異動できるのでは」という甘えがありました。負のスパイラルからは、自分一人では脱することはできません。

と同時に、仕事を辞めた開放感がありました。仕事こそが自分の存在意義、仕事をやめたら空っぽになる、という思いがあったから。やっと自由になれたんだ、好きに生きるんだと思えたから、一瞬でも「自由の空気」が吸えたのです、病気のおかげで。後悔は消えました。


▽病気のことを一瞬でも忘れたい!

入院中は、毎日のように「精密検査」があるので、頭がいっぱいですね。入院中は以下のことをやりました。

1、スマホTwitterのアカウントを消しました、ガラケーに戻しました。

「ツイッター」をはじめたのが、2011年ごろから。「震災」のときに情報収集したくて。「本アカウント」があったのですが、それを消しました。以前は「Facebook」と連動して、「近況報告」のつもりで更新していました。
「年賀状」も数年前に辞めて、「メール」のやりとりも億劫です。
理由は、Twitterが嫌いになったのではなくて、いろいろと悩みごとや愚痴のはけ口にせず、一度リセットしたく。そうすれば、ガラケーで十分なのです。


2、入院中の願いは、病気から「治りたい」ではなく「忘れたい」こと。

治療が怖いわけではありません。手術だって採血だって、時間がかかる点滴だって、我慢できました。ただし、病気とその後の障がいのことを、一日ずっと悩んでいました。他人の話が「上の空」でした。

過労で倒れて以来、通院した病院では、病名が二転三転して変わり、薬も変わり、様々な検査を受けて、ものすごく辛い時間でした。入院中には、主治医に「新たな病名」を告知されたのですが、治らない部類のものです

自分の身体ですから、納得しようと努力していますが、逃げたいです。一日の時間で、たった数時間でも、病気のことを忘れられる時間がほしいです。いま考えているの答えは、「好きなことに熱中すること」です。読書や卓球などがそれにあたると思うのです。


▽今日は、通院日でした。

街の小さなクリニックで、具体的な話をして下さる、やさしい先生です。無理な治療はせず、とにかく病気と寄り添うことを説く先生。強制はありません。最後まで話を聞いてくれる先生です。精密検査のデータばかり固執しません。

この病院に来るまでに、リハビリの問題で一度、トラブルに襲われたことがあります。データ主義で論文研究者、オレ流のリハビリ専門の主治医から、ある「選択肢」を与えられました。治らないのに「死ぬほど辛いリハビリ」をうけるかどうかという点。結果はすでに予想されています。
①途中で挫折して、また落ち込むこと。これが果たしていいのか?
②それともで、出来るところまでやってダメになる。もう一度、このリハビリ病院で治療を考え直すか?

分からなくなりました。入院した「大病院」と比較はしたくないのですが、主治医が半年ごとに変わり、無責任でした。先生が変わるごとにまた同じ質問、副作用が厳しい投薬、悩んでいる症状が放置という悪循環。

それらを絶ちたく、退院後半年かけて、転医したわけです。「新しい治療とリハビリ」で心身がどこまで耐えられるのだろうか。リハビリ病院での1か月が始まりました。

つづく


    ^^^^^^^^^補足説明^^^^^^^^

「はじめての入院 その1」補筆:

★病院の経緯:2010年から今年で9年目の闘病生活です。

東京の下宿で倒れた→救急救命病院へ→東京の病院で治療《3か所の病院に通った》→《退職、生活スタイルを一新する》→故郷の大病院へ入院《はじめての入院》→リハビリのため転医《トラブル発生》→転院して、納得ができる、いまの病院で治療継続【現在】

(1)しばらく時間をおいて思い出しての執筆なので、詳しくないと思います。また、同じ病棟の入院患者さんのことは一切書かないように気をつけました。

(2)治療内容についても、病名や病院名など特定できそうなので、止めました。ただし、過労死にならない術のヒントになればよいと思います。 

(3)本稿「はじめての入院2」は、入院した大病院からリハビリ中心のクリニックに転医するかどうか悩んでいた時期のものです。結果を申し上げると、転院を決めて「1か月リハビリ」して、そして今の病院にさらに転医して、現在の治療に至っております。

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