うちのばあちゃん冒険譚

#あちこちのすずさん というタグを見て、うちの祖母の話を長々としたいのでお付き合いください。

そう言ってツイッターで呟いてた内容のまとめです。




うちの祖母の戦争の思い出は、キラキラ輝く青春と、飢餓に疲労に弾ける頭と死の恐怖に怯える少女の記憶でした。それを幼い頃からなんども聞かされてきた私にとって、戦争は祖母の冒険譚でした。

戦争が始まったとき祖母は15歳で、知ったのは新聞やラジオの放送。家の前が新聞記者の集まりだったので、それより早く情報は入ってきたから大人が忙しなくしてたのを覚えていたそう。
今でも昭和16年12月8日のラジオだとスラスラ言います。
開戦の話では、真珠湾に行った潜水艦は5隻で一隻に二人乗るはずなのに、新聞に9軍神と書いていたから、きっと一人は捕まったんだろうと。昔は兵隊さんが戦争で亡くなったら神様になるから、その9軍神はとくに特別に扱われていたようです。

歴史として今どう語られるようになったとしても、実際にあの日に生きていた祖母の認識はこれでした。

そんな祖母ですが、昭和17年の9月にフィリピンのマニラの軍司令部に志願しました。このとき満16歳。なぜ言ったのかと聞くと、姉が行くから私もという理由でした。船でフィリピンまで向かったのですが、海にたくさんのアメリカの戦艦や飛行機が沈んでいたのを覚えているそうです。

祖母のマニラでの生活は、戦時中とは思えないほど豊かなものでした。軍事拠点でしたので物資は豊富で住む場所も広く、庭にはテニスコートがあって、フィリピンの現地の方々をからかったりと日本では考えられないほど楽しく過ごしていました。なので国内の話を知りません。

祖母は今でもマニラの夕焼けは世界一だと言います。それでも、その空にもどんどん戦火が舞い、目の前で戦闘機が撃ち落とされるのを何度も見たそうです。日本軍は負けたらしゅーんと海に戦闘機ごと墜ちていくのに、米軍は兵だけパラシュートで降りてくるのだそうです。
日本はパラシュートを使うのが勿体無い、負けたのに生きるのは恥だとそのまま墜ちていくそうです。一度祖母が住んでいる所の屋上で戦いを見ていた時に米兵がパラシュートで降りてきました。兵はすぐにナイフと銃をこちらに渡してきたので急いで取り上げ捕虜として捕まえました。
その捕虜は殺されたやろうな、とさらりと言ったことが、いつもの祖母とかけ離れていて、ああ戦争を体験した人なんだなと強く感じたのを覚えています。それを皮切りに、どんどん血なまぐさい話になっていきました。あれで死んで、これで死んでとすらすらと言います。

昭和19年までは本当に幸せだったと言います。服も靴も全てオーダーでクローゼットいっぱい。食べ物も見たことがない美味しいものに囲まれ、兵隊さんには可愛がってもらい、小さな恋もしたり。それが12月か1月頃にがらりと変わりました。米軍がフィリピンに上陸したからです。
祖母達は日本兵と一緒に山に逃げ込みました。大体20人くらいで、山の中での生活が終戦まで続きます。車で逃げられなくなれば徒歩でひたすら逃げ続けます。食料は兵隊さんが女性達に優先的に回してくれ、本人たちは蛇や木の根で飢えを凌ぎ、それらが尽きれば畑から泥棒し。
周りの芋が無くなれば移動の日々を送りました。この生活の間、兵隊さんが本当によくしてくれたと祖母は言います。木やバナナの葉で家を作ってくれた、水がある場所を探して行水させてくれた、テング熱にかかって朦朧とした自分を守ろうとしてくれた。
祖母の冒険譚に出てくる日本兵の方たちは、優しくて、お茶目で、力強く記憶されています。山に逃げる前、バギオ?に居た頃は祖母がミシンで作った布の袋に兵隊さんが火薬を入れて、米軍の兵舎に投げ込むなどして一緒に戦ったこともありました。

けれどずっと逃げ続けることも難しく、度々人里に近付いては現地の人に見つかって米軍に密告され、度々空襲を受けます。森の中を逃げる祖母達に空から機関銃が撃ち込まれます。その時は伏せるのではなく、横臥してできるだけ的を細くすると教わったそうです。
何度めかの空襲のとき、横臥する祖母の後ろから地面に突き刺さる音が続き、祖母の胴体を横切りました。ちょうど弾と弾の間で難を逃れたと思った瞬間、目の前で大西さんの妹の頭が爆ぜました。戦闘機が去った後、大西さんは私一人で国に帰るなどと泣き喚いて大変だったそうです。
そんな日々も終戦と共に終わります。終戦はルソン島の山のてっぺんで知ったそうです。米軍から、終戦したからトラックがある場所まで降りてくるようにと言われました。しかし、長い山での生活で皆ボロボロで、日本兵に守られながらも山を降りることができない人もいました。

皆ギリギリの状態なので、歩けないと言った人はもう死ぬしかないからね、と祖母は言いました。それから米軍の収容所へ行き、船でフィリピンを発ちます。行きはと違い、帰りは日本の船ばかりだったのを祖母はとても印象深く覚えていました。ああ、負けたのかと。
国に帰り、地元に帰ると住んでいた町が家は無事でしたが大空襲で焼き払われていました。それから戦後を祖母は必死に生き、海軍の祖父といつの間にか結婚が決まり、子を4人産み、2人失い、子も結婚して子を産み、今では孫が3人いる92歳になった、これが私のおばあちゃんです。

長々と話した理由が、この祖母の話をもう少し詳しく知りたいなあと思ったからです。多分ルソン島の戦いの最中の話だと思いますが、この話に関わるなにかを他に、Twitterなら誰か知らないかなあと。些細なことでいいので、何かご存知でしたら祖母に教えたいなあと。祖母にとってやっぱり特別なので。
軍司令部がある場所だったので祖母は色んな人に会い、でも子供の私にはそれが誰かわかりませんでした。会議に参加する東條英機から刀と軍帽を預かったとか、寺内元帥がシンガポールに向かう途中にマニラに立ち寄った際に会い、「こんな若い娘が……無事に親元に返さないとなあ」と言われたとか。
他にも「比島渡り部隊1600の14軍、山下大将と一緒の収容所に入っていた」と部隊名もすらすら今でも言えます。「三笠宮殿下が慰問に来られて、百合子妃殿下のために靴を選ぶとき、試し履きしたのはばあちゃんよ、百合子妃殿下の白いパンプスは一回ばあちゃんが履いたんよ」と言います。
辛いこともありましたが、でも祖母にとってマニラでの日々は人生で一番輝いていた日々でした。苦しいことも孫に笑って話すくらい。でも私はこれが美化された戦争の話とは思っていません。どれもあってはならないことでした。
そんな祖母の昔話に、長々とお付き合いくださりありがとうございました。


他にも芋は調理次第で柿の味がするとか、空からお金が降ってきたとか、人を食った人の話とか、祖母はモテモテだったとか、収容所の金網越しの再開とか、トラックの下で空襲を一人耐えたとか、祖母の母がスポンジをカステラと思って食べたとか、チョコを火鉢で焼いて食べたとか話はまだ色々あるんだ……

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