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顔というメディア

最近、顔についてあれこれ考えている。

高齢者の顔写真を撮り、表紙にすることについて、少し考えを書いた。


自分史で表紙写真を撮る価値

特に顔に歴史が出ると書いたのだが、よく考えれば歴史だけでなく現在の自分についての情報も大量に掲載されている。それは静的な顔という意味もあるし、動的な表情もそうだ。普段意識しないが、人はかなりの情報を顔に乗せて、公共の場で情報提供し続けていると言えるのだろう。

顔だけでなく、体型、服装、所作も入れれば、もはやそれはライフヒストリーを常に提示しながら生活しているといっても良いだろう。身なりの良い貴婦人が泣くのを堪えるような表情で足早に歩いていれば、見る人はそこから何かを想起するに違いない。日に焼けた筋肉質の年配の男性がデパートのおもちゃ売り場にいれぼ、、農家なのか漁師なのか、建築関係の仕事なのか、孫にでも買うプレゼントを探しているのかと思わず頬が緩むかもしれない。

その情報は、かなり価値を持っている。例えば電車の中で落し物をして、誰かに拾ってもらうとする。誰に拾われるかで拾ってもらうほうの気分は大きく変わる。6歳の女の子に拾ってもらう場合。腰の痛そうなおじいさんに拾ってもらう場合。無表情な駅員さんに拾ってもらう場合。それは誰が良いということではなく、それぞれのストーリーが始まるということだ。そしてそのストーリーにはそれぞれの価値がある。

実は日常の会話でも、「会話の中身」と「それを誰が話しているか」は不可分であるし、体験や意思決定にはむしろ「誰が話しているか」が大部分影響していることも少なくない。それは知り合いの場合でもそうだし、初見の人でも外見から集めた情報で、人は多くを決めている。

特に高齢の方の意思決定には、話の中身よりも話している人そのもので決めているケースが多くあるように思う。これは脳科学的にも合理的で、要するに話の中身を判断するのは脳のリソースを多く使うが、印象で意思決定するのは簡単に早くできる。高齢になるとより効率的に脳を使うようになるということだろう。

意思決定だけでなく、我々が行なっているようなコミュニケーションサービスにおいては、提供している価値そのものがサービス提供者の顔によってかなりの部分が作られているということでもある。もちろん美男美女である必要はない。しかし、彼らの話を受け止められる現在の表情と歴史を伝える顔でなければならないだろう。あるいは個別の顔に基づいてUIとUXを設計する必要がある。

改めて、高齢者ビジネスをするときに、「私たちが誰であるか」を見た目にも説明にもどう表出させるか、が重要だと改めて認識した次第。


超例外的に、テレノイドという「私が何者か」を消し去ったメディアがあり、この体験は凄まじいものがあるのだが、それはまた別の機会に。

神山晃男 株式会社こころみ 代表取締役社長 http://cocolomi.net/