はたぼうで横向いて話す

高木康子さんインタビュー⑥「いま生きとるんが天国ちゃうかな、確かに」

高木康子さんは、1958(昭和33年)3月3日、大阪・南河内生まれの60歳。
28年前に大分県に移住。現在は竹田市で、機織りをしたり、染色をしたり、布の服を作ったりしています。
表紙の写真は1月の取材後に伺った「お昼ごはんの はたぼう」で、店主の「はたきみよ」さんと談笑する康子さん。康子さんは、店内でテキパキと働くはたさんのことを「この子、ひまわりみたいに目一杯咲いてるねん」と紹介しながら、まるで家にいるようにくつろいでいました。

前回のインタビュー記事⑤では、これまであまり語ってこなかった幼少期のつらい記憶を収録しました。30代前半まで、頑張って頑張って頑張り続けた康子さん。物語は、まだまだ終わりません。


・「普通や」と言うてくれた友だち

康子さん(以下・康):
30歳頃、精神的に切れてしまったんは…多分
きっと、すんごいこう…意識というか、何か
を変えなあかんと思ったんやな。
まあ自己崩壊やな。
あたしが切れたとき………多分な、父ちゃん
(夫の高木逸夫さん)か誰かが「やっぱり、
神経科か精神病院に入れなあかん」って相談
してたんちゃうかな。
そしたらある友だちがね「いや、これが普通
やと思う」って言った。
どういう状況かは覚えてないけど、あたしの
状態を「普通や」ていうて、その子が守って
くれたんかな。守ってくれたっていうより、
導いてくれたんかもしれん。ほったらかしに
してくれたんや。


もし病院に入ったらな、薬を飲まされてー…
おとなしくはなるかも知れへんかったけど。
ひとつだけ、ちょっと友だちに聞いたんは、
大好きやった友だちに「バカヤロウ」とか…
思いっきり、言うてたみたいやな、あたし。
フッフッフッフ。
でも、それを受け入れてくれたんや、友だち
も。
 
それで…いつやったかは、よう覚えてないん
やけど、復活した時覚えてんねん。
母親のね、子宮の中にいた。なんか水みたい
なところにおってねー、そっから起きたとき
にはね、赤ん坊やったんよ。
もういっぺん、生まれ変わったんや、赤ん坊
から。
わかる?

--その復活したときっち…寝ちょんときに
「あー、今、子宮の中におる」ちゅう感じに
なったん?

康:いやなんかね、赤い…なんかそういう、
子宮の中におったんよ。そっから、羊水から
出てー、明るい光の中に出てー……。自分は
赤ん坊から立ち上がって、ようやく歩き出す
感じ。
それが一瞬やったんか長かったんか、覚えて
ないけど、そいでなんか本当の自分に戻った
んよ。けどそれはね、思った。自分の力で、
戻ったんよ。わかる?
あたしのためにみんながやってくれたことは
ただ、あたしがあたしであるために、ほっと
いてくれたことやねん。何もせず、辛抱強く
待ってくれたこと。
そこで復活して、ようやく人間になった感じ
がしたんよな。


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↑竹田市鶴原の柱立神社で。苔むした木に絡んだマメヅタから胞子が伸びていた。


・死ぬことは怖かったけど

康:あ、そうそう、インドに行く前にあった
もう一つの出来事は…当時住んでたところが
すっごい空気の悪いところやって、で、喘息
になったんよ。
その頃「田舎暮らしをしよう」と思ってて、
そのために父ちゃん(逸夫さん)は、必死に
働いてたんよ。あたしはアルバイトぐらいは
しとったんちゃうかな。そんでなんか調子が
悪くて、こう、息ができへんし。「いよいよ
あかんわ」っていうような時があった。

寝込んでて…ある日な、猫が鳴くんよ。
思いっ切り『ワーッ』とすごい鳴くんよ。
どうしたんかなーと思ってたらさー、伸びを
しようと思うけど息ができへんから…。
「あたしもう、これで終わりなんかな」って
思いよったらね、丸い玉がね、フッと部屋に
入ってきたんよ。猫が鳴いてる方から。
「なにかな」と思ったらそれはバレーボール
ぐらいな大きさやって、金、白色?
…(電球を指差して)こんな色やなー

--あー、電球色?

康:うーん

--温もりのあるような色。

康:そうそう。で、ふっとお腹に乗ったんや
その丸い玉が、本当に。お腹に乗った瞬間に
パーンとそれが割れてね、カプセルみたいに
身体が包まれたん。それでちょっと、フッと
上に上がったんよ。そん時あたしはやっぱり
こう…死ぬのいややなーと思っとったから…
恐怖心があったから「まだまだやりたいこと
あるんやーあたしは」ていう風に思とったら
なんか、急に上のほうに穴が空いて、身体が
もっと浮いてきたんよ。そうしたら「連れて
行くんやったら連れていったらいいわ」って
いうみたいな気持ちになって、またちょっと
それが上がった。床から30センチぐらい?。
そのとき、誰かが背中をポーン叩いたんよ。
ポーン!で、ドーンて下に落ちて。
その瞬間な、息がすっとできたんよ。
そんでまた、なんかその瞬間「久しぶりや、
銭湯いこ」と思たんよ。
それぐらい一瞬で、元気になった。

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↑2月、里に咲くロウバイの香りを嗅いで康子さんが一言。
「なんかわからへん〜」


・まだまだね、やることあるやん

康:で、近くにある銭湯に行ったら、自分の
手のひらにね、小さな仏様が乗ったんよ。
あの「天上天下唯我独尊」ていう、ブッダ。
顔洗おうとして(手のひらを)ふっと見たら
ここに。「なにー!?」て。それ見てから、
1年ぐらいかな、仏教の本を漁りまくった。
なんせ、木を彫り出したんよ、笑。
その、自分が見たものを記録するのには何が
いいか分からへん、ていう…。
なんせ木にそれを彫ったんよ。なんか仏さん
ばっかりずっと彫ってあとはもう落ち着いた
んやな。
それぐらいガーって彫ったり、仏様のことを
調べたり、自分が見たものを、再現しようと
してた。

--彫り出したのは大分県に来てから?

康:ううん、大阪の時。濃厚やわー、大阪に
おる時は…。狂ってしもうたり、そうやって
死にかけて、戻って来て。
そんときにな「自分はこの世でなんかやっぱ
することがあるんや」と思ったんよ。
インド行く前の話やけどな。
(康子さんが30代前半の頃、インドに行った
時の話はインタビュー④に収録しています)

--インドに行く前にもう見ちょったんやな
仏。それで2カ月旅して帰って来て、大阪で
電車に乗っちょったら…

康:せやねん!

--さをり織りの看板が車窓から目に、飛び
込んで来た。

康:今の話をしててもやっぱし思うんやけど
自分は、自分の傷みたいなもんを修復して…
結局でも本当は、浮遊感みたいなものずっと
あったから…
「自分はここに生きてない」みたいな。
だから、強い人にすごい惹かれとったんよ。
それがインド行ってからは、自分の役割って
いうのをちょっとわかってきた。それは人と
人とを繋げる役割?。まだまだね、やること
あるやん?
自分って生きてて意味がある人間やっていう
「価値」もわかったし。
やから母親に対することかて何ももう怒って
ない。そんで結局、逃げてよかったなーって
思うよ、こっち(九州に)きて。お母ちゃん
相当面白い人やったもん。
 
--たたずまいがすごかったわ、
そこに(取材場所の窓辺に)座ってさ。

康:な、結構面白い人やったわー。
生きてる間にもっとあの人のことをいろいろ
聞いとけばよかったなって思う。

--竹田に来た頃具合が悪いっていうふうに
聞いちょったけど、見た感じはお元気でさ。
ここで(康子さんが大阪からお母さんを引き
取るために借りた「おかんハウス」のこと)
外を眺めてて。なんかどうもブイブイ言わし
ちょったおばちゃんみたいな感じやった。

康:そうそうそう

--「こんなとこ何にもあらへん」とか渋い
声で言ってさ、面白かった。

康:人間ってよくわかれへんけど、縁やなー

不思議な生まれ直し体験を味わった康子さん。聴けば聴くほど、その体験は不思議というよりは、必然だったのかもしれないと思えてきます。深い深い人生からにじみ出てくる言葉は、ずっしり重かった。インタビューは、そのずっしりとした言葉を手のひらに湛えたまま、創作活動のお話へと向かっていきます。
※インタビュー⑦に続きます

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最後まで読んでいただき、ありがとうございます。いただいたサポートを糧に、学んだり動いたりして、よりよいものを書いていきたいと思います。これまでサポートしてくださった方にも、この場を借りてお礼申し上げたいです。本当にありがとうございました!