超合金とクリスマス

 クリスマスのプレゼントで1番最初にもらったものは何かと問われると、それは3歳の頃にもらったプラレールの新幹線だったと思う(まだずんぐりした『ひかり号』の時代だ)。

 その頃は正月とクリスマスと1月3日にある私の誕生日を母方の親族と(当時は小さな雑貨屋を始めていた我が家の奥で)一緒に祝うというしきたりがあった。
 母方の親戚が集まって当時の小さな我が家でプレゼントをもらってそのプラレールを走らせていたのだが、それが楽しかったのは覚えているが、嬉しかったかどうかよく覚えていない。

 やがてそれは十畳もない部屋に母方の親戚が集まって足の踏み場もなくなることやら、母方の本家への遠慮とか、なにやらがあったのだろう(恐らく同居していた父方の祖母の文句もあったに違いない)、私の家族以外を招くことはすぐに取りやめになった。


 そして、その次の強烈なインパクトのクリスマスプレゼントは何かと言えば、何故か当時沖縄では放送されていなかった、レッドバロンのジャンボマシンダー‥‥‥‥恐らく、本家本元&大人気のマジンガーZは売り切れだったのだろう(当時の親にキャラクターの見分けがつくはずはない)。
 明らかに嬉しかったのはグレートマジンガーの超合金と、超合金ブームに乗っかる形でブルマァクが出していたジンクロン合金の電人ザボーガーだ。
 どちらも壊れるまで遊んでいた記憶がある。

 グレートマジンガーは特にブレーンコンドルが一度外れてしまうと小さな部品なだけになくしやすく、ロケットパンチもご多分にもれず予備までなくした。
 その次に覚えがあるのはやはりタカラのマグネモ鋼鉄ジーグだ。数百万個を売り尽くしてタカラ社内で記念のトロフィーまで作られたという(しかも好評すぎてあちこちに金型を貸し出して行方不明になり、90年代の再版時には、当時の商品を3Dスキャンして金型を新たに起こすというオチまで付いた)この傑作玩具は、磁石でくっつく手足という劇中そのまんまのギミックを持ち、しかも、その当時にしては珍しくプロポーションからディティールまでよく似ていた。(今となっては信じられない話だが、当時のキャラクター玩具と言うものは、バンダイ(当時はポピーという名前だったが)のものでさえ製造工程最優先で、ずんぐりむっくりの体型か、それらしい造形と色をしている程度のもので、似ていないのが当たり前だったのである)
 その頃からこの世の中には「サンタクロースが来るおうち」と「親がその代わりをしている家」があるのだと言う事は気づいていた(この程度の認識なのは当時の私が幼稚園だからである)。

 それがサンタクロースと言うのは実はいないのだと言うことを確信し、親を騙したと怒るどころか許すことになったのは忘れもしない1977年のことだ。
 なぜ1977年という具体的な数字が分かるのかと言うと、その年に公開されたテレビ番組「マグネロボ ガ・キーン」という番組のおもちゃ(ジーグと同じくタカラが出していたのでマグネモシリーズだった)を、仕事帰りの祖母が持ってくる姿を私が見たからである。

「そこでサンタさんに預かってくれと言われたんだよ」

 祖母はそう言ってデパートの包みを私に渡してくれた。
 毎日乾物屋のおさんどんをして夜遅くまで働き、クタクタになった祖母の笑顔の言い訳に、お婆ちゃん子であった私は全てを察した。
「そうなんだー! サンタさんに会いたかったナー」

 伊集院光氏が言うところの「親にとってのいい子」であった私はそう言って笑って答えた。

 父と母は苦笑いをしていたと思う。
 その時ようやっと私はサンタさんと言うのは父と母があるいはおばあちゃんにプレゼントを預けるほど忙しい存在、などではなく、この世にいないものなのだということを自覚した。

 それでもいいや、と思っていた。
 子供心に親に感謝もしていたし、オモチャがどこから来るかより、どんなオモチャがやってくるか、に関心が移りつつあったからだろう。

 同時にそれはクリスマスのプレゼントがおもちゃではなくなるという不吉な前兆でもあった。

 その頃からキャラクター玩具の有害論という、今となっては笑い話にしかならないような学説がPTAの間ではまかり通りはじめていた。
 テレビのキャラクターによって、子供たちのイマジネーションが失われてしまう、テレビの商業主義に毒されてしまうという、今から考える馬鹿みたいなものだ。

 いつの世も、親の世代は自分が子供の頃にはなかった、見慣れないものが溢れるとそれが子供たちを毒すると思い込むらしい。

 それで、父と母が「もうお兄ちゃん(あるいはもっと大仰に「大人」だったかもしれない)なんだからオモチャはいいよね」と聞いてきた。

 小学校2年生の頃だったと思う。

 ここが我が親ながらずるいところで、普段から反抗的な子供ならともかく、当時の私のようなおとなしい子供にとって親がそうしろと言う事は従わなければいけないことなのであり、親に反抗するなんて言う事は夢にも思わなかった…………という計算があったのは間違いない。

 何しろたった7、8歳の子供である。

 それも親に礼儀作法と沖縄方言の徹底的な消去教育を行われ(これはアナウンサーになろうとして方言が抜けきれず失敗した母と、一度は親友と共にカナダか大阪に行って一旗揚げようとして一族郎党に止められた父の夢でもあったのだろう)、何処へ行っても「綺麗な日本語の挨拶の出来るいい子ね」と言われた私に「親に逆らう」という犯罪行為が選択肢の中にあるはずはない。

 かくしてその年の年末より、私の手からクリスマスのおもちゃは奪われた。

 ただ、それでもキャラクタープラモという「組み立てるオモチャ」という逃げ道があったが、それも1年後、当時人気だった「宇宙戦艦ヤマト」の700円モデルを最後に打ち切られた。

 次の年、「宇宙海賊キャプテンハーロックのアルカディア号(のプラモデル)がいいな」といった私の枕元には、オーロラの人体模型が入っていて、クリスマスなのに悲しい気分になったのを克明に覚えている。

 やがて、せっかく持っていたオモチャもいつの間にかひとつ消え、二つ消え、ジャンボマシンダーのレッドバロンは「脚の中に入れてある重りの鉄粉の袋が破れて家が汚れる」と外に出されていつの間にか消えていた(後で知ったが従兄弟の子にあげたそうだ)。

 以後、友人たちは毎年オモチャを買って貰い遊んでいるのに、私にとってそれはショーウィンドウの中で光り輝くもの、手の届かないものになっていた。 

 しかし、チャンスは諦めかけた小学校4年生(79年)の頃に巡ってくる。

 いつの間にやら、私の下には妹ができ年下のいとこたちができ、近所のおばさんの家でクリスマスパーティーをやるようになっていた。

 パーティのクライマックスはプレゼント交換である。

 ケーキは祖母にねだれば買ってもらえたし、当時の私には(今の甘味中毒者である私をしる人間は信じないかも知れないが)甘いものにさほど未練はなかった。

 しかもその頃ミクロマンは最初の大ブームの最中にあった。
 ミクロタイタン、フードマンのころである。
 どうしても欲しくて私は1つの嘘をついた。

 もらったはずのプレゼント用のお金をなくしてしまったのでどうかプレゼント用のミクロマンを買って欲しいと言った。
 目標は当時出たばかりのミクロナイト。

 実はすでに購入してあったプレゼントと、パーティ会場ですり替える作戦だった。

 親には「プレゼント交換で当たったんだ、今回ぐらいいいでしょう?」といえばいいと浅はかにも思っていた。

 ショウウィンドウで光り輝くその、銀色と金色の騎士たちを見て目を輝かせる私を見て、母は何かを察したのであろう。
「うそでしょ」
 私は母のまっすぐな瞳の前に、怖くなってつい白状した。
 当然ながら母は怒り、「素直に言えば買ってあげたのに、嘘をついたから買ってあげない」
 と、言い放った。

 あまつさえ、目の前で罰だとばかりにミクロナイトを複数買い、クリスマスパーティで交換会が終わった後、わざわざわざ自ら年下の従兄弟たちに手渡しでプレゼントするという「私にだけ判る公開処刑」を行った。


 まぁ、今から考えれば「正直に言えば買ってあげる」はどう考えても嘘である。

 だが、気弱な「いい子」にとって、それ以上の知恵(反抗心とも言う)をへし折るには十分なことだった。

 以後、プレゼント交換会でおもちゃが当たったとしても「もうお兄ちゃんなんだからいいでしょ」と母はそのオモチャを他の子にあげてしまうようになった。

 以来、叔母の家でのクリスマス会は、自分は嘘をついた、だからオモチャを取り上げられるのは当然なんだという「刑罰」になった。

 さらにその前年からクリスマスシーズンになると必ず何処かを縫う怪我をして病院に担ぎ込まれることが連続して三年起こったのも「悪いことをしたバチがあたった」という感覚に拍車をかけた。

 人は法律によって律されるのではなく、己の中にある恐怖と罪悪感に律されるのだといういい例ですわな。

 その後、私が手に入れたのは手首が無く、片方の足首が無いスタンダードサイズのザンボット3の残骸とも言うべき物を叔母の家の「忘れ物」として貰っただけで、それもまた母親に見つかって棄てられてしまった。

 閑話休題。

 がんによりその数年後、36で世を去った母に(実際はそれでも本来の寿命から五年延命しているのだけれども)今少し余命があったなら、あるいは発病が数年遅れていたら、ひょっとしたらこんなことはなかったかもしれない(実際、父は母に同意しながらも、決して私の物を捨てたりはしなかった。残っていたオモチャを処分するのはいつも母だったし、妹に対してもかなり厳しい態度で臨んでいた……おかげで長い間妹は母に憎まれていると勘違いしていたほどである。母の姉である優しい叔母が居なかったら、妹がどうなっていたか判らない)。

 きっと母はもうすぐ自分がいなくなることを嫌になるほど自覚し(当時のがん、しかも若年性であるから自覚は今よりも激しい痛みとなって感じられただろう)、早く子供たちを「大人」にしたかったのだろう。

 実際、当時の沖縄は那覇市の中央の住人であろうとも理屈や理論の通じない「雑」な人間は当たり前であった(これに変化が訪れるのは80年代半ばに入って、60年~70年代の若者がそれなりに成長したのと、今で言うスローライフのハシリが起こって、沖縄に住む本土の人たちが増え始めてからのことである)。

 最晩年、母はそれでもオモチャを諦めきれず「モデルガン」という「大人の趣味のオモチャ」を手にした私を病床で苦笑混じりに見て「格好いいわね」と言ってくれた(だが、その時購入したコクサイ製コルト・ローマン2インチを私はチーフスペシャルと同じくラッチを前に押せばスウィングアウトする物だと勘違いして壊してしまうのだが……あれ以来、どうもコルトのリボルバーとは一挺をのぞいて縁が薄い)。

 オモチャごときで厳しくする意味もない、と悟ったのだろう。

 話を巻き戻す。

 かくして私のおもちゃが最も使った自体はおもちゃの代用品と壊れかけて捨てられていたのを拾った物と、おもちゃが多くて有名だった所の子供が引っ越しした後、その空き家に転がっていた物(これまた壊れかけの勇者ライディーンのブルーガー)を拾ったと言うような情けない記憶しか残っていない。

 母が死んだ頃にはもうガンプラブームが来ており、去った後にはオモチャどころではない中学での悲惨な生活が待っていた。

 かくして時は流れて数十年、私の手元には今その頃の仇とばかりに山ほどのおもちゃがある。

 あの時以上にディティールアップされ、より精密になった超合金魂が筆頭なのは言うに及ばず、だ。

 
 しかし、もう醤油の変わった形の小瓶だけで夕方まで遊べていた子供の頃の脳は無い。遊んでくれる友達もいない。
 そして今や買っても遊ぶ暇もないような仕事の仕事や生活に追われる日々である。

 だからこの前の引っ越しの際に大々的に処分したし、多分近いうちに大処分するだろう。死ねばどんな大事な所有物もただのガラクタの山でしかなく、私ももう人生を折り返したからだ。

 さて。

 もしもあの時父や母がキャラクターがの有害論に毒されず私のおもちゃを買い与え続けていたら、どんなことになっていただろうか。
 おそらく中学生ぐらいで周囲がオモチャから卒業していくのい合わせて別のことに興味を移していったかもしれない。

 あるいは、そのまま大事にオモチャを取っておき、ある日そこからまた増え始めたかも知れない。

 だが少なくとも仇のようにオモチャを買いあさることはなかっただろう。 

 そう考えると、子供の頃、理不尽に親から取り上げられた物に対する渇望と言うのは後々の人生と人格に影響与えていくものだと痛感する。
 

 とはいえ、皆がおもちゃを持っているときのおもちゃを持っていないということで仲間外れにされたことから、私の想像力の源は始まったようなものだし、唯一無尽蔵に買う事を許された本の世界が、私の救いになり、後々には私が飯を食う職業に導いていったりするのだから、世の中というのはわからない。
 ただ、もしも母が生きていたとしたら、今の私を見てどう思っただろうか。

 彼女が望んでいた平穏無事な公務員とか放送局の職員であるとかと言う彼女の夢からは最も離れた存在になった私を。

 もっとも若い頃は役者かアナウンサーか、どっちかを目指し、クリスマスとも成れば「親子の立場を取り替えたごっこ遊び」に熱中した変わり者の部分もあった人だから案外喜んでくれていたかも知れない。


とにかく、今クリスマス近くの、玩具売場にて思う事は、お父さんやお母さん達に、オモチャを卒業するタイミングは子供たちに選ばせて欲しい、ということだけだ……いや、今の親御さんにそんなことはあるまいけれども。

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