日常が非日常を生み出している

この記事を書き始める今日まで約2週間が過ぎた。

この期間は僕にとっては、少々慌ただしい時間だった。

今、僕が住んでいる千葉県を台風15号が襲ってきた。

正直言って、ひどいところは本当にひどい。

瓦も窓ガラスもなく、筒抜けの人のいない家。

ブルーシートで覆われた屋根で、雨をしのぐ日々。

停電でお風呂にも入れず、電波も届かず、情報は遮られた。

夜の街を見れば、いつものように灯っていた家々の電気も、道路の周りを照らす電灯も、決して賑やかとは言えない居酒屋の灯りも、すべてどこかに消え去ってしまったような異様な光景だった。

海を挟んで向こう側が神奈川県、あちら側は沢山の灯り。

こちら側をあちら側から見たら、何も見えなかったはず。

まるで、昼の間だけ姿を現す、幻の島のようにも見えたのではないだろうか。

今まであった光景が、そこには存在しなかった。

まさに普段生きていた世界が日常だとすれば、今の世界は非日常である。

さて、そんな非日常を感じているわけだが、

この非日常も、日常がなければ存在しないわけである。

とはいえ、今回のような安心の世界から、不安の世界に誘われた場合は、そんな非日常なんて求めていないと言いたくなる。

ただ、この世に『日常』というコトバが存在する限りは、この反対語である『非日常』は存在し続ける。

それにしても、『日常』と『非日常』、その境目には何があるのだろうか。

コトバというものが生まれ、そのコトバの反対と呼ばれるものが生まれた。

きっと、相反するものがあることが、そのコトバを分かりやすくするためだったのではないだろうかと推測される。

もし、コトバが存在しなかったら、『日常』も『非日常』もなかっただろうし、そうなれば台風での被害のような今までなかったような出来事が起きても、それもただの『今起きている事象』として捉えることが出来るのかもしれない。

深刻さや、悲壮感、妬み、僻みなどを感じなくて済むのではないか。

ただ、このコトバがなかったら、僕たちは今みたいに様々な感情を抱いたり、表現したりすることが出来なかったかもしれない。

もし、そうだとしたらこの世は淡泊で、味気ないものだと感じるだろう。

そうならないために、僕たちの先祖がコトバというプレゼントを残してくれたのだとしたら、僕たちは災害が起きたとしても悲観的に考える必要もない。

意外とそんな考え方から、僕たちは肯定感ということを学んでいるのかも知れない。

レクチャ―

1.日常がなければ非日常は存在しない。

2.コトバが存在しなかったら、今起きていることをそのまま受け取ることが出来ていたかも知れない。

3.先祖からのコトバというプレゼントが、僕たちの肯定感を生んでいるかもしれない。

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