イコライザー! 没原稿(上)
※ここに収録されるのは、集英社ダッシュエックス文庫刊「イコライザー!」1巻の没になった原稿です。
「日本版ドクター・フー」を目指した作品で時間旅行者のパスウィダー(パーシィ)がフトした偶然から主人公・沙汰内タグルと、彼のクラスメイトで、ちょくちょく歴史に干渉してしまうパーシィを監視する為に赴任してきた瀬底泡瀬、パーシィの「同業」であるレッド・リーコンなどと共に時空を越えた冒険を繰り広げるというアドベンチャーものでした。
非常に気に入った一本だったんですが、残念ながら文庫のページ数の限界をオーバーしたため泣く泣く削り、冒頭は1巻の第3話に移植され、レッド・リーコンの種族特性の開陳は2巻以後に持ち越されました。
ここに出てくるパラレルワールド「スチームパンクな日本」もまた2巻の登場になりますが、時代はやや遡ったものになっています(ここに出てくるスチームパンクな日本を防衛する霊子隊のリーダーは2巻に出てくる見習い隊員の少女が成長した姿です)
そういうわけであり得なかったもう一つのパラレルと言うことでお楽しみください。
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○第三話:西暦2525年(byゼーガーとエヴァンス)
☆
統一皇紀二五二五年(元化一〇年)十二月一日。
帝都・東京。
銀色のウサギが、雪煙をあげながら駆けていき、深夜の、人気の無い路地へと消えた。
白い物の降り積もった道を踏みしめ背嚢を背負い、長銃を肩に男たちが行く。
フランス式を導入した独特のケピ帽にも、制服の肩についているモールにも白い破片が積もっている。
ヒト族はもちろん、見上げるような筋骨たくましい人鬼族{人鬼族:オーガー}も居れば、ひょろりとした森人族{森人族:エルフ}も、がっちりした鍛冶小人族{鍛冶小人族:ドワーフ}もいるのは近代国家たる統一日本帝国ならではの光景だ。
雪の中、行軍するは、陸軍帝都防衛第一連隊所属第二十一中隊。
ただし、彼らの胸に下がる兵隊鑑札に刻まれている番号の上には全て「登録抹消」の意味を持つ×印の打刻。
「昭和」という元号を使うかも知れなかった世界、深夜の浅草に軍靴の響きが低く、こもったように響く————深夜二時。突発的な訓練行軍にしても滅多にない時間である。
仲見世の降ろし戸の隙間から、小便に起きた森犬族{森犬族:コボルト}の丁稚(江戸時代から昭和中期まで存在した商家における年少の店員)がヒクヒクと犬の鼻をひくつかせ、直感で「怖いもの」をみる目つきでそれを見送る。
まだ粉雪が舞う寒さなのに、その一団は白い息を吐いていなかったからだ。
私語も呼吸もなく、ただ整然と行軍していく姿は雪の魔物が見せた幻のようでもあった。
歩兵部隊は浅草公園を右手に見ながら北上、言問通りを東へ折れて行軍する。
言問橋にさしかかると、先頭を行くヒト族の指揮官は腰に下げていた刀を引き抜いた。
「全隊{全隊:ぜんたぁーい}、止マレっ!」
数百人の行進が止まる。
「拡散ッ!」
それまで四人隊列だった兵士達は一斉に横に広がり三列となった。
「構えーッ、銃{銃:つつ}ゥ!」
最前列は雪の道に片膝を突き、そして全員が肩に担いでいたフランス、サン=テティエンヌ造兵廠製半自動小銃を構えた————総弾数十二発、現在最新式の銃である。
その筒先が向かうのは、橋の真ん中に立つ、ひと組の男女だった。
男のほうは北部アメリカ軍の士官用コートを羽織り、中は新生ドイツと同盟を結ぶことでデザイン的にも似たものになった東部アメリカ陸軍のフィールドグリーンの新型野戦服姿で、金髪を短く刈り込んだ見上げるような威丈夫。
体つきだけで言えば人鬼族に引けを取らない二メートル近い身長と肩幅、筋肉の厚みをもっているが、茶目っ気のある焦げ茶色の目と、薄く微笑みを浮かべた唇、どこか子供っぽい印象を与えていた。
片手には大きな番傘をもち、足下にはこの世界には存在しない、ミニミ分隊支援火器が、ベルト弾倉と収納ボックスを装着した状態で銃口を上に立てかけられている。
もう一人は切れ長の涼やかな双眸を持ち、艶かな黒髪を襟足に着かないようにばっさりと切りそろえた、一見日本人形を思わせる十七、八歳の少女。
落ち着いたグレーのインバネスをまとい、足下は頑丈そのもののブーツ。
そして、コートの腰のあたりから、朱色をした刀の鞘が伸びていた。
「柊マサカネ陸軍少佐。貴官はご自分が何をなさるのか、わかっておられるのですか?」
少女の凛とした声が、深夜の粉雪を散らす勢いで響く。
「むろんだよ、勤王院中佐」
にやりと指揮官の口が三日月に割れた。
「これより我らはクーデターを開始し、腐敗した政府を打ち倒すのだ!」
その端に、鋭い牙が覗く…………帽子の唾からからこちらを睨む目は金色に輝いていた。
襟足に覗くのはうじゃけたふたつの傷跡。
「魂を売り渡したか…………人の心があるうちに、何故自害なさらなかったのです」
少女の声は変わらず冷徹そのものだったが、僅かに同情の色が付いた。
「当然だろう? この腐った世の中をひっくり返す機会と力を得たのだ、手放すはずがない。勤王院中佐、あなたは疑問に思わないのかね? 天帝の赤子{赤子:せきし}よ、醜の御盾{醜の御盾:しこのみたて}よとおだてられ、ソビエト帝国との戦争にかり出され、我らは何を得た?」
薄ら笑いを浮かべていた柊少佐の顔が怒りに歪む。
「果てしない不況と、飢えと、寒さと、惨めさだけだ! 私は前線に部隊ごと置き去りにされ、呪詛砲の集中砲火を浴びて中隊の仲間は全滅、私だけが手足を失い、おめおめと生き恥をさらしていたのだッ、それを『あのお方』は拾い上げてくださった。新たなる手足を与えてくださったのだ! 今の私は天帝の為に生きるのではなく『あのお方』のために生きる! この新しき我が中隊もまた!」
「首脳部の無能は私も常々怒りを覚えます、少佐……ですが、それを世間一般にぶつけ、帝都を焼け野原にしてしまうのは、論理のすり替えでありましょう?」
「否! これは聖戦である! 死に行く者は皆、老若男女の変わりなく、極楽浄土へいくか、我が同胞{同胞:はらから}となる!」
「吸血鬼のくせに、キリスト教も仏教もごっちゃかよ……まあ、この国らしいっちゃあ、らしいか」
それまで黙って背後に控えていた威丈夫が、初めて口をきいた。
あきれかえった顔で、ぽりぽりと頬を掻く。
「レッド・リーコン中佐、しばらく黙って頂けますか」
ぴしゃりと、振り向きもせず少女は告げた。
「はいはい、桜子お嬢様」
肩をすくめてレッド・リーコンと呼ばれた男は口にファスナーを閉める仕草をした。
「……とにかく、今投降すれば、罪一等を減じて、巣鴨封鎖区での生活を約束しましょう」
その桜子の申し出に、柊少佐は嘲笑で答えた。
「笑止! 統一日本帝国陸軍に敗北と降伏の二文字無し!」
「ですが少佐、あなたたちの企てはすでに露見し、他の部隊も鎮圧されつつあります」
「————であろうな。あなたがここにいるということは」
「ならば……」
「男子に二言無く、統一日本帝国軍人に、降伏の二文字なし!」
そして抜いた刀を高々と天の一点にかざす。
ほんの一秒、桜子は目を閉じ、その言葉を耳に染みこませるように聞いていたが、すぐに目をあけ、少佐たちを睨み付けた。
「よろしい……宮内省陰陽軍{陰陽軍:おんみょうぐん}、第一霊子隊隊長・勤王院桜子、汝らを帝都を乱す悪と見なす」
「やれやれ、日本人は形式が好きだねえ、ようやく開戦か…………そうれ!」
いいながらレッドは番傘を天高く放り投げミニミを構えた。
紅い番傘が、ゆるやかに空を舞う中、身体を低くかがめた桜子が疾駆し、レッドが引き金を引く。
「撃{撃:て}ぇええ!」
二〇〇近い銃口が一斉に火を噴いた。
レッドの周囲では光の壁がこれを食い止め、桜子は姿そのものがかき消えていた。
疾風と、衝撃波を伴う嵐が一気に地面につもりかけた粉雪を再び空へ舞い上がらせる中、銀色の光が、首に二つの穴を開けられた「絆」で統一された兵士達の間を乱舞する。
「な……」
吸血鬼になったことで常人の数十倍の身体能力を得たはずの自分たちが、一切少女の動きを目に留められなかったことに、柊少佐が驚愕の表情を浮かべたまま、その首が宙を舞い、伝説通りに命を絶たれて灰と化していく。
桜子の姿は消えたとき同様に、粉雪を巻き上げながら不意に橋のたもとに現れた。
中隊の存在した場所には血しぶきと死体が散らばっていたがそれもすぐに灰と化し、白い粉雪が舞い降りて全てを覆い隠していくだろう。
桜子は灰となった血肉の付着した刀を軽く振って、音もなく納刀する。
その両目が僅かに紅く輝いていたが、それも収まる。
「……哀れな」
「まったく同感だ。あんたを相手にすると決めた時点で、死は確定だったんだからなぁ」
「そういう意味ではありません、レッド」
たしなめる少女の声はいささか湿っていた。
「この人たちは皆、見捨てられて廃兵院で食事だけを与えられるような人生だったのです。みな、勝ち戦の華やかさは語っても、こういう惨めな部分は語ろうとしない……パーシィのいるもう一つの日本国が羨ましい」
「そうかねえ? あっちはあっちで問題も多いみたいだけどな」
ミニミを肩に担ぎ、落ちて来た番傘を片手で受け止めながらレッドが笑う。
「…………しかし、こうなってくると、パーシィの手を借りる必要が出てきましたね」
ちら、と少女はレッドを見やる。
「頼めますか『イコライザー』?」
「よしきた、任せておけ。ようやく片道分は何とかなった。今ならパーシィの居場所も分かる、ちょいといってくるよ」
そんな会話をしていると、遙か彼方から、軍用車両が雪煙をあげてやってきた。
ドアが開くと、陸軍の制服を着けた青年が駆けだしてきた。
「大丈夫か中佐!」
「はい、天酒{天酒:あまさか}大佐」
桜子が微笑むのを、青年は抱きしめた。
「良かった…」
少女は少し顔を赤らめつつ、幸せそうに青年の身体を抱きしめ返す。
「はい、そちらはいかがでしたか?」
「こちらも何とかなった……だが、相手は『ヴァーォウ』だ、これで終わるとは思えん……そういえば、リーコン中佐はどうした?」
「あら、先ほどまですぐそこに……」
桜子を解放してきょろきょろと青年将校は周囲を見回したが、番傘と空薬莢を地面に残し、レッド・リーコンの姿はかき消えていた。
☆
西暦二〇一六年。埼玉県朝ヶ市{朝ヶ市:ともがし}。
六月に入ったばかりであっという間に梅雨が明けた。
となれば、もう初夏では無く、夏の始まりである。
「暑いなぁ……」
タグルは汗をぬぐいながら、学校からの帰りがてら、パーシィの顔を見ようと「本日定休日」の札の下がった「ろすてぃに屋」のドアを開けた。
外以上にむっとする熱気が襲ってくる。
「わ……な、なに?」
てっきり昨日と同じくクーラーが掛かっているものだとばかり思っていたタグルはすっかり面食らってドアの前で立ち尽くす。
「パーシィ? どうしたの?」
そういえば店内に明かりはない。
「?」
中に入る。ドアは万が一を考えて開けっ放しにすることにした。
「パーシィ?」
奥にいくと、応接セットの手前に置かれた三人掛けのソファで、ビキニを着けた残念な生き物が溶けていた。
「ああ、たぐるかぁ……あちゅいなぁ」
紐と、掌の半分ほどの布で構成された、ほとんど局部を隠しているだけの過激なビキニ姿で、ダラダラに汗を掻いたパーシィは、面倒くさそうにこちらを見上げた。
豊満な胸の谷間も、引き締まって軽く腹筋の浮いたお腹も、さらにその下、高い位置にある腰とそこから伸びる長い足も汗に光っていて、その体温と、甘いパーシィの体臭とが、妙に生々しくタグルの五感に訴えてくる。
これで彼女の頭の中がもう少し普通、もしくは大人の女性であれば、溜まらずタグルは硬直して動けなくなるか、逃げ出したかも知れないが、残念なことにこのロングヘアのエルフ美女は、実生活においてはちょっと頭のいい子供同然の中身である。
「なんて格好してるんだよ! パーシィ!」
それでも純情さが顔を赤らめさせて、タグルは大声を出した。
「熱放散の為に布地面積を、私の羞恥心の限界まで減らした結果だ。これ以上は全裸だが、さすがにそれは文明人としてマズいのでな」
「……どーいう理屈だよ。本当……で、どうしてこんなことに? クーラーの故障?」
尋ねるとパーシィは「違う」と首を横に力なく振った。
「『ロスティニア』のやつ、今日、修理の終わった次元移動用のエンジンにチャージして再起動するため、全ての電源を落とすと言いだしおってな……このありさまだ。ハスティニアの氷球がどこかにあったはずなんだが、こういうときに限ってどこにしまい込んだのか出てこない」
「なにそれ?」
「サッカーボールぐらいの大きさで、周囲の熱を吸い込んで冷気にしてはき出すという結構な代物なんだが、感情の熱まで吸い込むのが難点でな」
「……外に出て喫茶店かどっかで涼んでればいいのに」
「再起動する時は私がここに居て、生体認証キーにならないと、色々マズいんだ……暑いぃ……先週まで梅雨でざあざあ振ってたんだ、今年の梅雨は短いっていうんだから今日ぐらい延長というか、追加分が降ってきてもいいじゃないか」
「梅雨明け三日目でそれはないよ……アイス買ってこようか?」
「アイス! 素晴らしいなそれは!」
がばっとパーシィは起き上がった。
途端に盛大に紐水着で辛うじて「全裸ではない」と言い訳しつつ圧倒的な質量を見せつけていた、汗ばんだ二つのまあるい水蜜桃が激しく揺れ、慌ててタグルは横を向いた。
「揚げたてのドーナツとホットコーヒーって手もあるけど?」
「なに? ……うーん……」
今度はソファの上で腕組みして、真剣に悩み始めたアークエルフの時間旅行者を、タグルは完全に元気な妹を見る兄の目つきで微笑みながら見つめた。
「ドーナッツとコーヒーはいいものだが、この夏の暑さでは…いや、むしろ暑いからこそ熱い物を食べてというのは理にかなっているが、今でさえこの汗では…えーと、うーん…」
「まったく、子供なんだから」
「な、何を言うか! 私はちゃんとこう、大人の女としてだな、どちらのほうがより高尚な食べ物かつ有意義な時間になるかという考察を……」
そんなことをパーシィがくどくど言い始めるタイミングを見計らったかのように、
「こんにちは、沙汰内君、居ますか?」
と瀬底泡瀬が顔を出した。
「アイス、買ってきたから、一緒にどうかな、って……」
「おおおおお! アイスか、じゃなかったアワセか、入れ入れ! タグルも居るぞ!」
さっきまでの哲学的命題はどこへやら、あっという間にパーシィは破顔し、両手を広げて泡瀬を招き入れた。
☆
「あー冷たい! 美味い! やっぱり夏場はアイスが一番だ!」
泡瀬の買ってきたアイスバーを両手に持って交互に食べながら、パーシィは歓喜の表情を浮かべた。
店の奥にいると熱であっという間にアイスが溶けそうなので、玄関付近まで三人は移動し、ドアを開け放って少しでも外気を入れようとしている。
「タイムマシンも意外と不便なんですね、こういうときって」
ノートを団扇代わりにして仰ぎながら泡瀬。
「この船は自己進化と自己改良をしてくれるからかなりマシな部類だがな」
「へえ……」
「で、新しい学校はどうだ?」
「まあ、なんか空気変わったって思うよ」
タグルたちの通っていた公立高校は、大方の噂に反して続行が決定した。
敷地は少々離れた所にある、廃校と決まった小学校をそのまま使い、現在敷地内で急ピッチで新校舎が建造されている。
ただし、これまで通っていた多少ガラの悪い「良家の子女」は親がこぞって転校させてしまったため、階層社会は崩壊、圧迫されているような学校の雰囲気は大分明るいものに変わっていた。
「多分、千々裏成江があんなことになっちゃったってのも大きいとは思います」
泡瀬がぽつりと付け足した。
「そういえば、千々裏さんってどうなったの?」
「わたしも良くは判らないんだけど、何処か遠くの病院に入院療養してるみたい」
泡瀬は少々の罪悪感を抱えた顔で答えた。
タグルは彼女が自分のいじめに対して反抗した、という話しか知らないため、少し不思議そうな顔になる。
「タグルをああいう陰湿ないじめに巻き込んだ上に、スウィムウェンと手を組んだんだ、本来なら刑務所に送られてもおかしくないから、まあ、穏便な始末じゃないかな」
追加で近所のコンビニで買ってきたカップアイスを食べながらパーシィが結論した。
「時が経てば、スウィムウェンの影響も消え去って社会復帰出来るだろう。それでもおかしかったら私が診る」
どうやらアイス二本でとカップアイス一個でパーシィはある程度復活したらしく、先ほどまでのぐでっと溶けた感じは消え、颯爽とした口調も戻ってきていた。
「まあ、多少医術の心得はあるからな。深層心理ぐらいなら……」
とか言っていると、ぐおん、という腹の底に響く音と共に店内の電気が点灯し、少ししてひんやりとした空気が流れてきた。
「お、我が船も復活か……ありがたい」
「へえ、ということはこっちとしてもありがたいな。こっちへ来るときエネルギーが丁度ゼロになっちまったからね」
明るい男性の声が割り込んできた。
「え?」
いつの間にか入り口に大柄な金髪の白人男性が立っている。
その威丈夫はこの暑い中、コートを肩から羽織り、昔のドイツ軍っぽい軍服を着用していた。
「レッド!」
パーシィが驚いた顔になる。
「いつこっちに来たんだ!」
「三分ぐらい前かな、久しぶりだね、パーシィ。珍しく今日は露出狂だなぁ!」
そう言ってレッドと呼ばれた男性は両手を広げ、パスウィダーとハグしあった。
「その紐水着はパッシュトライドの大統領から貰った奴だな、懐かしい」
「そうだよ、レッド、しかし変わらずに男か!」
「まあね。今回は運がいいんだ————ところで君はまだ処女なのか? そろそろ俺が相手をしてやろうか?」
「抜かせ馬鹿者」
互いに笑い合いながら、二人はぱんぱんと背中を叩いて……いや、レッドの手はパーシィの紐ビキニに辛うじて覆われている二形良く引き締まって上向きのヒップを鷲づかみにしていた。
そのままこね回すのを、タグルと泡瀬は呆然と眺めた。
ここまで堂々としたセクハラ…………いや、痴漢行為を初めて見たからだ。
「それ以上私の尻に触るなら、このまま膝を君の股間にぶち込んだあと、私の蒸気精霊杖{蒸気精霊杖:ギズモ}で胃の消化速度を二十倍に促進し、最後に君の銃で死なないように{死なないように:傍点}去勢することになるが、覚悟は出来ているな?」
氷のような声でパーシィ。
そして手首を振ると、いつの間にか例の「蒸気精霊杖」が握られている。
「はいはい、長い付き合いなんだからいいじゃ無いか、触るぐらいで減るものじゃなし」
「減る、お前が触ると減る」
「寂しがり屋のくせに意地っ張りな所は変わらないんだな」
「五月蠅い」
そんなやりとりをして離れると、パーシィはタグルたちに男性を紹介する。
「タグル、アワセ、こいつはレッド・リーコン————私と同じ『イコライザー』だ」
「へえ……」
タグルは初めて見るパーシィ以外の「イコライザー」と、そのあまりのパーシィとの親密さぶりに戸惑いつつ、それでも「沙汰内類です」と自己紹介する。
「こちらはサタウチ・タグル。そしてセソコ・アワセ、タグルのクラスメイトで『暁』という私の監視機関のメンバーだ」
「あ、いえあの、ど、どうも……」
秘密の存在であるという素性まで一気に紹介されて、泡瀬は戸惑いながら頭を下げた。
「やあ、俺はレッド・リーコン。君がパーシィの新しい相棒{相棒:ワークメイト}?」
そう言ってレッドはタグルに握手を求めた。
「あ、いえ……えーと、そうなの?」
パーシィに尋ねると、
「まあ、それで……いいんじゃないかな?」
ちょっと横を向きながらパーシィが答えた。
「……だそうです」
「なるほど、今度はずいぶん早く決まったものだね」
「まあ、スウィムウェンがらみで色々あってな」
「あいつら、まだこの辺の時空をウロチョロしてるのか?」
「むしろ出会う度に数が増えて凶暴化してる印象だ」
「そうか……タグル君、彼女はフーヴィアンだから、ドクター・フーの蘊蓄を山のように聞かされるから覚悟しておきたまえよ」
いつの間にかタグルの手を取って握手し、がっしりハグしながらレッドが言った。
「あ、はい」
筋肉でよろわれた肉体に包まれる圧迫感に目を白黒するタグルは、先ほどのパーシィ同様、自分の腰まで丁寧にレッドがなで回したことに気づかない。
そしてレッドはタグルを解放すると泡瀬の方に向き直った。
「なるほど……で、君が秘密機関のメンバー? ずいぶん若いねえ?」
「あ、いえ、あの……」
「日本の秘密機関は何処の世界でも若い女性を起用するのが上手いなあ」
「?」
そして泡瀬のほうも握手され、気がつけばハグされている。
「君、タグル君のことが好きなの?」
「!」
耳元で囁かれて硬直する泡瀬の動揺をいいことに、レッドはここでも彼女の腰回りを触って離れた。
「ちょっと来いレッド」
離れたレッドをパーシィが引きずって店の隅に移動する。
「レッド、彼らは駄目だぞ{駄目だぞ:傍点}」
パーシィがすかさず小声でレッドに警告した。
「判ってる。ふたりとも君同様まだ清い身体だ…………この時代までは青少年は世間がなんだかんだ言っても一部の例外を除いてウブでいいなぁ」
ニコニコしながら両手を揉みつつ、パーシィの方を見ようともせずにレッドが同じく小声で返す。
「あと三年ぐらい待てば俺の好みの年齢になる。それまで待つさ」
「お前のそういうところがついて行けない」
「君は『イコライザー』のくせにこういう部分で常識に囚われすぎる。もうちょっと俺みたいに自由になれ。楽しいぞ。暖かいし、気持ちいいし。何よりも寂しくなくなる」
「お前の脳の中にある意志決定部分を、社会良識の檻の中に永久につなぎ止める方法をそろそろ見つけないといかんな」
「まあ、それよりも、だ」
パン、と手を叩いて、レッドは真面目な顔になり、パーシィに顔を近づけて告げた。
「サクラコから支援要請だ」
「!」
「パーシィ、どうかしたの?」
いきなりひそひそ話を始めたふたりに、訝しげにタグルが問う。
「どうやらいきなりあちらに移動する必要が出てきた」
「あちら?」
「平行宇宙{平行宇宙:パラレルワールド}だ、タグル………二時間後には準備して出発だ、どうだ、一緒に行くか?」
「やっぱり危険?」
「————多分な」
「行くよ」
タグルは即断した。
「着替えとかはいる?」
「まあ、下着だけ四泊分ぐらいは用意しておけ。他はこっちで何とかなる」
「判った!」
「ちょ、ちょっと沙汰内君! 家とか学校、どうするの?!」
慌てて泡瀬が袖を引くが、
「ああ、そこは大丈夫だアワセ。ここと目的地の間には『次差』がある。ここでの一時間が……そうだな、だいたい向こうの一日になる。今が五時で……タグルの門限が十時だから、それまでには戻れる」
「どういうことですか、パスウィダー?」
「妖精の国と同じだ。それに、君たちの体内時計はこの世界、この時間が基準になっているから老化もしない」
「いや、そう言う問題ではなくて」
「タグルが行くというのなら君も行くんだろう?」
「え? 瀬底さんは危ないよ!」
「彼女の身体能力は君以上だぞ? むしろ彼女が君の心配をしていると思うんだが」
「……」
タグルは少し傷ついた顔になった。
「そんなにショゲるなタグル。誰もがみんな最初は初心者で素人だ」
にこっと笑って、パーシィはタグルの頭を抱き寄せた。
当然、ほとんど露出している彼女の、汗ばんだ二つの丘の間にタグルの顔はくっつくことになる。
「わ、わわわわわ!」
慌ててタグルはパーシィの拘束から逃れて真っ赤になった顔で「と、とにかく家に戻って準備してくる!」と駆けだしていった。
一瞬、泡瀬はパーシィをキツイ目で睨んだが、即座にタグルの後を追う。
「二時間後までには戻って来いよー!」
パーシィは二人の後ろ姿に手を振った。
「…………君、楽しんでるだろ?」
その背中に呆れた顔でレッドが突っ込みを入れる。
「まぁな。タグルは何となく、弟っぽいんだ」
肩をすくめながらパーシィは踵を返す。
「そういえば男の子の相棒は初めてじゃないのか?」
「そういえば、そうだな」
「案外、弟みたいに思っていたら、気がつくと……ということもあるかもしれんぞ」
「それはないな」
ひらひらと手を振ってパーシィはレッドの懸念を否定した。
「私は……恋愛など出来ない女だ。永遠の旅人だ。誰かの胸に帰ることは出来ない。失ったものを見つけるまでは、な」
「そのことは彼に話したのか?」
「話す必要なんかない」
いつになく、乾いた声でパーシィは呟くように言った。
「どうせ皆、いつかはこの船を下りて自分の人生を歩んでいく。私は面白おかしい冒険者の、美人のお姉さんでいいのさ」
「美人ねえ」
レッドは苦笑を浮かべ、すぐにかき消した。
「さながらどこかのアニメキャラみたいに、『青春の幻影』のごとく、か」
「そんなところだ」
「知ってるか? それを口にしていたキャラは、最後、弟のように思っていた道連れの少年を真剣に愛してしまうんだぞ?」
「私にその心配はない」
パーシィはそこで話を打ち切ると、店の奥…………「ロスティニア」のコックピットへと戻っていった。
☆
店の奥にある扉から、「ロスティニア」のコックピットにあがるまで、泡瀬の口はポカンと開いたままだった。
「うわ……本当に中が広いのね」
「でしょ?」
タグルが微笑みながらアワセの荷物をひとつ「よっこいせ」と背負い直す。
ずっしりと重いカーキ色のダッフルバッグである。「日本陸軍226」と白いスプレーで文字が塗装されていた。
「しかしまあ、これだけ武器弾薬があると心強いね」
横で同じダッフルバッグを軽々と背負い、さらにガンケースを二つ手に提げたレッド・リーコンが爽やかな笑みを浮かべる。
泡瀬が時間ぎりぎりになって持ち込んできたのは、大量の武器弾薬だ。
タグルが受け取ったものも含め、両手にパンパンに膨らんだカーキ色した陸軍仕様のダッフルバッグ、背中に同じくパンパンに膨らんだ米軍の行軍用のデイパック、という大荷物の泡瀬を見て、パーシィは半ばあきれ顔で苦笑を浮かべたものだ。
相棒のカレンもついでに連れて行きたかったが、あいにくと東京の「暁」本部に、この前の先頭で破壊された強化装甲服の修理移送に赴いていて、間に合わなかった。
だから荷物はタクシーに詰め込んで持って来たものである。
「俺としては大変ありがたい…………ところで中身はやっぱりM4?」
「はい、それが四挺とXMのリボルビンググレネードランチャーです」
「そりゃ心強いね。何しろこの世界で言えば昭和十年の東京だからな」
「昭和十年?」
「それも『次差』の影響のひとつだ……荷物はそこに入れておけ」
それまで忙しくコンソールの周りを駆け回っていたパーシィが「杖」をかざすと、コックピットの入り口そばの壁がぱかりと上下に開いた。
「とりあえず、出発前にいくつか言っておくことがある」
荷物を収納し、適当な座席に座った一同に向けて、パーシィは教師のように杖の握りで掌をぽんぽんと叩きながら告げた。
「これから我々が行く先は文明レベルで言えば十九世紀半ば、日本で言えば明治末から大正頭、今から一〇〇年近く昔だ、従って携帯電話もインターネットもない、公衆電話はあるが、警察にしか繋がらない非常用の物だ、あとこの世界の昭和十年と違って、テレビはある。一日八時間だけだが。
そして男女の区別が厳しい。十代の男女がふたりきりで歩けば眉をひそめられ、場合によっては通りすがりの警官に叱責される……あ、そうそう、警官も軍人も君たちが知るようなフレンドリーな存在ではなく、非常に居丈高だ。
それと物価が違う。君たちの世界でいう『十円』が今度の平行世界では数十万の単位にひとしい。だから財布は置いていって貰う。それから服装も」
「…………」
タグルは思わず隣の席に座った泡瀬と顔を見合わせた。
「それと最後にもう一つ————今回行く次元番号312の世界において、私はエルフ、君たちはヒト族と呼ばれる『人間』だ。他にも様々な種族がいる。くれぐれも驚いて珍しいからといってしげしげ眺めたりしないように。それと腰から刀を下げて歩いてるのも多いが、彼らは本物の『サムライ』なので同じく見つめないように、刀の鞘にうっかり足をぶつけたりするなよ?」
それからくるりと「杖」を回転させ、コートの内側にしまい込むと、パーシィはニッコリと笑った。
「では、旅の諸注意はおしまいだ————出発しよう」
そう言って、パーシィは操縦席の水晶に触れた。
ごうん、という腹に響く音がして「ロスティニア」が動き始める。
☆
次元番号312に到着して、ドアを開けるとそこは一面の銀世界だった。
日はまだ昇ったばかりで、吐いた息が一気に白くなり、顔の皮膚が凍り付く感覚。
「うひゃああ!」
思わずタグルは、詰め襟の学生服の上から羽織ったコートの襟元をあわせ、帽子を目深にかぶり直し、振り袖の上から専用のコートを着用した泡瀬はマフラーをまき直した。
ちなみに泡瀬もタグルもガンケースを一つづつ下げている。
「一瞬にして夏から真冬かぁ」
「ここは、どこですか?」
「場所的には……浅草だ」
「ここが?」
「やや外れたところだからな。あと高層ビルはまだ存在しないから、風景も随分違うだろう?」
「さ、お迎えが来たぞ」
両手に弾薬の詰まったダッフルバッグ、背中にはガンケースを背負ったレッドががっしりした顎をしゃくって見せた。
みると雪道をゆっくりと、タグルたちの知る広く低いボンネットではなく、細長いボンネットの左右に突き出すようにライトの付いた、優雅な曲線で構成された自動車が二台やってくるのが見えた。
「そういえば、サクラコは免許をとったんだっけ」
レッドが嬉しそうに呟く中、自動車はタグルたちの前に到着した。
うち一台の運転席が空いて、グレーのインバネスコートに教会の鐘を思わせるシルエットの帽子をかぶった少女が降り立った。
「ようこそ、パスウィダー。あなたたちを歓迎いたします」
そういって優雅に少女は一礼した。
「やあ、久しぶりだね、サクラコ…………タグル、アワセ。彼女はキンノウイン・サクラコ、この世界の東京を守る霊能力軍事組織{霊能力軍事組織:サイキック・ミリタリー}のエリートだ。サクラコ、こちらはサタウチ・タグルとセソコ・アワセ・私の友人で今回の助手になる」
「はじめまして宮内省陰陽軍{陰陽軍:おんみょうぐん}、第一霊子隊隊長、勤王院桜子と申します、何卒よろしくお願いいたします」
あらためて、桜子はタグルたちに頭をさげた。
「あ、ど、どうも沙汰内類です、よろしくお願いします」
「瀬底泡瀬と申します、何卒よろしくお願いします」
ぺこりとふたりは頭を下げる。
「いかにも日本的風景だねえ。少なくとも女の子二人は互いの値踏みをしてるぞ、あれは」
小声でレッドがパーシィに囁くが、
「放っておけ。どちらも戦士としての本能というやつだろう。君のように性欲対象となりうるかの値踏みよりは健全だ」
「ひどいなあ。これでも元チームじゃないか」
「昔のお前はマシだった。今は何だ、堕落の極みだぞ」
「ひどいなあ」
そんな親友同士なのか夫婦なのかわからない掛け合い漫才をしているパーシィとレッドを、ちら、っとタグルは横目でみていた。
☆
自動車で二天門前から外れた所にある大きな劇場にタグルたちは通りかかった。
看板には今と違い右から左へ書く文字で「浅草少年少女歌劇団」の文字がある。
劇場は古いアール・デコ調のデザインで、それもまた二〇一六年を生きるタグルとしては目新しい。
しかし、劇場である。軍事基地では無い。通り過ぎるのかと思っていたら、その前で下ろされた。
「劇場?」
「ええ、我々は表向きは存在しない隠密部隊ですので、こういう所に本部を作っているんです。劇場と映画撮影所はどんな突飛な人や物が出入りしても怪しまれない場所ですから…………といっても、半分は公然の秘密と化していますけれど」
車を劇場の地下に停めて来た桜子が、ドライバーグローブを脱ぎながらにこりともせず説明した。
「なるほど……」
タグルは感心して頷いた。
というより、車に乗って五分もしないうちからずっと感心しっぱなしである。
何しろ自分どころか祖父母さえ生まれていない時代。
なによりも、この浅草の人の波の中で見た様々な「人」の群れ。
頭から角を生やした人鬼{人鬼:オーガー}をはじめ、エルフやドワーフ、コボルトなど、ファンタジー物のゲームなどでおなじみの人種が和服や洋服をつけ、日本語の看板立ち並ぶ中をコートの襟を立て、あるいは喋りながら、笑いながら、行き来する光景。
まさしくここは「平行世界」だった。
そして、劇場の周辺で次回演目のポスターやスチル写真を眺めているほっそりしたエルフやずんぐりしたオーク、背は低いが筋肉質なドワーフの少女たちの目がキラキラしていて、そこはタグルの世界でも変わらないのが微笑ましい。
聞けばタグルのようなヒト族は人口の三分の一、残りはこういう異種族なのだという。
「こちらへ」
桜子の声で我に返り、タグルは手に持ったずっしり重いガンケースを握り直した。
(そういえば見学旅行じゃないんだよな……この人たちの為に、頑張らないと)
ぞくっとする。
これまでと違い、今回は自ら望んで騒動の中に飛び込むのだ。
劇場の中はかなり暖かい。
さらに絨毯の踏み心地にタグルは驚愕してまじまじと足下を見た。
一見なんの変哲も無い絨毯なのだが、くるぶしはおろか、どこまでも足を包み込みそうな、不思議な踏み心地があった。
なんとなく、文字通り自分が足を踏み入れた世界そのもののイメージにぴったりな。
「面白い踏み心地だろう? それは龍の髭の繊維を織り込んであるんだ」
タグルの驚いた顔をのぞき込みながらパーシィが説明してくれた。
「龍の髭?」
「中国で取れる。年に五、六回は髭が抜け落ちるから、龍族はそれを売って自分たちの住む山野を維持しているんだ。中には政府高官になるものもいる」
「へえ」
エルフもドワーフもいるのなら、龍ぐらいはいるだろう、と納得した。
「でもどうやって建物の中にはいって政府の仕事とかするの?」
「そりゃ専用の硯や筆もあるし、彼らの中には念道力のような技をつかったり、人の姿に変身出来る能力を備えたものもいるんだ、問題無いのさ……こちらの日本にも政府の中にふたりほどいるぞ」
「へえ……」
一行は廊下の奥へとすすみ、警備員へ桜子が身分証を見せると、タグルたちは関係者以外立ち入り禁止、と書かれた札の下がる豪奢な赤いロープの結界の先へ赴く。
突き当たりには重厚な両開きの扉があった。
開けて中に入るとエレベーターで、レバーを桜子が引くと、かなりの地下に案内された。
開くと、広大な空間。入り口はその空間を見下ろす位置で、全てが見通せる。
天井をみあげると恐ろしく高く、二十メートルほどの高さに鉄骨を組んで照明が何列も並んでいて、果ては見えない。
壁も床も巨大な水晶を薄く貼り付けたかのように半透明でキラキラ輝き、床には巨大な紋様が描かれているのが判る。
中央には巨大な機械が鎮座していた。
巨大なやぐら状に組まれた鉄骨と作業用ライトに囲まれたそれは、大小様々な歯車とパイプの塊で、巨大な楽器とも、神殿のようにも見えた。
大きさは十メートルぐらいだろうか。
それが五つ、なんらかの規則性をもっているらしい等間隔で配置され、その間を何百、何千という様々な「人間」たちが走り回っている。
彼らは資材を持っていたり、何かの図面を丸めたものを小脇にいくつも抱えていたりと忙しそうだ。
さらに耳をつんざくような機械工具の音も響いている。
だが、ここはどういう場所か。
「もともとここは龍脈の中継点で、第二次関東大震災が起こった際、龍脈の流れが変わって生まれた空間でした」
桜子が白い指先に細長い紙をもち、一振りすると紙が燃えてその雑音が消えた。
「五百年ほど龍脈の中継点だったお陰で、岩盤は鋼鉄結晶化、あらゆる物理はもちろん、霊的攻撃も受け付けないというわけです」
「龍脈とは、地球そのものが持つ生体エネルギーの一種だ。この世界では特に濃厚で、上手く扱えば魔法のようなことも起こせる」
パーシィが解説を入れてくれた。
「凄いですねえ……」
タグルはこの異世界について数時間、ずっと「凄いですね」と「へえ」以外自分が口にしてないような気がしたが、実際凄いのだから仕方がない。
「…………」
が、パーシィは珍しくしかめっ面で腕組みをして桜子を見つめていた。
「私の記憶が正しければ、もう霊子結界炉の再点検は終わってなければならないのではないのかね?」
「なにそれ?」
「あの五つの機械のことだ。この日本を東西に貫く龍脈をコントロールし、あの半透明の岩盤の下に封じた、この土地に染みついた残留思念の塊を封じて『幸運』へと変換、大規模な自然災害や戦争になるような決定的な事件や事故を防止し、敵意を持った他国の軍が侵入しようとした場合、あるいは大規模な呪詛兵器による攻撃を受けた場合、これを阻む結界となる。
まあ、一応は平和を維持する為のシステムだ。戦わずして繁栄を享受するには重要だが…………ややチートシステムではある。まあ、血の要らない、特大の清明歯車を使った強力な結界装置といえばいいのかな?」
「え……?」
極秘事項の清明歯車のことを持ち出されて驚く泡瀬をよそに、
「それでも、国力の無い日本には必要です」
桜子はまっすぐにパーシィを見つめて言い切ったが、僅かにその涼しい瞳の中にためらいと疲労があるのをタグルは見た。
「で、まさかこれの補修を手伝え、とかいうのではないだろうな?」
「そうしていただきたいのは山々ですが、今回は違います、パスウィダー」
桜子は、思いがけないことを告げた。
「我が国は今、狙われています————吸血鬼に」
「吸血鬼?」
タグルはともかく、パーシィは動じない。
「ヴァン・ヘルシング協定を違反したはぐれ者の吸血鬼が、我が国の不穏分子を煽ってクーデターを企てています。じつは三日前にその半数が決起して、何とか制圧しましたが、今も半分が潜伏しています」
「何人?」
「およそ一〇〇〇人」
「で、どこのだ? イギリスの連中とフランスはないとして、中国のフー・マンチューか、それともヨーロッパのツェペシュ系か、アメリカの『夜の曲馬団』どもか?」
「ソヴィエト帝国です」
「……随分と偉いところから来たな」
パーシィが難しい顔になる。
「親玉の吸血鬼がだれかは判っているのか?」
「暗号名『ヴァーオウ』です」
「…………帝王同志レーニンの秘密兵器か。厄介なのが来たな」
「ええ、彼は『増殖』することに禁忌がありません。そして『増殖』させた自分の仲間に対し、一切の同情も、感覚共有もしない希有な体質の吸血鬼{吸血鬼:ストリゴイ}です」
「ヴァチカンとチェコには連絡をしたのか?」
「ええ。対吸血鬼機関と法王庁十三課の局員が二十人ほど。二ヶ月持ちませんでした」
「全員食あたりでも起こしたのか?」
「パスウィダー、あなたをお呼びしたのはその際に、発覚したことがあるからです————その二十人を殺したのは、『ヴァーオウ』やその配下の吸血鬼ではありませんでした。人間です」
それも、数分前までこの事件になんの縁もゆかりもなかった一般市民が急に襲いかかってきたのだと————しかし殺された方も吸血鬼退治のプロらしく、一般市民を半分までは討ち取って倒したという。
「検死解剖では理由は不明でしたが、念のためこちらで霊子解剖を行ったところ、こんなものが血液の中から採取されました」
そういって、桜子は懐の中から小さなガラス瓶を取り出した。
親指ほどの大きさのものの中には、ぎっしりと銀色の粉が詰まっている。
「……」
パーシィはそれを受け取ると、「杖」をかざして光らせた。
てろりと小瓶の中に詰まった液体は溶け、とある形になる。
牙だ。肉食獣の。
「これは何人分だ」
「五〇人分です」
やがて、単眼鏡{単眼鏡:モノクル}に様々な情報が提示されては消え、
「……なるほど、私を呼ぶわけだな」
パーシィは杖の光を消すと、にやりと笑った。
「確かに、これは君たちでは片の付かない問題だ……異星人が絡んでいる」
「とても申し訳ないお願いなのですが、これまでの『ヴァーオゥ』のやり口は、一度ことが発覚した後は早急に次の騒ぎを引き起こします、間隔は三日もありません」
「わかった、それまでに奴らの次の目標を探り当てて、防衛、かつ吸血鬼退治をしろというんだな?」
「やり方はお任せします。吸血鬼は我々が何とかしますが、異星人の方を特に」
「心得た」
パーシィは半分不承知ながら、という顔で頷いた。
「勤王院中佐」
下へと続く階段から声がかけられた。
見ると、髪の毛を短く刈り込んだ二十代半ばで、カーキ色の士官服を着けた青年が敬礼するのが見えた。
「あ、天酒{天酒:あまさか}大佐」
そう言って桜子が背筋を伸ばして敬礼し、レッドも微笑みながら敬礼した。
それから青年はタグルたちに向き直り、
「はじめまして、自分は天酒希人{天酒希人:あまさかまれひこ}であります。陸軍よりここに出向するに当たって大佐などと言う肩書きをいただいておりますけれども、実際には勤王院中佐に頼りっきりの若輩者でありますが、どうぞよろしく」
そういってまた敬礼した。
パスウィダーも丁寧に一礼し、タグルと泡瀬を紹介する。
「異星人がらみは早めに解決するに限りますから」
それから、いきなりこんなことを言い出した。
「とりあえず、二日で解決しましょう」
「くれぐれもよろしくお願いします、これが魔界の怪物や悪魔の類いなら我々でなんとかできますが、空の上からやってくる連中となりますと、我々はまるっきりでして」
馬鹿にするでもなく、冗談と思っているというわけでもなく、真面目な顔で天酒大佐は敬礼した。
「パスウィダー殿、何卒よろしくお願いいたします。我らそのための助力は惜しみません」
そう言ってさらに一礼し、踵をくるりと返して去って行く。
一切の動きに無駄がなかった。
「パーシィ、ここには何度も来てるの?」
「まぁ、何というか色々有ってな」
「パ—シィはこれまで十回以上私たちの危機を救ってくれています」
静かに桜子が告げた。
「私がまだ十二歳で訓練候補生だったころからです」
「あのころはまだ、ここも真新しかったし、ろくに暖房も通ってなかったな」
懐かしそうにパーシィが笑う。
「ええ……あれから先輩たちが去り、私が隊長に昇進してしまうなんて、思いもよりませんでした」
「まりあや百合は幸せにやっているのかい?」
「ええ、今やお二人とも海軍将校の奥様ですわ、たまにこちらにも観劇にいらっしゃったりもしますけれど」
「そうか……よかった。次は君だな」
「いえ、あの、わ、私は……」
うろたえて赤くなる桜子は、初対面の冷徹さからはほど遠い年頃の少女の表情で、それだけでタグルはホッとした。
☆
タグルたちの宿舎は、基地の中にそれぞれ個室が与えられた。
貴賓室にあたるところらしく、木で出来たドアに豪奢な家具類があって、タグルとしては少々居心地が悪い。
以前家族旅行で泊まったホテルのように「豪華に見えるけれど実は綺麗にしているだけで品物自体は価格が高いだけ」というようなものではなく、本物の革であり、椅子も、机も人の手が作るからこそなしえる気持ちのいい手触りやカーブを描いている。
そしてそれを、単なるつや出し用の化学製品で磨くのでは無く、本来の持ち味に人の手が触れることで重なっていく重厚さを残すというやりかたで磨き上げられていることで生まれる輝き。
何から何まで「本当の高級品」だ。
龍の髭が織り込まれた絨毯も含め、これが異世界の「おもてなし」だというのなら、これに慣れきったら他は馬鹿馬鹿しくなるんじゃないかというおっかなさがある。
四つの個室の間にはティールームまであって、荷物を置いた後、タグルと泡瀬はこの世界に関して少々レクチャーを受けることにした。
「まあ、吸血鬼と考えるから驚くんだ、特殊能力を持ったスパイが、国内攪乱を狙って潜入してきた、と考えればいい」
「まあ、ファンタジー世界みたいなところだから、アリなんだろうとは思うけど……なんでそんなことを?」
「答えは見ただろう? あの霊子巨人だ。君にはピンと来ないだろうが、アワセはあれがどんな物か察しが付くんじゃないかな?」
「ええ。あれは……かなりの破壊力を持つ装置ですよね。私たちの世界で言えば核兵器に匹敵するような」
「それよりも悪いよ、ありゃあ」
レッドがソファに寝っ転がって言った。
「だが、ここの統一日本帝国で、いま無限に利用できるのは龍脈ぐらいのもんだ。弾薬は使えば減るしな」
「街は結構賑やかなのに、財政は厳しいんですか?」
「この世界じゃ、日露戦争に負けたからね。お陰で軍の上層部やら政治やらが一新されたのはいいんだが、日銀は破綻、一度は西と東で分裂騒動が起きたぐらいだ…………もっとも、ロシアのほうも革命が一回で成功してひっくり返ったが」
「えーっと、でもそのあと出来たのはソビエト連邦じゃありませんでしたっけ?」
乏しい世界史の知識を動員してタグル。
「革命の後、レーニンが皇帝を継いじゃったんだよ。社会主義と帝政は矛盾せず、むしろ効率化された帝政が社会主義である、とかなんとか言って。で、アメリカは南北戦争のあと三つに分断、大英帝国{大英帝国:UK}はアヘン戦争にしくじってアイルランドと内戦状態、フランスはナポレオンがそろそろ八代目で今黄金時代真っ盛りってわけだ」
「世界史の教師{教師:せんせい}が知ったら卒倒しそうだなぁ」
「面白い事にドイツのチョビ髭伍長どのは君の世界の歴史通り、いま政治の表舞台周辺でウロチョロしているけどな」
「……というわけで、ここの日本は色々ややこしい立場に立たされているというわけだ」
パーシィが脱線しかけた話を引き取った。
「個人的には教育と金融、農業に力を注いで貿易立国としてやり直せばいいだけだと思うのだが、まあ、人心がかなり荒廃しているからな……ただ、それだけなら私は手伝わないし掛からない、このレッドと違って、私は軍事的な物が嫌いだ…………だが、今回のこの騒動は異星人が関わってる。それもかなりたちの悪いやつだ」
「ひょっとしてまたスウィムウェン?」
「いや、ソディオカントという奴だ」
「ソディオカント?」
「スウィムウェンと違って権謀術策が大好きな、メフィストフェレスみたいな奴だ。精神エネルギーが主食という変わった連中だが、中でも人の絶望とか怒りとかの感情が大好きでな……それゆえにあっちこっちの星や異世界で戦乱を引き起こす」
「…………いろんな異星人がいるんだねえ」
「まあ、宇宙は広く、平行世界や時間線は無限に近いからね」
「でもまあ、なんでこう急に異星人が僕らやこういう異世界にちょっかいを出しはじめたんだろう?」
「昔から山のように来てはいる。だが私や、その時に事件に巻き込まれた勇気ある一般人や、政府機関の連中が頑張って大事にしていない、というだけのことさ」
だよな、とパーシィは泡瀬に話を振った。
「ええ、まあ……私たち『暁』はパスウィダーの監視や記録もありますけれど、こういう人外魔境案件も処理することを目的に組織されてますから」
「なんか、映画であったねそういうの」
「『メン・イン・ブラック』か懐かしいねえ。もう何作出来てる?」
レッドがすかさず混ぜっ返した。
「主役の人の息子が今年最新作の主役をやるみたいですよ」
「そうかー。そっちに戻らなくなってもう十年だからなぁ。この一件が片付いたら少しのんびりしに行くかな」
「ところでパスウィダー、わたしたちはなにをすれば?」
泡瀬の問いかけに、
「今のところは街中を歩き回って、おかしな様子の人間がいないかを探ってくれ。恐らく奴らの最終目的地はここだからな………あと一時間ぐらい休んだらさっそく頼む」
「でも、ただ歩き回るだけじゃ……」
「アワセはともかく、タグルは一度時間旅行をした上に次元移動までしている。それだけで色々『特典』がくっついてくるからすぐに判るよ」
「どんな?」
「それはまあ、実際に遭遇してのお楽しみだ。あとこれ」
そう言ってパーシィはコートの内側からやたら歯車やらパイプやらが張り巡らされたペンを取り出した。
万年筆の一種なのかも知れないが、大きな歯車があちこちにあって、文字を書くだけであちこちから蒸気が出てきそうなデザインである。
「これは?」
「私の『杖』の小型版のギズモだ。君が歩き回ればそれだけで情報を収集する。私のもの同様に機械式の鍵なら開け閉めできるし、自動車ぐらいの電気系統ならショートさせることも可能だ。あとエアクッションを作ったりするのもできる」
「攻撃は?」
「ペン先をつかうか、君の応用力次第だ…………細かい説明は面倒くさいから実地で使って覚えたまえ。ちなみにこれがメインスイッチ。ペンの反対側がセンサー、とりあえず地球外のテクノロジーや存在に感知するように今は設定してある。ペン先は水以外の全ての物に書くことが出来て、スイッチを入れてセンサーの光を当てると同じ光を当てない限りすぐに消える……他の機能の切り替えはペン先の後ろにあるリングをダイヤル錠の要領で回せばいい。これだけ判ればいいだろう」
「んないいかげんな……」
「詳細な説明書を作っても、全部読む人間は一〇〇人にひとり、いればいいほうだからな。君だって読むタイプじゃあるまい?」
「————それは否定しないけどさ」
ずっしり重いその万年筆型の「小型ギズモ」をタグルはポケットに収めた。
「それに、この前の拳銃もあるだろう? あとはアワセに面倒を見て貰え」
「え?」
思わずふたりは顔を見合わせる。
何故か泡瀬は顔を赤らめてそっぽを向いた。
「とりあえず俺が泡瀬ちゃんとタグル君を連れて行く、君はやることがあるんだろ?」
「まあな。ソディオカントが吸血鬼と組んで何の得があるのか、あれこれ調べておかねばならんからな…………紙資料で」
そういってパーシィは天を仰いだ。
「とりあえず、サクラコにここ半年分の、手に入る限りの新聞とカストリ雑誌を持って来てくれるように頼んでくれ。あと三日前にあったというクーデターの資料も」
「あいよ」
レッドがひらひらと手を振った。
「あとはコーヒーとドーナッツだな?」
「ああ、山盛りで頼む」
☆
パーシィの打ち出した今後の方針に、意外な事に桜子は異を唱えることも、呆れることもなく、それを受け容れた。
どうやらタグルたちが思っている以上に、パーシィは彼女の信頼を得る働きをこれまでしてきたらしい。
そしてタグルたちは劇場には上がらず、途中で極秘の通路を通ると、見たこともない大きな公園に出た。
瓢箪{瓢箪:ひょうたん}の形をした池にのほとりに東屋があり、さらに彼方には見たことも無いバロック調の建物が建ち並び、さらに、大きな塔がそびえているのが見えた。
タグルの知る浅草と違い、高層ビルが無く、空が広いため、どこだか見当も付かない。
「ここ、どこですか?」
タグルの言葉に、レッドは微笑んで。
「あそこに見えるのが再建された浅草十二階と呼ばれる凌雲閣、それ以外のモダンな建物は浅草ロックと言われた興業街だよ。カタカナでロックだ」
「浅草でロックが演奏されてたんですか?」
「違う違う、正確には浅草寺周辺を七つの区画に区切った上での第六地区という意味でね。ロックとカタカナで書くのはいま…この時代の流行表現なんだ」
「へえ。興業街って、何してるんです?」
「演劇に映画、あと落語や漫才、この時代の娯楽が全部見られるようになってる」
「へえ……」
「映画と言っても映像はまだほとんど白黒だし、音声はようやく最近つくようになったがね。弁士の喋りも面白いよ、ロックは一流どころがそろってるから……こんな状況じゃ無ければ案内したいところなんだが…………いま『未完成交響曲』と『大江戸出世小唄』あたりがかかってるんだ、これが結構味わいが深くて面白い」
やがて、浅草寺の前、仲見世の始まりに出る。
タグルたちの世界でも休日に混雑していることで有名な浅草は、その数十倍の人いきれを見せていた。
それも老人や観光客のあつまる、どこかのんびりした混雑ではなく、最先端の娯楽施設にある殺気のような、浮かれているような混雑ぶりだ。
さてと、おしゃべりはこれぐらいにして、とレッドは仲見世の雑踏の手前でくるりとタグルと泡瀬に振り向いた。
「僕はちょっとあちら……北側を探ってくる。君たちはゆっくりと仲見世を下って、南へ移動しながらあちこち見てきてくれ。お腹がすいたら渡したお金で適当に。あとそうだな……四時間後に雷門の前で落ち合おう…………あと君たちは警察とかに聞かれたら兄妹ということにしておきたまえ、沙汰内タグルと泡瀬、両親の病気で、大阪の学校から呼び戻されたが、病状が回復したので浅草見物に来た、と。それならたとえ手を繋いでいても大丈夫だから」
「て、手を繋ぐって……」
タグルは赤くなった。
「そ、そういうつもりでわたしたち、ここに来たわけでは……」
泡瀬もうろたえるが、
「まあ、雑踏ではぐれないためにはそういうのも必要だろ? 他意は無いよ」
どうみても「大嘘です」と顔にかいた表情でレッドが笑う。
「でも、パーシィも言ってましたけど、『僕らが見れば判る』ってどういうことですか?」
「反応が人それぞれなんだよ……ただ、僕や君みたいに『よその世界から来た』人間は同じ類いの連中の痕跡が判るんだ。何となくこう……ぴん、とくる。俺は妙な匂いで気づくし、パーシィは『矢印のような物が見える』と言ってた」
「…………なるほど」
「何か有ったら携帯で電話を」
ここに上がる前パーシィが作った特殊なシールを貼り付けた携帯を取り出し、レッドは降って見せた。
複雑な魔法陣の描かれたシールはタグルと泡瀬の携帯にもそれぞれ貼られている。
このお陰で、携帯はそのままの機能をこの世界でも使えるらしい。
「わかりました」
タグルと泡瀬は頷いて、一行は二手に分かれた。
☆
劇場地下で、パーシィは巨大なインド紫檀の机の上に置かれた書類の山に埋もれている。
日本語、英語その他の言語を問わずに集められた半年分の新聞と、カストリと呼ばれるゴシップ雑誌がごっちゃと広げられ、それを片っ端からパーシィはめくり続けている。
読んでいるのか、眺めているのかも判らない速度だ。
それも左右に並べているものを両手でめくり飛ばしている。
終わると次々に側にある台車に放り投げるが、これがデタラメでは無くきちんと列を成して積み上げられていくのが異様だった。
「ソディオカントめ……いったい何が目的で吸血鬼に協力なんか……?」
「はーい、おかわりでーす」
赤いお仕着せをつけた森人{森人:エルフ}の少女が片手に持った銀のトレイにコーヒーとドーナツの皿、さらに片手で三ヶ月分の各国新聞と、諜報関係の資料を山盛りにした台車を押してやってきた。
「ああ、里奈夢{里奈夢:りなむ}じゃないか! ありがとう……しかし随分大きくなったなあ」
トレイを受け取って満面の笑みを浮かべながらパーシィ。
「この前お会いしてから三年ですから」
森人は、十八歳まではヒト族と同じように成長する。里奈夢はまだ十代だった。
「傷はどうだ?」
パーシィは少女の右肩を気遣う目で見つめた。
四年前、初めての戦いに身を投じた里奈夢は、そこに呪詛の込められた銃弾を受けて、重傷を負った。
まだ十二歳の少女の身体には呪詛弾は深刻すぎるダメージを与える————霊子軍の隊員としては致命的な傷で、また呪詛も強力なものだったから、一時は首から下の右半身が麻痺するほどだった。
「ええ、リハビリと修行のやり直しで、何とか……霊力の方も戻ってきましたし」
「そうか」
視線を伏せたパーシィの目に一瞬、後悔と逡巡の感情がよぎる。
呪詛弾の影響はまだ身体のあちこちに残っているのを、恐らく気力でいつも通りに振る舞えるようになっているのだろう。
「まだ劇場{劇場:うえ}の舞台候補生をしているのか?」
パーシィは話題を変えた。
「ええ、ようやく先月、舞台を踏みました……端役ですけれど。あと年少組の座長をやらせてもらってます」
お仕着せ姿の少女は恥じらって顔を伏せる。
宮内省陰陽軍{陰陽軍:おんみょうぐん}、第一霊子隊は、もともと帝都の安寧のために封じられた様々な「もの」を慰撫し、その力を高めるために組織された巫女の集団である。
平将門をはじめとした、悪霊怨霊の力を封じることで守護神とし、帝都繁栄をもたらすことが役目であり、そのための歌舞音曲はつきものであった。
故に上にある劇場で上演される演劇も、レビューも全て、「奉納」されているのである。
さすがに隊員がメインの主役を張ることはないにせよ、端役、脇役の類いに多いのは事実であった。
実際、隊長である勤王院桜子も芸名で舞台の主役を演じている。
「それは素晴らしい! 戦うばかりが人生ではない、人を楽しませることも立派な仕事だ……それに、ここの職員としては素晴らしいじゃないか」
「でも、まだ正式隊員には……というか、正式隊員枠が去年からなくなってしまって」
「何?」
「不況と陸軍の装備更新が重なって、第一霊子軍は緊急時に再編、ということで今予算凍結状態なんです。霊子結界器さえあれば他は要らない、と」
科学技術が発達した現在、悪霊ごときは陸軍の装備でなんとでもなる、故に歌舞音曲や霊力を使った武器を操る霊子軍はもはや時代遅れの無用の長物であり、女子供を遊ばせるための惰弱な組織であるというのが最近の国会における大きな勢力の主張であるらしい。
「馬鹿か、陸軍共は!」
あきれ果ててパーシィは吐き捨てるように言った。
「この国独自にして最強の防衛システムを何だと思ってる!」
「…………ですけど、天酒大佐はともかく、その上のエライ人たちはそう考えておられないみたいで。来年度から私たちの劇場での役割も制限しようと……」
宮内省の管轄とは言え、装備その他の機材に関しては陰陽軍は陸軍に「間借り」させて貰っているし、予算の半分は軍の「機密費用」の中から出ている。
故に陸軍の横やりが入るのは良くあることであった。
「よくサクラコが怒らないな」
「隊長が抗議なさっているんですが、上手くいかないらしくって……不景気もひどくなり、これから国防的にも大変な時代が来るのに、歌舞音曲に現を抜かすとは何事だって……湯殿のお爺ちゃんが亡くなられてからは宮内省の人たちも気が弱くなっちゃって」
「愚かな事だ」
パーシィは即断した。
「歌舞音曲や娯楽を制限して長命を保った近代国家など皆無だというのに————で、劇場そのものの経営はどうだ?」
「やっぱりスターを使ったときと、そうじゃないときの落差が激しくて……最近は引退する人も増えましたから」
「こういう少年少女を使った歌劇団は、どうしてもごっそりと人が抜ける季節があるからなぁ……いっそ引退年齢に達した連中で、希望者を募って上のクラスの劇団を作ったらどうだ?」
「それ、是非支配人に申請してください」
「そうだな」
そう言ってパーシィは懐からペンと紙を取り出してすらすらと走り書きをし、折りたたんで理奈夢に手渡した。
「これは?」
「さっき言った案だ。まだ支配人は黒瀬さんだろう? それを見れば判るよ」
「はい!」
嬉しそうに手紙ともメモとも呼べぬ紙を胸に抱くと、エルフの少女は走り去った。
「しかし、あの年齢の少女に振り袖も着せぬとは、本当に色々不景気なのだな……それとも衣装か? まぁいい」
呟いて、パーシィは再び分析作業に戻った。
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