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高木康子さんインタビュー⑤「いま生きとるんが天国ちゃうかな、確かに」

高木康子さんは1958(昭和33年)3月3日、大阪・南河内生まれの60歳。
28年前に大分県に移住。現在は竹田市で、機織りをしたり、染色をしたり、布の服を作ったりしています。
インタビュー記事④では、30歳を前にして陶芸という新たな表現の道へ進み、一生の出会いを経て、自分を生きるために旅したインドでの体験を収録しました。生き直していく自分を語るうちに、これまでの人生で最もつらかった幼少期へと心を至らせる康子さんの姿は、静かな湖のようでした。


・小さいとき、親に捨てられた

康子さん(以下・康):
今まで話しとって思ったんやけど……なんか
自分のテーマみたいなもんはないんかなと。
そしたらやっぱりほら、あの…小さいときに
親に捨てられてるやん。
だから(3年前)あのお母ちゃんを、最期に
この竹田へ連れて来たとき親戚のおばちゃん
やらが「何で、あんたが看なあかんねん」て
言うた。
皆がそういうぐらいあの人は、お母ちゃんは
わたしを愛してもないし何もせえへんかった
人なんよな。弟だけを溺愛していたから。

母親が家を出て行った時は全然覚えてない。
多分、2つ違いの弟が赤ちゃんだったときに
出ていってるから、かなり小さい頃から実の
父親と2人だけで暮らしてた。
で、アパートの電灯には、ひもなんかつけて
くれへんかったから…父親はサラリーマンで
夜暗くならんと帰ってけえへんやん。だから
真っ暗なんよ。父親が帰って来てから、電気
つけてくれるまで。
ほんで、夜の暗さがすごく嫌いやった。
そのうちにな…まあ父親に、女の人ができた
わけよ。で、その人がすっごく意地悪やって
…わりと、いろいろなことをされたんよな。
そうそう…裸で外へ放り出されたりもしよっ
たんよ。
…まあそれも今はかまへんのやけどね。
その時は、ちょっとつらかったんやけど…。


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↑奥竹田へと至る道


・あたしは生きることを諦めた

康:そういう自分がまず覚えてるのが4歳か
5歳の頃。
そのずっと前に家を出て行ってた母親が一度
迎えに来たときのこと。
あたしが継母から幼児虐待を受けてるという
噂を聞きつけたんやな。

その時……彼岸花が川の土手にブワーっと、
真っ赤に咲いてたんよ。
家を出て駅まで行くのにね、その川を渡らな
あかんねんね。
ちいちゃいわたしがお母ちゃんの手を、こう
ぐっと握って駅までの道を歩いてたら…
隣のおばちゃんが「何しとんねん!!」って
言うて、走って追いかけて来て…
その人、全然知らん人やねんで?その、隣に
住んでるだけのおばちゃんが、その手を…
お母ちゃんとあたしが繋いでた手を…
こうやって、切り離したんよ。
「勝手に連れていったらあかん」て言うて。
その時にね…
あたしは生きることを諦めたんよ。

その瞬間覚えてる。「生きる」っていうのは
自分の思い通りになれへんねんなと。もう、
この世は、人間世界は、自分の思い通りには
なれへんなっていうのを思った瞬間やった。

・なんでも買ってもらったけれど

康:そんでまた継母とずっと暮らしとって。
学校に入ってから、1年生ぐらいの時に門の
ところで…お母ちゃんがわたしを見てたんは
覚えてる。
そのあと本当に引き取りにきたんかな。多分
継母と、折り合いがついたんちゃう?。
継母にいじめられてるのは、まあその、噂が
届く範囲やったからね。近所の人から聞いた
んかな?。そんで迎えに来た思う。それと、
お母ちゃんが多分新しいお父ちゃんと一緒に
なったんやなぁ。マコちゃんていう人ね。
弟とも一緒に暮らすことになったんやけど…
お母ちゃんはやっぱりあたしに「悪かった」
と思ったんやろうか…。あたしだけずっと、
なんでも買ってもらったんよ。

でもね、もう喋らんかったんよ、あたし。
マコちゃんにも…マコちゃんがどんなにね、
良くしてくれても「ありがとう」の一言も、
言えへんかったんよ。
もう、ひねくれまくっとったんよ。
今から思たら悪いことした。
マコちゃん、ええ人やったわ。 

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↑義父のマコちゃん(高橋誠さん)と、母・富美子さんの写真。康子さんは「弟の結婚式のときかな」と話す。1977年頃、マコちゃん40代前半、富美子さん30代後半。「マコちゃんは横山やすしに似とったわー」と康子さん。


・「お前が書道クラブの部長や!」

康:その後またすぐ引っ越したんやろなぁ。
新しい小学校に行った時には、全然、学校が
面白くなくって。勉強も遅れてて、行っても
面白くないからさ。そやから、しょっちゅう
休んで家の裏庭、裏山とかを徘徊しとった。
あたしに何も言えへんかったわお母ちゃん。
そこは新興住宅地やってん。だからどんどん
こう、切り崩して行ってる感じ。
自分がよく散歩に行ってた川とか池とかも、
なくなったし。

ーーそれはどこやったんかな

康:(大阪の)富田林。喋らんかったからね
そやから友だちもおれへんかった。
そんでいじめられて、学校行ったら勉強でき
へんし。学校が面白くないからずっと、山に
行ったりしてた。
不登校みたいなもんやわな。
たまに学校行ったら保健室に入ったり…。

小学校5年生くらいのときに、クラブ活動が
始まったんちゃうかな。
先生からいきなり「今日から、書道クラブに
お前は入るんや!」て言われて。「へ?」て
思たら先生が「お前が部長や!」言うて。笑
ほいで、その先生と2人で書道をやったかな。
ちょっと変わった、ええ先生やったな。

ーー面白いな、先生の誘い出し方が。

康:そうそう!笑。
他に部員なんかおらへんねん。わたしだけ?
みたいな。
まあ気にしてくれとったんやろうな。

でね、小学校6年生のときに、たったひとり
「さっちゃん」ていう友だちができたんや。
転校生やった。
転校生って、はじめにみんなの前であいさつ
とかするやん?あたしは、さっちゃんの隣の
席やったんやけど…。
やっぱり悪かったわー、大阪の子らは。
さっちゃんの座席の上に、安全ピンを逆さに
しとったんや。でそれをあたしはサッと取り
除いたんや。それで、さっちゃんと友だちに
なってん。
さっちゃんは転校生やったし、ものすご勉強
できたんやけど友だちおれへんねん。
ていうのは、性格がすっごい悪かったんよ。
ワハハハハ!!「タカビー」ていうんかな。
「はい、わたしが勉強できて当たり前ですよ
一番でーす」みたいな。ちょっと、ツンツン
してたわけよ。
小学校はそんな感じ。友だちは、さっちゃん
ぐらいやろな。

・入学式がチャンスかな、と思って

中学校行っても友だちはさっちゃんしかおれ
へんかった。んで勉強できへんかったから、
お母ちゃんが私学に入れてくれたんよ。

ーー高校が私立?

康:そうそう高校が私立。入るときに「この
まんまやったらあかんな」と、思ったんよ。
入学式がチャンスかなと思った。
入学式の時に友だちを作ろうと思ったんよ。
で「友だちになってください」って両横の人
に声をかけたんやな。
そっから始まったんかな。それから頑張った
んよ無理して、バカになるくらい。
高校から短大へは、エスカレーターみたいな
もんやったからそんなにすごく勉強せんでも
入れて。そこでなんかねー、小学校の時に、
お世話になったから保健室の先生になろうと
思って、養護教諭の資格とったんや。
そんで、ものすごいもう友だちできてんねん
で。わりと、いろいろな。
で、無理して頑張って頑張って頑張りすぎて
(最初の)結婚も間違ったけど…。
だから、それでブチ切れたんよ。
その、30ぐらいの時に。

インタビュー①で「小さな頃から、わりとなんでも与えられた」と話した康子さんの言葉の意味が、初めて分かったこのインタビュー⑤。幼い頃に受けたものを背負い続けて生きていた30代前半、康子さんはどうなっていったのか。物語は、インタビュー⑥へと続きます。

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