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僕らはなぜ『響』になれないのか

誰が決めたわけでもないけれど、デザイナーの作品に対して別のデザイナーが批判をしてはいけない暗黙の了解みたいなものがある。

友人やフォロワー、同僚。それが年長者の作品だったりしたらなおさらだ。

さて、2017年のマンガ大賞〜映画化と今話題のマンガといえば『響〜小説家になる方法〜』だろう。主人公『響』にそんな忖度は微塵もない。彼女は小説を書く事に関しては誰もが認める天才。デザインなどいわゆる表現を生業とする人ならたまらなくカッコよく映るキャラクターだ。

作中、響が親友の作品に対して「つまらない」と本人にはっきりと言う下りがある(単行本4巻)。彼女の人間性がよく現れている場面だ。

自分に置き換えたとき、同僚や先輩の作品に対して「つまらない」「おかしい」と感じたとして、それを直接本人に言えるかといえば、まあ言えない。なんなら遠回しな言い方すらしないだろう。

不機嫌になってしまったらどうしよう。失礼な気がする。

それはデザインを評価すること=その人自身に評価を下すことと思ってしまうから。デザイナーとはそういうものだから。

でも響はブレずにズバッと言えてしまう。

彼女にとって、そもそも人間自体はどうでもよいのだ。あくまで問題はその人が書いた小説の質そのもの。小説を否定しているのであって作者を否定しているのではない。(言われた親友はもちろんそんな風に割り切れず絶交してしまうのだけど※後に仲直りする)

僕らも本来は作品の向こう側の人間の事情など考えず、目の前にあるデザインにのみ目を向けて、質の低いものに対しては冷静に批判し、また批判されるべきなのかもしれない。そもそもクライアントにとってはデザイナーが傷つくとかどうでもいいことだし。

しかし、なかなか難しいのが大人の社会。これを気遣いととるか、それとも馴れ合いと切り捨てられるか。響もまた、常にそんな社会との軋轢と戦っている。

それができない僕らが『響』になれるわけがない。ただ一読者として、彼女への憧れは膨らむばかりだ。

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