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新約聖書を読む‥主の変容. マルコ9章2~10節、マタイ17章1~9節、ルカ9章28~36節

某月某日、某所で開かれた聖書の会に参加した。

生前のイエズスが、ペテロその他を連れて山に上り、、、いきなり顔も衣服も白く輝いて、そしてモーゼとエリヤも出てきて語りあったというお話。
それに続いて、他は確かめてないけど、マルコにはペテロたちが死者の中から復活するとはどういうことかと論じあったと書かれている。

例によって、私は事前に田川建三の『訳と註』を読んだ。
イエズスが白く輝いた件については、淡々と翻訳について言語学的な解説がしてあった。
田川建三らしいと思ったのはやはり、それに続く、ペテロたちが復活について論じあったのを、マルコが批判的にみていたとチクリと書いていたところだ。

ここが、この箇所の白眉なのだ! 前段の、イエズスが白く輝いたなんて、どーでもいいのだ‼︎
(と、田川建三が書いていた訳ではない、『訳と註』を読んで私はそう感じた。)

マルコは当然、イエズスが白く輝いたのを見ていない。
マルコが知っているのは、ペテロたち、そのときのキリスト教会の幹部(?)たちが、イエズスの復活という教義についてどーいう事にしようかと論じ合っていたことだ。
マルコは、そんな事よりイエズスがなんでコロサレなくてはならなかったのか、ユダヤ教の幹部たちが宗教の名を借りて弱い者たちを虐げていたのに抵抗したからデショ⁉️、そっちの方がずっと大切でしょ⁉️⁉️と言いたかったのだと、(田川建三はそう書いていたと、読んだ。)

おーイエズス、カッコいい‼️
今の自分はユダヤ教に支配されてる訳じゃないが、もちろん政府に支配されていて、市場にも支配されていて‥税金はむしり取られるは、ああしろ、こうしろと引っ張り回されるはで、到底自由に生きてはいない。
どっかで何とか風穴が開いたら、誰かが開けてくれたらと思ったりする。

最近つらいと思ったのは、母が長い寝たきりを経て亡くなって、みていて地獄の沙汰もカネ次第だなぁと思ったことだ。
資本主義はホントにむごい。
だからって、社会主義だの共産主義だのがマシかって、そりゃちょっと勘弁だ。
じゃーどうしたら? 資本主義がむごいとか言ってないで、それに上手く乗って、カネの力でツラい事を避けられるよう頑張るしかないか?
そんな事できるのか? すべきなのか?
困ったなぁ、イエズスみたいな英雄が現れるのを期待しても仕方ないし、どうにも救いがない。

で!‥聖書の会に戻ると、イエズスが白く輝いたってのは、そのあとに十字架刑と復活が続くのを示してるんだそうだ。
それでもって、イエズスが復活したから、現実の自分たちが如何につらくても良いんだそうだ、救いがあるんだそうだ。
は❓
意味分からん。
イエズスの復活と、自分となーんにも関係ないがな。

でも、白けてるのは、どうやら私だけで、他の参加者は素晴らしいだの、ホッとするだの言っていた。
まあね、この箇所で白けていては、到底教会に通う訳に行かない。
通わないから、いいんだけど。

しかしこの会に出ていても、当然他の参加者と共感ってものがない訳で、やはりちとツラい。
主宰者はもっとツラいのではないか‥私みたいな発言をする参加者の居ることが。
次からも参加していいんだろうか、参加して自分に何か良い事あるんだろうか、うーん‥。


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