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「A・J あの日まで、僕は」

「A・J あの日まで、僕は」       神野オキナ

 あの日まで、僕は何も知らなかった。
 世界は遠くて、戦争はもっと遠かった。
 あの日、僕らはいつも通りに中国と韓国の悪口を言いながら帰り道をだらだら歩いていた。
 海沿いの道。
「311」と呼ばれた震災は僕らの生まれる前の話で、護岸工事はようやく終わり、真っ白に輝く高い防波堤が僕らを見下ろしていた。
 暑い暑いといいながら、僕らは防波堤に昇った。
 他にやる事のない、一学期最後の日だから、何となくそうしてると夏休みの始まりが遅れて、もっと長く楽しめる気がして。
 堤防からは港町として発展した僕らの町が見下ろせる。
 40メートルの高波が来ても大丈夫なそこから、世界を見下ろしてる気分になった。
 じりじりと、太陽の照り返しが僕らの肌を焼く。
「やっぱりさ、中国なんてない方がよくね?」
 堤防の上をぶらぶら歩きつつ、小太りのユウちゃんが口を尖らせた。
「だよなあ。いったいいつまで昔の戦争引きずってるんだよ、靖国参拝ぐらいいいじゃないか」
 僕は首を縦に振る。
 その前の週、日本の首相が二期目を記念して靖国神社に参拝して、ちょっとした騒ぎになっていた。
「なー。だってもう当事者なんかいないだろ? あの戦争から一〇〇年ぐらい過ぎてるんだろ? もういいじゃん」
「だよなあ。中国だってもうバブル弾けて三等国家なんだから、威張れないじゃんか」
「天下三分の計、って本当だよなあ。あの国は三つに分かれてるぐらいがちょうどいいよ」
 やせて長身の石動{石動:いするぎ}の三郎も意見を合わせてきた。中国が三つに分かれてちょうどいい、って話は多分、この前ダウンロードが始まった小説からの受け売りだけど、僕は何も言わなかった。
 無事に受験に受かって高校に入学できて、最初の夏休みが近づく中、僕らはもう子供じゃないことが誇らしかった。
「韓国だってさ、北朝鮮とやり合うのが怖いし、社会が壊れてるから、日本を馬鹿にして愛国無罪なワケだろ? 一度やっつけちゃえばいいんだよ。自衛隊の今の装備なら二日もかからないって」
「だよなー。自衛隊強いよ」
「そうそう。一発で何にも言えなくなるよ、首相もさっさとやっちゃえばいいのになぁ」
 僕らは笑い合った。
 戦争は大人の仕事だった。
 いや「仕事」自体が大人のものだった。
 そのときまでは。
 そして、周囲が急に暗くなって、奇妙な風が吹いた。
 生暖かくて、そのくせ冷たい突風。
 僕は思わず風に目を閉ざした。
「なんだ? 中国の兵器か?」
 ユウちゃんが笑う声を聞いたのが、僕たちの「日常」の最後だったと思う。
 目を開けて僕も何かを言おうとした。
 多分、「いやきっと韓国の奴だよ」とかなんとか。
 でも話しかけようとしたユウちゃんはちょっと首を斜めに傾けていた。
 真っ赤な霧のようなものが、海の反対……右側から吹き出して、アスファルトの道を濡らした。
 ユウちゃんのそばに立っていた、三郎の学生服のワイシャツが真っ赤に染まる。
「え?」
 タカタン、という甲高い、乾いた音が連続して僕の耳の中に響いてきたのはそのときだったと思う。
 ユウちゃんの身体は、そのまま銃弾に引き裂かれて地面に転がり、三郎が「ぎゃっ!」と悲鳴をあげて片腕を押さえてしゃがみ込む。
 そして、堤防のあちこちに火花が散って、砕けたコンクリートの破片が僕の顔を深く切った。
 その瞬間、初めて僕は「撃たれた」ことに気がついた。
 何かを叫びながら、僕は走り出そうとして脚をもつれさせ、防波堤から海に転がり落ちた。
 人生で一番高い所から落下したと思う。
 必至に手足をばたつかせて海面から顔を上げると三郎がぼろきれのようになって、体中のあちこちから紅い霧を吹き出しながらその場にぐずぐずと膝をつき、横倒しになった次の瞬間、防波堤が爆発した。


 慌てて泳いだ。爆発と銃声はずっと続いていた。
 あれだけ泳ぐのは生まれて初めてだった。
 堤防は次々と爆発し、聞いた事のないエンジン音があちこちからとどろいた。
 不気味な腹の底に響く重低音と上から押さえ込むような風圧が僕を何度も海の中に沈めた。
 見上げると、日本の国旗をつけたオスプレイが超低空飛行をしながら町へと向かっていくのが見えた。
 そして空中を走る白い煙の線。
 爆発と炎上は最初漁協の建物に炸裂した。
 次いで駅。
 最後が町役場だ。
 オスプレイは空中でホバリングしながら何本ものロープをつり下げた。
 よくユウちゃんの家で観た動画サイトの自衛隊員がするみたいに、ロープをするすると伝って男たちが降りていく。
 降りてくると、アサルトライフルを構え、あちこちに向けて撃ったと思う。
 銃声はずっと鳴り響いていた。
 僕はその間も泳ぎ続けた。小型船を上げ下ろしする斜面に来て、よたよたと陸にあがると、目の前を装甲車が走り抜けた。
 見つかれば死ぬ。
 何の脈絡も無く、僕は直感して、網置き場に逃げ込んだ。
 積まれた古い網の山に身を隠し、がたがたと震えて考える。
 携帯電話を取りだして家に連絡を取ろうとしたけど、アンテナは一本も立ってない。
 おかしかった。
 ここは何処でもアンテナどころかWi-Fiが使えたはずなのに。
 家が心配で、家族が心配になった。
 朝、母とは「うっさいな」と喧嘩をしたし、父はたまに家に帰ってくる程度の人で、恐らく女が居るのは分かってた。
 妹は僕を優柔不断なバカと面と向かって言うような嫌なやつだった。
 でも、家族だった。
 時折、「死んじゃえばいいのに」ということもあったけど、本当に死んで欲しいわけじゃない。
 僕は何とか家に向かう方法は無いか、必死に考えた。
 小屋の外にはいつしか足音に混じってキュラキュラという奇妙な音と、トラックのエンジン音を数倍にしたようなデカイ音が行き過ぎていくようになった。
 張り詰めた心が、何かを囁いてくれたんだろう。
 僕はふと、小屋の片隅に「排水路」と書かれたマンホールの蓋を見つけた。
 開けようとしたけどマンホールとその填まってる部分の間にはびっしりと土が詰まってる。
 でも、僕は一度市役所の人がマンホールの蓋を開けて点検する風景を見たことがあった。
 網を補修する道具に混じって、船のエンジンのための道具があって、その中にバールがあった。
 マンホールの蓋にある、一見指を入れて持ち上げように思える凹みにバールの先端を突っ込み、思い切って踏みつける。
 何回か踏みつけ、さらにマンホールの縁に細かくバールの先端を突っ込んでは蹴っていくと、ようやく蓋が浮いた。
 さらにバールを突っ込み踏みつけると、ごっ、という音がしてマンホールの蓋と、地面に隙間が出来た。
 以前、祖父に習ったようにしゃがみ込んで、さらにバールを入れて踏みつけ、ゆっくりと横に移動させる。
 マンホールの暗い穴と、降りていくハシゴが見えたとき、安堵の余りその場に倒れそうになったが、僕は何とか穴を降りた。
 頭がマンホールの中に入りきった途端、キャタピラが小屋を踏みつぶし、慌てて排水溝の底に降りたって横に飛ぶと、崩れた瓦礫の一部…………多分天井の梁部分だろう…………が、落下してきてさっきまで僕のいた場所に突き刺さった。

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