橋から写した下

高木康子さんインタビュー③「いま生きとるんが天国ちゃうかな、確かに」

高木康子さんは、1958(昭和33年)3月3日、大阪・南河内生まれの60歳。
28年前に大分県に移住。現在は竹田市で機織りをしたり、染色をしたり、布の服を作ったりしています。
表紙の写真は、取材当日に康子さんと訪れた神原渓谷大橋からの眺めです。橋の真ん中から下を見下ろすとこの景色…道路を走っていく車がとても小さくて、こ、怖かった(^_^;)
インタビュー記事②には、20代から30代にかけての出会いと別れの記憶を収録しました。聞き手(三浦)はそれまで、断片的には康子さんの経験を聞いていました。けれど、淡々と告げられていく事実の深さには、ただただ驚くばかり。ふと手を止めて康子さんの顔を見ると、これまで見たこともないような、静かな表情で一点を見つめていました。そして記憶は20代前半の頃、本格的に学んでいた写真の道をたどっていきます…。

○「夕陽丘」で、わなわなと震えた
 
ーーそういえば以前の結婚生活を終えるとき
頭の中で、(空耳のように)お母さんの声が
聞こえたって言ってなかったかな。

康子さん(以下・康):
それは違う。お母ちゃんの声が(頭の中で)
聞こえたんは(大阪写真学校を出て)写真を
やってたとき。
20代前半の頃、大阪の「夕陽丘」てところで
お日様を見てたら…
「康子、犬はこわいねー、貧乏はいやだねー
夕日はきれいねー」とか…、あたしの感覚に
対する言葉が聞こえてきて。…そんときにね
「自分はきれいだと思ってた夕日が、本当に
きれいなんやろうか。それはほんまに自分が
きれいだと思ってんのかな」って思った。

そしたらさ、なんかこう、わなわな震えて。
ああ、自分の感性て何なんやろ、と…。
それから、自分というものを見つめるように
なったんやな。
その後に(最初の)結婚をしたんや。

ーー夕陽丘って?

康:夕陽丘っていう、夕日がきれいなところ
が、あんねんな。名所みたいな。そこで写真
撮ってた。
でもその前に写真撮ってたんは赤線。


○「組」て所に行ったらええな、と

ーー赤線…

康:大阪の「飛田」っていう街に行って写真
撮ったんやけど、そこにおった女性たちは、
ものすごい、こう、生きてたんよ。
そんで、そこにはチンドン屋さんもおって、
流しのおっちゃんもおるし入れ墨の彫り師も
おる。
そしてその入れ墨の彫り師の写真撮ったんも
…あたしはサラリーマンの娘というか、育て
られたから…そういう知り合いが、おれへん
からね。だから「組」て所に行ったらええな
と思った。

ーーマジで、すげえ

康:「すんません、写真撮りたいんですけど
入れ墨の」ていうたら最初はチンピラが出て
きたわなー。「何やっとんねんこのー何しに
きたんやこのー」ていうやん。ほたらその奥
から、本当に礼儀正しい、きちんとした人が
出てきてー。
…多分、親分さんかなんかちゃう?その人が
「明日から来なさい。彫り師を紹介します」
て言わはった。で、近くの彫り師のところに
通うことになったんよ。あたしは血みどろの
身体をイメージしとったわけなんやけど…
もうその頃、手彫りの時代やなくて機械彫り
やった。「血がドバ」は出てきえへんかった
んよ。やけん、面白くないなと思たけど。
彫り師は、いつ行っても彫ってはるわけじゃ
なかった。結局、彫るときに連絡をもらって
それから「組」に行って男の人を1人つけて
もらってから行く、みたいな形やったかな。

でも撮ってても面白くないから…
「組」のほうの、皆の全身真っ裸の写真とか
撮っとったんよ。
やっぱし、あの、男の人はそこのところまで
笑、彫ってる人とかおるわな。それが、自慢
やったりするんよ。そういう写真を撮ったり
しとったけど、面白くなくなってきて。
だんだん、組お抱えみたいになってきてね。
なんかほら「かための盃」てあるやん。
あれの写真撮ってくれ、って言われた時に、
これ以上深入りしたらあかんな、と思って、
で、やめた。ええ人たちやってんけどな。
ハハハハ!

画像1

↑さっきまで「組」やら何やらその他ものすごい内容の話をしていながら、その屈託ない笑顔は一体なんなんだ、康子さん!!

○そういう世界から抜け出して…

ーーハハハハって〜

康:そういう写真撮ってるときに…そこは、
飛田にあったから、もう少し深みに入って、
女の人たちを1人ずつ撮ったんやけどそれが
すごくて。赤線ではもう、働かれへんように
なったおばあちゃんたちがね…、ちっちゃな
丸椅子に軒並み座ってるわけよ。
「何しとんのかなここ」と思た。でそれは、
売春やったんよ。

ーーおばあちゃんが?

康:うん。「おいでおいで」て呼んでてー、
ちょっと4人くらい座れるところがあって。
で、ちょっと見てみたら急なハシゴがあって
2階に部屋があるんよ。

ーー別府にも昔そういうとこやったみたいな
お店があるよな。ものすご急な階段があって

康:あーそんな感じそんな感じ!。ほいで、
その近くの立ち飲み屋さんは…
例えば、50円しかなかったら50円置くやん
そしたら50円分ついでくれんねん。
初めに値段があるんやなくって置いた金額分
ついでくれる。そんな酒屋さんとかも撮って
いったんや。
やっぱ、写真撮るために仲良くしてもらおう
と思って、撮ったらすぐさま家に帰って現像
してた。
プリントして次の日に持って行っとったん。

ーー今の律義さはそれやな。なんか高木先生
(康子さんのこと)マメやしすぐ律義に物を
返してくれたりするやん。

康:そういう世界で…まあ写真撮ったわなぁ。
そしたら今度はさー、あんまりにも疲れ果て
たんよー、んで、東京湾岸撮りだしたんよ。
ファッファッファッファッ

ーー…海…に行きたくなったんやな

康:海じゃなくて東京の湾岸!

ーーへー、何でやろ

康:それとか大阪の工業地帯。無機質なとこ
とか、何もないところとか。
なんか野犬に追いかけられたりとかしながら
写真撮ってたんやな。

画像2


↑原付で、取材場所の「おかんハウス」を出る康子さん。おかんハウスは康子さんが自宅の近所に借りている民家で、現在はイベントなどで使用しています。

○爆泣きしちゃって、グワーっと

ーーでも写真やめたよな。

康:写真やめたんはな、結局…自分のテーマ
がねー……そのほら「ここに生きてますー」
みたいな人たちが好きやったやろ?。そんで
まあちょっと東京湾岸とか行って疲れはてて
遠ざかったんやな。
そんな時に、大阪のギャラリーに行ったん。
(そこで見たものは)後で陶器て知った作品
なんやけど…
女性の裸体みたいな形をした壺にね、なんか
模様描いてるんよ。入れ墨みたいな。それも
白磁に藍色のね。「これは一体なんやろ」と
引き込まれて、中に入って行ったら、そこで
爆泣きしちゃって。グワーって。作家さんは
あたしが作品に感動したと思ったみたいで、
「これは陶芸やから、陶芸やりなさい」て。
えー!て思て、でその日に東京行ったんよ。

ーー東京に…

康:夜行バスに飛び乗って東京行った。
一駅一駅降りて写真撮ったりしてたんやけど
…まあ東京の博物館に行ったら、全然面白く
なかった。何にも感じひんかったんやね。
でも、ひとつだけみてないところがあって…
帰りしな(寄ったら)縄文の土器があった。
そこで、ガー泣いたんよ、爆泣きしたんよ。
そんで、まあ、陶芸の道に行ったやんなぁ…

22歳から「生きてる感覚」を追い求めて撮り続けた「写真」という道を捨て、29歳で新たな世界へ。康子さんの物語はインタビュー④へと続きます。

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