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ファイア・イズ・アウト、リメイニング・ヒート プロローグ


コックハート


 ネオサイタマ、鳶28区。ヨロシサン膝元の労働街のとある裏路地で、上弦の月の下、スシ職人見習いである青年カズヤ=カワゴエはデポジットスシオケを洗っていた。

 日々に倦み疲れた労働者に容器を返しに行く代わりにいくらかのクレジットを返却するデポジットの手間を呑み込ませるのは実際手間がかかったが、始めは小銭惜しさに、段々と返却率が上がってきたという。

 師匠に深いリスペクトを抱くカズヤ=カワゴエは「使い捨てでないデポジット容器を使う事で、労働者もまた使い捨てではない、というメッセージを伝えたい」という理念だと受け取っている。

 マッポーにも喩えられる世、重金属汚染された天を戴くネオサイタマでは異端も異端、楽天的を通り越しておめでたい思考である。実際、師匠も先の"理念"を聞けば、リピーター獲得と経費削減の策だと強弁するだろう。「わかっているさ」カズヤは言った。

 土壌汚染の薄い地下深くから組み上げた冷たい井戸水で、積みあげたスシオケの山を、未洗浄の左から洗浄済みの右へと移し替えていく。時節は冬の口とはいえ、プロセスも結果も、ゼン修行めいて過酷だ。

 やがて山は右側の一つだけとなり、スシオケを全て運びこみ、店内に入れて乾燥機にかけ、師匠、すなわち店主に一声かけると、息つく間もなくスクーターに乗って、夜のネオサイタマ、鳶28区を駆る。オカモチは空だ。デリバリーではない。

 三ヵ月前。スシオケを洗っていた裏路地で倒れた彼は、師匠に拾われる幸運に遭ったが、同時に当時の仲間とはぐれてしまっていた。サイオーホース……あるいはショッギョムッジョ。彼らはネオサイタマ市民ならばマケグミでさえ所持しているサイバーサングラスはおろか、戸籍といったものすら持たない。捨て子の集団なのだ。

 そのような彼を養子にし、カワゴエの苗字を与えた師匠へのカズヤのリスペクトは五大湖よりも深い。その師匠はカズヤに言った。ただ闇雲に仲間を追い、見つけても、何者でもないままでは『その後』がない。まずは手にジョブつけるべし!

 師匠にそう諭され、スシ職人としての修行と、出前の隙間を縫って捜索を行っていた。「フレデリカ。ルカ。キリエ……無事でいてくれ」寝る間を削っていることについて、実際苦言がなくもなかったが、「世界は捨てた物ではないのかもしれない」という事を、早く仲間にも伝えたかった。

 師匠からも、小さな店であるからこれ以上キッチンに人を入れる事は出来ないが、デリバリー要員として登録する事は出来るかもしれない、と言質も取っている。仲間たちと共に、明るい方に、光の方へ────

 夜を裂いて、火柱が上がった。

 近い。彼はブレーキを踏む事なく、しばらく徐行すると、やがてハンドルを傾けてそちらに向かった。取り立てた理由があったわけではない。「自分にも何か出来るかもしれない」という思いもなくはなかったが、彼はその善意を割り引いても、実際無軌道気味な所があった。

 やがて、路地の先に広場が見えてきた。嵐の去った直後のネオサイタマの空めいて、空隙がそこにはあった。──いや、あんな所に広場はなかったはずだ。カワゴエ=カズヤは訝しんだ。

 広場に近付くと状況がわかってきた。ここいらは木造や建材を中抜きされた安普請のバラックが並ぶ、半ば廃棄された地域だ。それらバラックが──半径何十メートルだろうか? 天から赤熱するプレス機マニピュレータが落ちてきたかのように、サークル状に焼き払われ、所々が熾火めいて赤い。

「目が……?」そこにあるのは高温である。眼球の水分が熱され、数秒で眼精疲労に近い痛みを訴えつつ涙が溢れ出し、眼球を保護する。歪む視界に眉を顰めながら、地面を両脚で順に蹴って、スクーターをバックさせる。

 火は消えている。その上でデンジャーだ。ターンして走り去るのが一番正しい反応だとわかっているのに、涙を溢しながらも、距離を取り──その場から去らなかった。明らかな異常が、その先にあったからだ。中心に、誰かが立っている。

「フレデリカ……?」口にしたものの、それはおかしかった。フレデリカはいささか痩せ気味な十代前半の少女であり、アレは一見して背が高すぎる。見間違えるなら、彼女より背が高いルカかキリエが妥当だろう。けれどどうしてかそう思った。

「……カズヤ=サン」背後から声がした。急いで首を巡らすと、誰もいない。そして背後に気配。そして不吉なアトモスフィア。声は似ている。とても似ている。けれども何かが、それが尋ね人である可能性を拒んでいた。

「その声は……キリエ?」視界を正面に戻す。誰もいない。背後に気配。スクーターを降り、スタンドを立てる……つもりで操作を誤り、転倒させた。かまわず全身で追う。背後に気配。ずっと。

「スマナイ、目が……そこにいるのはキリエなのか?」静寂ではなく、明確な人がましい沈黙が、そしてカズヤの決して穏やかではない人生で何度も味わった感覚──敵意が、背中に、否、後頭部に叩き続けられ続ける。

「キャタリナ=サン」前触れもなく上から……上から? 周辺の(まだ焼けていない)バラック群はパルクール移動するにも強度や安定性に欠く……そこから音もなく? それではまるでカトゥーンの……。

 上からやって来た女性は困惑した口調でキリエ……キャタリナ?へと問いかけた。「これは……?」「……"横糸"も"縦糸"も。半分以上死んだわ」「バカナ!?」「アレ」後からやってきた女性が向き直った雰囲気があった。キリエ……キャタリナが指で示したのだろう。

 サークルの中心の誰か──何かが。その指先を見ていた。「…………ニンジャ」「そう、ニンジャ。私がお墨付きをくれてやってもいい位の、とびっきりの殺戮兵器」キャタリナが言った。そして奇妙な光が、背後からうねうねと伸び来る。赤緑青の断片を擁した、奇妙な光。

「問題ない……どっちみち時間だ。"目撃者"諸共、飛ばすよ」キャタリナの冷えたコトダマが、とうとう自分と一切交わる事もなく、遠ざかりゆくカズヤ=カワゴエの意識の隅に残り、そして消えた。



アングバンド


 ネオサイタマ市街。猥雑さと別ちがたく結びついた活気に満ちた、残酷にして混沌なる街。そのどこでもない、どこでもあるネオサイタマの街角だった。それを構成する高層ビル群のうち一つ、天に上弦の月ひとつ、その屋上に立つ影が一つ。

「ッふあぁ……」三つ揃えのスーツで凶暴さを押し隠し、溢れ出すアウトロー感を演出するコーディネート。それは彼の前職──グレーターヤクザの習い性であったが、今彼が醸す凶悪アトモスフィアは、その気になれば、グレーターヤクザをドゲザさせ、組長を失禁させるだろう。それらは所詮モータルであるからだ。

 気怠げに癖毛を掻き、猥雑な街を見下ろす彼は、ニンジャであった。

 そして今、屋上の縁から何かが飛び上がり、床を3連続前転し継ぎ目のない動きで立ち上がり、ツカツカと近付いてくる者あり。人間……人間なのか? 尋常でない身体能力。ガンメタル色の衣装……ニンジャ装束。

「オーチン・プリヤートナ。はじめまして、アングバンド=サン。サボターです。貴方私のクエストの同伴者?」オジギ抜きのアイサツからの、返答を待たない本題。実際シツレイな態度だったが、その態度が正当となる程度の階級差が二者にはある。

 もっとも、サボターは本質的に日本的な礼儀作法を軽蔑しており──それは神聖にして不可侵とされるニンジャ同士のアイサツにも及ぶ。要は筋金入りであり、よほど目上でもない限り、誰に対してもこのような態度であるという意味でもあるが。

「ドーモ、サボター=サン……アングバンドです。こっちも同伴者が付いてくるってだけ聞いてたんだけど、アンタがそうなのかよ」対するアングバンドもシツレイ気味であった。サボターは大して気にした風もない……が、チラリと視界をよそにやると、途端に不機嫌になった。

「貴方……屋上のドアノブを捩じ切ってここに入ってきたのか?」「ッアン? そうだけど」「……イージオット(バカめ)。非ニンジャのセキュリティなどチリガミにもなりませんが、無駄に痕跡を残すようなマネをするべきでない」「あーッ……なるほどなるほどォ。反省するよ」ヘラヘラと笑うアングバンドに、サボターは聞こえよがしに大きな溜め息をついた。

「……貴方、クエストについてはどの程度理解している?」アングバンドは少し考えた。「エーットねぇ……敵を殺す?」「ヤズラスリーニヤ・イージオット。……我々の任務。鳶28区に潜入、マジックアイテムの『指輪』を回収する。ソロモンの、ともミヤモトマサシの、とも言われますが、詳細は不明瞭だ」

「フーン、それ敵はいないの?」「当然、想定されますね」「じゃあ半分合ってたな? 潜入。殺す。奪う。……アレ? 三分の一か?」「バリショーイヤ・スパシーバ。よく分かってるな。バンジットめ」

「わーッた、わかった、悪かったよ」険悪な雰囲気と軽薄な雰囲気が混ざり合わないまま、連れだって屋上の床を歩く。「ところで、……鳶28区だっけ? わざわざ『潜入する』なんて言い方するって事は……ソウカイヤの手が及びにくいってワケ?」

「イェブチカ。だから怒っていますね? クエストではさっきのように無駄に痕跡を残す事なく、やれ」屋上の鍵の事を言っているのだ。アングバンドは肩を竦めた。「……戦場で無能なものは背後から撃たれる。上官であっても。わかりますね?」

「あーッわかるわかる。ただ、撃つってんなら俺の方が得意だけどな?」言いながらアングバンドは袖口からチャカ・ガンを取り出した。袖口を通ってLANケーブルが後頭部のポートに既に接続されており、論理直結でトリガーを引くことが可能だ。

 前を向き、かつ歩きながら、それを背後に向け発砲。錠前が破壊された事でセキュリティ警報が鳴った為、確認に訪れたアワレな一般警備員2人が、ただ1発の銃弾で同時に頭を撃ち抜かれた。サボターは何も言わない。もう痕跡は残っている。この上で汚れが一つ二つ増えても大した違いはない……まして非ニンジャのクズが何人死のうと。

「足を引っ張らない。自分のケツは自分で拭く。……お互いにな?」「フバーチット。さっさと行く」「ヨロコンデー」チャカ・ガンを袖口に戻すと、アングバンドとサボターは同時にビルの縁から跳んだ。



ミゼリコルティア


 ネオサイタマ市街。猥雑さと別ちがたく結びついた活気に満ちた、残酷にして混沌なる街。そのどこでもない、どこでもあるネオサイタマの街角だった。

 どこでもないとあるカフェーの一席に、一人の女が座って煙草を吹かしている。女性としては高い身長、赤く染めたショートの髪。適正サイズのYシャツとスラックスは清潔に洗われているが、何度も着まわしているのか色が落ちている。普通にしていれば均整の取れたアーモンド形の瞳は、眠たげに下ろされた瞼と僅かな隈で陰っていた。耳には左右非対称に配置された銀のピアス。『ピカピカに磨かれている』とは形容し難い。

 全体に落ちる陰の印象はしかし、とあるヤクザの情婦であった時代の残滓か、いかにも無頓着な振る舞いにも昏い色気と、抜き難い暴力の差し色を与えている。それは過去の事であり、あるいは現在の事でもある。

 読者諸氏には予想がついている方もいらっしゃるかもしれない。その通り。ニンジャである。それもソウカイヤ全盛のネオサイタマシティにおいて、無所属を貫き通すフリーランス暴力装置である。

 客が一人、また一人と消えていく。彼女は気付いていたが、特段気にしない風を装った。こういった"演出"は傭兵をやっていると時たま出くわす。一匹狼を気取る"社会的弱者"に、組織力や権力などがパワを誇示するポーズ。

 やがて他の客が一人もいなくなった所で、彼女は手を挙げた。無論、店員すら来はしない。明らかに店員ではない二人組が近付いてくる。

 二人組が無言で腰を降ろす直前、「ラストオーダーだってよ」傭兵が機先を制した。身形の綺麗な二人組の、いかにも"理解し難い"という表情を大して面白くもなさそうに──しかし笑顔を作って眺めると、煙草を灰皿に押し付け、オジギをした。

「ドーモ、始めまして。ミゼリコルティアです」依頼人二人は相変わらず困惑したような様子を見せていた。が、ミゼリコルティアの視線はシリアスだ。やがて、二人組は煙草の火を押し付けて消すように困惑の気配を霧散せしめ、オジギを返した。

「ドーモ、ミゼリコルティア=サン。サタナキアです」「ドーモ、ミゼリコルティア=サン。スネークフットです」さて、こういう場合は後に名乗った方がエラいんだっけ? マナーを記憶の底から引っ張り上げようとして、やめる。誰が依頼を達成できるか? 誰に支払い能力があるか? 傭兵稼業で重要なのはそれだ。

「よく気付かれましたね? 私達がニンジャだと」すぐにアイサツを返さなかったシツレイを詫びた後、スネークフットと名乗った十代前半の美しい少女の姿をしたニンジャが、ソンケイの眼差しで問うた。

「まぁね」対してミゼリコルティアは軽く返す。依頼人──ニンジャからすれば、どこでバレたのかが気になるに決まっている。わざとらしいソンケイの仕草もそれだろう。だが依頼の額面も分からないうちにリップサービスする気はミゼリコルティアにはなく、何より、鎌掛けハッタリは傭兵の基本にして奥義だ。

「いいですね。貴女なら前払い金を多くお渡ししてもよさそうです」ミゼリコルティアは内心の喜色を隠し、サタナキアと名乗ったニンジャを見遣る。どこかガイジンの血が入っている風なスネークフットと違い、正当派の大和撫子といったアトモスフィアだ。しかしミゼリコルディアの関心はそこにはない。

(((こっちが払える方ね。了解)))即物的なのである。

「……で、オタクら、どこのニンジャ? ソウカイヤじゃないよね」次々と仕掛けていく。最初に組織力を見せつけておきながら、ソウカイヤのバッジを提示しなかった、という事実をほんの少しの言葉で飾っただけだ。だがどんなに小さくとも相手のウソは、それを暴く事で機先を制する切っ掛けになる。ビギナーほど痕跡を隠そうとして新しい跡を作る。

「あーいや、詮索するなって言うなら黙るさ。モチロン。支払い能力、本当にあるのかなーって思っただけだから」果たして、サタナキアが指示し、スネークフットが卓上に置いたアタッシュケースを開くと、大量のコーベインが並んでいた。

 サタナキアはコーベインをひとつ、それから口元に指を置いた後でふたつ、ミゼリコルティアの前に置いた。傭兵は鷹揚に頷くとそれを懐に収めた。前金ではなく、あくまで話を聞くだけのカネだ。
 
「景気いいね。尚更気になってきちゃったけど……ま、仕方ないよね」「鳶28区はご存じですか?」掛かり気味に本題が始まる。ミゼリコルティアはペースを握られないよう、殊更にリラックスした様子で傾聴する態度を取った。

「ヨロシサン製薬のテリトリー……ソウカイヤをご存じなら話は早いですが、彼らも基本不干渉のエリアです」「そのココロは?」「旨みの少ない労働街……というのが表向きの事実ですが」 いささかの間が開く。先程までの意趣返しに、情報アドバンテージを出来るだけ保持しようとしているのだろう。かわいいものだ。コーベインで懐が温かいミゼリコルティアは寛容に流した。

「三年ほど前に、『ニンジャ消失事件』が起こっているのですよ」「……ほぅ」 ニンジャ消失事件? 思わずオウム返しにしそうになったのを何とか抑えて、先を促す。ここネオサイタマではドヤ街・裏路地は無論の事、表のビジネス街で白昼堂々であろうと神隠しじみた行方不明が起こる事など珍しくもない。ネオサイタマの昼夜に陰謀が欠く事はなく、またそれを実行するニンジャにも事欠かないからだ。

 だが、そのニンジャが消えるとなれば……それは異常事態を超えた異常事態だ。ともすれば死ぬよりももっと。「そんな話もあったかもな」ミゼリコルティアは"よく知っている"という体で答えた。「そして三ヵ月ほど前から、ニンジャの消失が再び起こるようになったのです。そこ、鳶28区で」

「……あなたへの依頼は、その事件を調べ、可能なら解決していただきたいのです」ミゼリコルティアはニューロンにいくつかの思考を素早く流しながら相槌を打った。「フーン。危険なビズだな」「フフ、御謙遜を」スネークフットがヨイショした。

 実際ヤバいビズだ。ミゼリコルティアは唸る。ヨロシサンの知られざる秘密兵器? 組織的犯罪? なんらかのレリック? あるいは……ジツ。どれも危険な可能性である。

 他の可能性を探る中で、ミゼリコルティアはふととあるフリーランス界隈の都市伝説をもここに並べるべきかと思い至った。"ネオサイタマの死神"。

 何度か"それ"に関わる……と思われる仕事に駆り出されそうになったが、いずれも契約成立前に依頼人(ソウカイヤのニンジャ)と連絡が取れなくなるなどして、お目見えする機会も調べる機会もそうなかった。依頼がなく、報酬もないのに調べたりはしないのがミゼリコルティアの流儀だった。情報はタダではない。売るのも、買うのも。

(((ああいや、死神は三年前には活動してなかったっけか……?)))もっとも、三年前の事件と現在進行形の事件が同一の原因である根拠もない……もし解決してもそこを言い抜けられ、カネを受け取れない危険がある。ミゼリコルティアの警戒はそこだった。

「調査の報告形式、また"解決"の条件は?」「調査については一ヵ月ほど鳶28区に滞在していただきます。その後"今回の事件について"レポートを。解決したと見做されれば、倍額保証でボーナスを支給しますよ。武器の持ち込みも、必要なら住居の手配もさせていただきます」

 なるほど。あくまで調査は今回の件に限る、と。そして一ヵ月の滞在期間。ニンジャが消失するというのなら、そこでニンジャが消えても状況を解析する手助けになるし、あるいは必要に迫られて解決しようとするかもしれない。忠誠を前提とせず、インセンティブで人を動かす、というわけだ。

「つまり……私だけじゃないって事だ? この仕事の話が来てるのは」「その通りです。先着順ですね」「フーン」先着順、というはよくある射幸心を煽る誘い文句だろう。こちらを転がそうとする態度は終始気に喰わないが、依頼人と言うのは得てしてそういうものだ。軽く流すに限る。

「で、報酬の額は?」目の前にコーベインの束が置かれる。「これは前金です。成功報酬は倍」ミゼリコルティアは唸り込んだ。一ヵ月という拘束時間は頂けないものの、その一ヵ月、割のいい仕事が入る保証はない。そう考えれば、割に合わないという程でもない。むしろいい。解決報酬の更に倍というのはスルーしたとしても、だ。

 だがいくらか気になる所もある。「最後にもひとつ質問いいかい? 何の為に、ネオサイタマの支配者でもない……ないよな? アンタらが、こんなリスキーな事件を?」サタナキアはコーベインを更に三枚卓に置いた。そして「これは前金です。成功報酬は倍」と繰り返した。

 ミゼリコルティアはそれを見下ろして、軽く鼻を鳴らす。「引き受けよう」即物的なのである。


ノーボーダー


 ネオサイタマ市街。猥雑さと別ちがたく結びついた活気に満ちた、残酷にして混沌なる街。そのどこでもない、どこでもあるネオサイタマの街角だった。

 ある時は建物の縁、立て看板の影、あるいは酔漢の群れの背後を堂々と、ある時は「忘れがたい」「気持ち」「おマミ」など煽情的ネオン看板の光が不可逆的に作り出す影から影を渡るように、静かに、素早く、悠々と、二人の人影が歩いている。

 スニーキングに気を払い、ほとんど無音で歩いているにも関わらず、その進行速度は常人の倍にもなる。ニンジャなのだ。

 彼らはとある調査任務の為、鳶28区に浸透し、調査を行っている。浸透して──。

 二つの影。その一つは、男とも女ともつかない、しかし中性的というよりは両者の特徴を混ぜ合わせて平均値化したような印象の素顔を晒すニンジャ。もう一つは逆に、ガスマスクめいた気味の悪いフルフェイスメンポで顔を覆っている。

 ここで仮に読者諸氏が、このフルフェイスメンポ者の内心を知ろうとなんらかの読心術的アプローチを仕掛けた場合、それは容易に成功し、そしてひどく困惑する事だろう。

(((女子高生と相互血液循環したい)))変態だ! コワイ!

「……相変わらず顔が見えないのに顔に出るお人ですこと」「ノーボーダー=サン。君今何かシツレイなコトを言わなかったか?」「イイエェ滅相もない。それよりよろしかったんですの? 御面倒おかけしちゃって」男女平均的ニンジャは、男女平均的な髪をかき上げる仕草をした。

「グランドマスター・ヴィジランス=サンにもよろしくお伝えいたしますワ、ネ? モスキート=サン」「そうか?……いや、いい。電算室にそれほど興味はない……ストーカー=サンもちと循環欲が湧かぬでな」

 グランドマスター? 電算室? ネオサイタマを裏から支配するソウカイヤにもそのような階級、また所属は存在しない……ナムサン! 彼らはソウカイヤと冷戦状態にあるキョートのニンジャ組織、ザイバツシャドーギルド所属のニンジャなのだ!

「ほほ……短いお付き合いですけれど、あそこがアナタに向かない、失礼、アナタがあそこに向かないのは承知しておりますとも」「君今何かシツレイな事を言わなかったか?」「イイエェ滅相もない」慇懃無礼な態度!……ではあるが、実際状況の理はどちらかといえばノーボーダーにある。

 高い調査力やキョート的手管による浸透能力を持つものの、カラテに欠くノーボーダーを護衛するという面倒な仕事を、モスキートには請け負ってもらった恩はある。しかしほんの半日で『循環欲求』などという、その内容を聞いても余人には理解できないと吐き捨てるか、さもなくば発狂するような衝動を段々と強め、様々な理由をつけて『より女子高生が見つかる可能性の高い』人通りの多いエリアへと迷い出て来ているのだった。

 人通りの少ないエリアは十分探した。むしろ人通りの多い所で堂々と歩く女子高生もとい人混みに紛れている可能性重点、というのがモスキート=サンの言い分だが、キョートの複雑怪奇な複合的情報操作を日常的に扱う電算室所属ニンジャに、そのような薄いタテマエが通用するはずはなかった。

 無論、タテマエが通じていない事はモスキートにも理解できている。彼は変態的欲求を抱えているが、実際バカではない。だからこそ、護衛の恩を現在進行形で消費させつつ付き合わせている……事が分かっている。ノーボーダーの先の電算室を紹介するという言い回しも、半ばお礼であり、半ば脅しである。

 無いとは思うが、万が一グランドマスターに直接派閥入りを勧められた場合……それも"お礼"として指名された場合、断るにも多大なリソースを費やす必要があろう。それがキョートという土地の性質だ。電算室は歴史が浅く、常時人員を募集している。ザイバツ内の派閥闘争における力関係が弱く、休暇が実際ない。

 だがモスキートにとっての喫緊の問題は、そのようなリスク・コストを支払っても、労働街でしかないここ鳶28区で発見可能な女子高生的要素は、妙に薄っぺらいイミテーション制服を着て呼び込みを行うノミ屋の従業員くらいだという事である。切ない。モスキートはメンポの長細い口先から長細い息を吐いた。

 と、モスキートの呼吸音が途中で止まった。パタ、パタとコンパクトな動きで全周を警戒しだす。鉄火場に相応しいスキルを備えていないノーボーダーにも、その異変は伝わった。彼は本気だ。何かを捉えたのだ。「…………下水道?」モスキートは呟いた。

「そこにマンホールがありますわネ」モスキートはノーボーダーが指さした路地裏に素早く移動すると、マンホールの縁を素早くストンピングした。ゴォン、と音を立てて浮き上がったフタを素早く掴みぞんざいに脇にやると、素早く暗い穴に降りていった。

「え、イヤ、護衛は……」イヤな予感がする。ノーボーダーは急ぎ、穴に飛び降りる。カラテに欠くと言ってもニンジャだ。十メートル暗所の落下程度、何という事もない。果たして下水道の歩廊に着地し、数秒間顔をしかめた後立ち上がると、風に乗ってやってくる音を探った。

「…………フ ィ ー ヒ ヒ ヒ ィ ィ……少  女  だ  !  !…………少   女   の   気      配     が      す     る………………!     !」

 恐るべき速度で遠ざかっていく恐るべき声。ノーボーダーは追うべきか迷い、頭痛を抑えるような動作をした。これは一体何重に脱線した状況なのだ? もう置いていくべきでは?イマジナリーヴィジランスにそのように問うた。

(((「タスクが終わったら次のタスクを探せ。デスマーチは終わらない」)))

「……ヨロコンデー! ガンバルゾー!」ノーボーダーは邪悪なチャントを唱えると、そこそこの速度、ニンジャとしては並以下の速度で走り出す。もし追いついた時にコトが終わっていれば、いくつか貸しを作り、ともかくこのミッション中は大人しくさせられるだろう。させられるといい。

 だが……ノーボーダーの懸念の中心はそこにない。「こんな所に少女、ですって……?」そう、モスキートのように欲望によって正気を喪失していなければ当然疑問に思うはずだ。下水道に少女。掃き溜めにクレーン。何かがおかしい。

 ノーボーダー達はそもそも鳶28区に出現するとされるリアルニンジャを捜索に来た。ザイバツは探しているのだ。世界の根幹に深く関わるリアルニンジャを。(((もしも探しているリアルニンジャが少女の姿をしていたとして……それが現代まで生き残っているとしたら……それが見た目通りのカラテである可能性はどのくらいあるかしら?)))

 リアルニンジャとは純然たる修行と絶えざる克己によってモータルの枠を超越したものである。故にどのような姿をしていても、それがカラテに欠く可能性は皆無と言っていい。そもそもノーボーダーのミッションはリアルニンジャここ鳶28区に存在するかどうかが分かればベター、どのようなジツ・カラテを使うのかを観察できればベスト、という程度のものだ。仮にモスキートがリアルニンジャに会敵していれば、その痕跡を調べて特徴を知れるかもしれない。ミッションクリアだ。

 とはいえ、そのような想定は実際メルヒェンに過ぎる事は重々承知だ。現実はただの少女、素行不良少女、モータルの特殊部隊、在野のニンジャ、ソウカイヤのニンジャの順で厄介な事態になる内のでどれか、という話でしかない。

(((最悪、ソウカイヤとの無益なドンパチ)))……とまで考えた所で、先程までしていた変態的大音声エコーが聞こえない事に気付く。カラテ戦闘音も、血液循環に伴う異音も、爆発四散音も聞いていない。ただふと無音になったのだ。ぺた。

 ぺた、ぺた、ぺた、ぺた……。
 
 暗闇の先から、小さな足音がする。鉄火場に不釣り合いな、小さな足音。曲がり角の向こう。暗闇の奥。近付いてくる。当然、モスキート=サンのそれではない。逆立ちで歩いてきているとしたら話は別だが。

IRC端末でモスキートに連絡を取ろうと……圏外である事に気付いて舌打ちした。モスキートの生死すら分からない状態で、ヘタに敵対していいのか分からない存在にエンカウント……? 「ちょっとちょっともう……最悪以上じゃない……?」撤退すべきだろうか?

 だが迷う時間もあらばこそ。横を流れるネオサイタマのヘドロが、オイル色とも違う奇妙な多重色に輝いた。「……ヤバい? ヤバいわよねコレ……」輝きは水中で伸びる。触手のように……。

 ノーボーダーは身を翻し、走り出す。だが遅い。向こうは早い。光がヘドロから這い出でた。赤・緑・青の断片を擁する奇妙な光────ノーボーダーの最悪以上はまだ続く。



アンバーンド


 ■■・■■■はぼうっと立っていた。極彩色のグリッドが走る、四方遮るもののない景色。上方にも無限……と思われたが、その天頂には巨大な金色の立方体が輝いている。「ブッダ……見ていますか……」彼は呟いた。

「いや……ユメ?」「そうとも言えるし、そうでないとも言える」「アイエッ……」何の前振りもなく背後から声をかけられ、小市民的にビクつきながら振り返ると、そこにはフードを深く被った何らかの……存在がいた。

「ドーモ、ドーモ! カロン・ニンジャです! 地獄にようこそ!」カラカラカラカラ……と奇妙な音が鳴る。……笑い声なのだろうか? 相変わらず顔は見えない。異常な景色。異常な人物。異常な言動。

「アー……」一般人を自認する彼は、理解の外の事柄について心を殺した。ネオサイタマ労働者階級の基本的ムーブである。「あ、申し遅れました。私、鳶28区のスマイル労働で働いております……」彼は改めて名乗ろうとして、気が付いた。名前が出ない。

「アレ? 申し訳ありません、あああの、言えないのではなく、信じていただけるか分かりませんけど、その、自分の名前を失念してしまいまして……」「アーッ いいのいいの気にしないで。僕のカロン・ニンジャって名乗りもウソだから」カラカラカラカラ……。
 
「ハァ……」彼は『相手がいいと言っているのだからいい』を実践した。ネオサイタマ労働者階級の基本的ムーブである。「それでエト、ここはどこなんでしょう? 鳶28区ですかね? 明日も朝5時始業で……戻らないと」

「ハハ、戻れないよ。言ったでしょ? 地獄だって」「エッ」カラカラカラカラ……。何かが可笑し気に鳴る。強いて作った笑みが引き攣る。「冗談……なんですよね?」

「どうしてそう思うんだい? 見なよこの光景。君のニューロンがこれだけの風景を用意できると言うのかい?」カラカラカラカラ……。(((それは、……実際、その通りかもしれない)))彼は周囲を仰ぎ見た。瞬き事に移り替わるカラー、パターン。一瞬ごとに新鮮で、かつ太古から続くが如く普遍。

「実際地獄に相応しい光景じゃない? そうじゃない、と否定する根拠は何なのかな。君の人生経験に照らして、ここはどこなんだと思う?」「だって……それは……」「うん?」

「私は……まだサンズ・リバーを渡っていませんし……ブッダにも会っていませんので……」「………………」ガラガラガラガラガラガラ……。

「ハハハハハ!! なるほどね! いやぁ信心深いんだなぁ君は!!」「ハハ……」■■■にも、目の前の存在の笑いは多義的だった。冗談に対しての笑い。そして、それが『冗談だろう?』という悪意、嘲笑のメッセージ。

 ネオサイタマの下層労働者にとって、信じる物を持つ事は難しい。それは利益を与え、幸運を祝福し、不利益を回避させなければ、何物でもない。しかし、それは、それだけは■■■にとって重要な大前提だった。ブッダは見ている。悪人に天罰を与えず、善に報いる事もないとしても、見ているのだ。

 それは、反証不能で非科学的で非合理的な信念であり、故に人を説得する力を持たない。あるいは自分自身をさえ。

 ローブの存在は散々嗤い続けたが、普段そうするように心を殺して悪意が過ぎ去るのを待つ■■■を見て、つまらなそうに鼻を鳴らした。「なるほどね。知らない景色。理解できない状況。信用ならない人物に受難しても自我崩壊しないのは、それのせいか。そんなちっぽけな」

 簡単に消し去れると思ったんだけどな、と何か怖ろしげな事をのたまいながら、ローブの存在は地面──砂浜に腰を下ろした。するとスノーボールじみて01ノイズが舞い上がった。■■■は驚いた様子で目に手をやり、そのまま指で目を叩き、うずくまって痛みに耐えた。
 サイバーサングラスは……していない。だが、01ノイズは何度瞬きしても消えない。ただ時間経過で流れていく。「悪いけどこれイニシエーションなんだよね。君、まだモータルのつもりなんでしょ」「モータル(定命)……?」「そのままじゃ不味いんだよね、これからの状況はさ」「ハァ……」

 『ローブの奥』が下からじっと覗き込んでくる。■■■は視覚ではなく、もっと深い所で理解した。これの、これの奥には『ローブの奥』があるだけで、『その先にある何か』はない。その実感が……麻痺していた恐怖心を……脊髄の中を毛虫が這うが如くゆっくりと……這い上がる。そしてどうする事も出来ず、ただ知覚した。

「で、僕は……正確には名乗らないんじゃなくて名乗れないんだよね」カラ……と少しだけ悲しげな音が鳴った。「何故って、名は他人を呼ぶ為のものだ。けれど僕の名前はいまや君の名前でもあるからさ。僕が名乗ってしまえば、君はその名を『自分ではないもの』として認識する。それじゃ困るだろう? 僕も困る」「ハァ……」

「君はいつもそうだね」『ローブの奥』がグッと近づいて来た。この存在は"見ている"。目前のこの自分ではなくもっと深みのあるものを認識している。表紙だけ見て本の中身を知るように。過去を……あるいは未来の可能性さえも。

 ■■■は理解していく。そして恐怖していく。根源的な恐怖とこの奇妙な人物・世界の節理への理解度が、互いに比例して上昇していく。

「くだらないジンクスの他は、主体性のない、奪われるだけの労働者。でも自分の良心からそうしているわけじゃない。わかる事もわからないフリ。知っている事も知らないフリ」

 おそろしい。■■■は知らず目を伏せていた。「純粋な被害者などいない。運良く奪う側になれれば、奪う。それが人だ。搾取の機械を構成するモータル。左右のパーツとも交換可能で、何より上下のパーツとも交換可能だ。君もそうなる」

 ■■■は未来を断定する超自然のパワーハラスメントに、奇妙なニュアンスを感じ、伏せていた目を上げた。"君もそうなる"……? だが、思考をまとめる前に『ローブの奥』と目が合った。小さな勇気が瞬時に凍り付いて、無限の後悔に落ちていく。

「深淵を見る時、深淵も見てる」ふとそんなコトダマが■■■のニューロンをどよもした。古い警句だ。深淵はコワイ。ならば解決法は? そう、「深淵なんか見なければいい」のだ。

 だが。■■■は全身を不明な寒気に覆われながら……氷の縦洞窟を落下するような感覚を覚えながら、その感覚を言葉にしようとした。深淵の方にイニシアチブがあるとしたらどうだろうか? 深淵がこちらを見る時、こちらは深淵を見ているのでなければならないのだ……。

「ありふれたモータルの悪性を、君は全て持っている。だから君は落ちる。理由も切っ掛けもいらない。生きているから落ちるのだ。だから、いいだろう。まずは『君』でいい」

 気付くと、空間は夜だった。上弦の月が視界の端に入った。『奥』に囚われた自分の視線は、もはや僅かも上げる事は叶わないが、黄金立方体がこの空間の天にはない事は明らかだ。何故だかそう確信していた。

 『奥』が……究極の点が、そのまま一本の線になり、三次元的に軸を拡大して……光の柱となり、その存在のローブをも呑み込み、消し去った。拡張した『奥』だけがそこに残る。いや……もう一つだけある……この……。


「私が」冷たい床を感じながら目を開く。曇色のコンクリート打ち放しの天井が目に入る。パワリオワー! 誰かの連絡端末が鳴った。「ハイ出社します!」急いで飛び起きると、その声色につられて他にも数名飛び起きた。

 パン、パン、パン、と胸ポケット、パーカー、ワークズボンのポケット位置を順番に叩く。三十絡みにも関わらず、迫力の出る気配が全くない生来の童顔とも相まって、小動物じみた動作の早さはカトゥーンの戯画化小市民ムーブじみている。

 端末はなかった。落としたのだろうか? あの時……あの時? いつ? 周囲を見渡す。天井と同じく曇色のコンクリート打ち放しの、単純で広いトーフのような空間。当然、自分の部屋ではない。不快げに唸る三人と一人にも見覚えは無い。というより、普段関わりのある人種ですらなさそうだった。

 身を起こす三人以外の一人……彼?彼女?は、目覚めたのはこちらが先だったのにも関わらず、既に立ち上がり、周囲をチェックし『状況を掌握している』とでも言いたげに泰然と構えた。素早さや警戒心とも違う、何か『ソツのなさ』に類するスキルだ。「アラ、みなさん、お目覚め?」

 声を発したその一人は……やはり男とも女ともつかない、しかし中性的というよりは、両者の特徴を混ぜ合わせて平均化したような印象を与えた。ニューハーフではないようだが……とまで思った所で不躾な視線だったと思い、奥ゆかしく逸らし、返事は留保しつつ周囲の人間を見る。

 凶暴さを三つ揃いのスーツに押し込めたようなの男が、癖毛を撫でつけながら身を起こした。レッサーではない高位のヤクザだろうか? 奥の人物はまだ寝ている。にも拘らず、その意識は身体の隅々まで行き渡っている。『隙の無い寝姿』とでも言うべき矛盾した態度は、言外に「私の同意なく起こすな」と告げていた。

 対照的に、そして自分にとってはいささかの親しみを感じる事に、遅れて、しかしキビキビとした動作で立ち上がったのはスシ職人衣装の男。何故だかあちこちがケンカでもした後のように汚れているようだ。目には力と……困惑が宿っている。「キリエ!? どこだ……? ここは……一体!?」

 誰かを探しているのだろうか? ともかくこれで全員……五人。自分も立ち上がる。男女平均的は不機嫌そうにアグラをするヤクザと、タヌキ寝入りする女を見遣ると、軽く、それでいて何か荘厳な歴史的様式を感じさせる動作で両の手を合わせた。

「ドーモ、ノーボーダーです」

「ドーモ、ミゼリコルティアです」「……ドーモ、アングバンドです」意外にも、アグラで反社会的な目付きをしていたヤクザ風の男が、その動作とアイサツに応えた。一早く答えた女は相変わらず寝転んだまま、不遜と不精極まる姿勢のままであったが。

 そして自分もまた……何百回、何千回と繰り返したように、自分の知らない流麗な動作で、両の手を合わせた。「……ドーモ、アンバーンドです」「全員……!?」スシ職人風の男が、驚きの表情の後、ぎこちない動作でアイサツ動作を行った。

「ドーモ、ノーボーダー=サン、ミゼリコルティア=サン、アングバンド=サン、アンバーンド=サン……コックハートです。本名はカズヤ=カワゴエ。イタマエ見習いをしている。師匠以外のニンジャを始めて見た……」

「マスター(師匠)? アンタザイバツアプレンティスってワケ?」ノーボーダーがコックハートに問う。「ん? いや……ザイバツ、というのは聞いたことが……」「ア?」両者の言葉に割り込みつつ、グレーターヤクザ風の男がスタン、と音を立てて立ち上がる。

「お前ザイバツかよ……」「あら、気付いてなかったの? 流石は猥雑なるネオサイタマのソウカイヤの構成員サマね」「ッ抜かせよ、キョートのなよなよしたニンジャ……ナンデ? 俺がソウカイヤだって知ってるのかよ」ノーボーダーがこれは素で呆れた様子を見せる。

「もひとつ気付いてなかったの? そのスーツのクロスカタナ刺繍、ソウカイヤでしょ?」グレーターヤクザ風の男……アングバンドは少しバツが悪そうにした。ソウカイヤに入って日が浅いのだ。「ちなみにアタシはここ」と、ノーボーダーは胸元のペンダントを見せる。彫金された罪罰紋。ニンジャ秘密組織……罪罰影業組合の証だ。

「ザイバツがこんな所で何してんだよ……アァッ!?」「品がないわねぇ。それに無思慮。アンタ、私がやる気なら寝てる間にとっくに爆発四散してるのよ?」グッと言葉に詰まるアングバンド。実際には目が覚めたのは全員ほぼ同時だった為、ノーボーダーにそのような機会はない。ハッタリである。

 牽制の意味でノーボーダーから投げかけられたウィンクをアンバーンドは受け止め、コクコクと頷いた。目の前で飛び交う駆け引き、事情・詳細は分からないが、少しでも暴力的でないように見える方に肩入れする反射的小市民ムーブである。

「そもそもここがネオサイタマかすら分からないし……いつの間にか気絶して起きたらここにいるって感じなんだけど」「手前らの下らねぇジツやら面倒な策謀でなけりゃな、オカマ」「フフン、ザ~ンネン。その手のコトダマは慣れ切ってるのよ~。もっと頭を使ったらどうなの?」「ッソーかよ。悲惨な人生だな」ペッと唾を吐き捨てるアングバンド。一触即発アトモスフィアだ!

「あのさ」のそりと女が身を起こす。「うるさいんだけど。……アタシ酒飲んでたんだよ。前金ごっそりもらってさ。気分良く飲んでたわけ。下らねぇイザコザで頭痛くなったらどうしてくれんの」その唐突にして傍若無人な物言いに、虚を突かれたようになったノーボーダーとアングバンド……アングバンドが先に立ち直り、旗色を明らかにすべく問いかけた。

「……アンタどっちだよ」「あぁ? アンタらと一緒にすんな。私はフリーランスだよ。これ名刺な」 言うが早いか手元が霞み、電撃的速度で二者、いや四者に四角く固く小さなカードが飛来する!

 アングバンドとアンバーンドは人差し指と中指でそれを挟み取り、ノーボーダーとコックハートは握り潰すようになんとか掴み取った。それは攻撃ではない。名刺だ! だがノーボーダーは焦った。(((カラテを探られたの……!? コイツ、デキる……!)))

 冷や汗を流すノーボーダーを余所に、最も警戒していたアングバンドはしげしげと名刺に注目していた。ウカツだ。「傭兵ね……。ヤクザ組織もクローンヤクザの卸しでスポイルされる時代だぜ? ソウカイヤの膝元でそんなジョブ成り立つのかよ」

「アンタニュービーか? 網が広けりゃ目も大きいってね……網から漏れたクズ仕事を請け負う奴もいるし、サンシタじゃ手に負えねぇビズのケツ拭きが回ってくるやつもいる」言外のお前はどっちだ? というアングバンド視線に、さあな、というジェスチャーが返る。(((実際コイツは相当やるだろう)))アングバンドのニンジャ第六感が警鐘を鳴らす。

(((純粋なカラテでは恐らく……分が悪い。 単純なフィールドではフーリンカザンは向こうにある。この距離はニンジャなら一瞬で詰める)))アングバンドは舐められない程度にやや態度を収めた。「そりゃスゴイ」

「あーそーだ」ミゼリコルティアは寝返りを打って肘を付き、眠るブッダのポーズでノーボーダーに水を向けた。「で、エート……そっちの……オニーサン? オネーサン?」「どっちでもいいわよ。呼びたい方で呼ぶといいわ」「そりゃ重畳。ノーボーダー=サン。寝て起きたらここに居たって? 寝る前、もしかして鳶28区にいたか? ネオサイタマの」

 その言葉には全員が反応した。居住していたアンバーンドとコックハートが『何を当然の事を?』と首を傾げ、ニンジャの……つまり一般的には十分極秘に属するクエスト中であったアングバンドとノーボーダーは『何故知っている?』と眉を顰めた。

「そーかよ……じゃあやっぱり……これが鳶28区のニンジャ消失事件、その渦中ってワケだ」傭兵がニタリ、と笑った。

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