見出し画像

カレーチェーンCoCo壱番屋「創業者・宗次徳二さんの働き方」を学ぶ

はじめに

(1)「温故知新」の視点から探す「自分らしい仕事・働き方」
この原稿は、・宗次さんの人生に関する出来事を年齢順に表示しています。その目的は、宗次さんの「仕事理念・働き方」に関する情報を参考に、皆さんの「自分らしい仕事・働き方」を明らかにするためです。社会には、自分の仕事人生をイメージできない人が多くいます。そんな人に役立つ格言が、「温故知新=故(ふる)きを温(たず)ね、新しきを知る」です。 
「温故知新」は、「自分らしい仕事・働き方」を探すうえで有効な思考法です。ビジネスで成功している人達の情報を収集・分析していくと、自分の仕事人生に役立つヒントが浮かんできます。「自分らしい仕事・働き方」の目指すべき方向が見えてきます。「温故知新」の視点から既存情報をヒントに、「自分らしい仕事・働き方」を想像してください。
 
(2) 宗次さんを参考に考える「自分らしい仕事・働き方」
宗次さんの仕事人生は
1極貧生活でたくましい性格に成長
2不動産仲介会社に就職、24歳で起業
3現金収入のため喫茶店を開業
4事業拡大のためカレー専門店を開業
5社員がFCオーナーになる制度を導入
6カレー店を全国展開、47都道府県に進出
7会長を54歳で退任、NPO活動を開始
・・・などになります。天涯孤独の生まれながら29歳で「カレーハウスCoCo壱番屋」を創業します。お店を成功させるため、年中無休で睡眠時間も削り、全国チェーンのカレー専門店を育て上げます。宗次さんの仕事人生から自分に役立つ情報を探し出し「自分らし仕事・働き方」を考えて下さい。
 
注)宗次さんの「仕事・働き方」は、『日本一の変人経営者 CoCo壱番屋を全国チェーン店に育てた逆境力(著者:宗次徳二 発行所:ダイヤモンド社』を参考にしています。

Ⅰ 宗次さん「仕事人生」のステップ

宗次さんの「仕事・働き方」に関する主なステップです。「どのような仕事に取組み、どのように働いたか?」がわかります。個々の情報を参考に、「自分らしい仕事・働き方」を考えてください。
 
《誕生・・・・高校生》
養父が競輪にのめり込み極貧生活、養母の支援で高校を卒業
 
(1) 1948年 石川県で誕生
天涯孤独で、どんな家庭で、どんな両親のもとで生まれたかわからない。両親や兄弟、親戚に関する情報や消息は今もって不明である。
 
(2) 3歳まで児童養護施設で生活
子供のいなかった養父母が、尼崎市の施設にいた私を引き取ってくれる。
養父母は尼崎で手広く雑貨商や貸し家業を営み、裕福な家庭だった。

(3) 養父がギャンブルに熱中
終戦後、競輪が爆発的人気となる。養父は商売そっちのけで、財産の全てを競輪につぎ込み破産、夜逃げ同然で岡山県玉野市に転居する。
 
(4) 養母が家出、養父と貧困生活
養母が魚の行商で稼ぐなけなしのお金も競輪に消え、怒った養母は行方も告げず家を出る。養父はたまに道路工事などの日雇い仕事にありつくも、その日当を競輪で使い果たす。家賃が払えず、廃屋を転々とし、電気・水道の使えない生活を送る。
 
(5) 養母の家でローソク生活
1957年 養母が名古屋で1人暮らしをしていることがわかり、養父と2人でころがりこむ。電気のないローソク生活で、暖房器具もなかった。やがて、競輪熱のさめない養父に愛想をつかし、養母がまた家を出ていく。
 
(6) 家賃が払えず転居、何度も転校
中学になっても、養父は生活保護を受けながら競輪を続ける。家賃滞納でアパートを追い出されて親子2人で転居、そのつど学校も転向する。
 
(7) 1964年 全日制の県立高校に入学
定時制の高校に進学しようと考えていたが、家庭の事情を知らない担任の先生にいわれるまま全日制を受験する。公立高校の受験は無理と言われていたが、運に恵まれ愛知県立小牧高等学校商業科に合格する。
 
(8) 養母と電気のある生活
高校1年の時に養父がガンで死亡する。そのころ、養母は社員寮の賄い婦で働いていた。勤務先では自分の食事に手を付けず、余ったご飯やおかずを弁当箱に詰め込んで持ち帰ってくれる。アパートの家賃も滞納することなくなり、電気のある生活を始めて体験する。ただ、養母に甘えてばかりおれず、事情を知る豆腐屋のアルバイトをして学費を稼ぐ。

《18歳・・・・25歳頃》
不動産仲介会社に就職、結婚・独立
 
(9) 1967年 不動産仲介会社に入社
高校を卒業すると、新聞の3行広告で見つけた不動産仲介会社に入社する。スーツをもっていなかったので、学生服で会社に向かい、上司や同僚に笑われる。外交センスはなかったが、「営業マンらしくない」点が評価され、営業成績は毎月上位だった。休日は趣味のクラッシックを聞く。
 
(10) 不動産業の独立開業を検討
入社して3年、将来は独立して不動産仲介業を開業したいと思い始める。
独立するとして自分に足りないものは何かと考えているうちに、住宅建築の基本的な知識を学ぶ必要性に気づく。
 
(11) 大和ハウスに転職・上位の成績
住宅建築の知識を得るため、1970年プレハブで注目の大和ハウス工業に転職する。営業として上位の成績を収め、同僚より多くの報奨金をえる。休日には、月賦で買ったステレオでクラッシック音楽を楽しむ。
 
(12) 社内の女性と2年交際して結婚
いつも元気で笑顔だった社内の女性を好きになる。彼女は、早く父を亡くしたものの6人きょうだいの末っ子として愛情豊かに育てられていた。2回目のデートで結婚を申し込み、1972年結婚する。この結婚が自分の人生を決め、まさに日本一の妻だった。
 
(13) 不動産仲介業を開業
1973年、不動産仲介業「岩倉沿線土地」を開業、業績は順調だった。結婚して不動産開業の準備に入ったころ、日本経済は高度成長期でアパートやマンションが次々に建設されていた。独立開業に不安を感じなかった。
 
(14) 現金収入のある商売を検討
不動産の仕事は順調で、この商売を長く続けようと思っていた。ただ、
好不況の波を受けやすい仕事のため、将来がどうなるかわからないリス
クがあり、「現金収入のある商売」に関心を持つ。実際、1973年10月、オイルショックがおこり、日本経済は低成長時代へ突入していく。

《26歳・・・・29歳頃》
 26歳で喫茶店、29歳でカレー専門店を開店
 
(15) 喫茶店「バッカス」開店
夫婦の間で、安定収入のため喫茶店の経営を計画する。1974年、喫茶店
を開業、開店初日と翌日、店内の40席は終日満席になる。売上も、借入
金の返済目標・日商5万円以上で10万円を超えていた。
 
(16) 喫茶店経営が天職の感覚
店のオーナーであったが、本業は別にあるとして店の運営は妻に任せていた。一歩引いたところに立っている気持ちだったが、次々に来店するお客様をみて、「この仕事は、私にとって天職」と感じる。
 
(17) 不動産業を廃業、喫茶店に集中
喫茶店業に魅力を感じ、不動産業を廃業する。不動産業をしていると、時間を持て余してしまう。朝10時ぐらいまでベッドにいて、昼間も仕事の約束がないと、パチンコなどしてブラブラすごす。汗水たらして働く必要のない不動産業になれきって、目標もないぐうたらな生活を繰り返す毎日になる。心機一転、これぞ再出発と喫茶店にかける。
 
(18) モーニングサービスの無い店
東海地方では当たり前のモーニングサービスを提供しないことにする。おまけをつけたり、安売りすれば、お客様も最初は得した気分になる。しかし、次からはそれが当たり前になってやがて効果は低下する。さらに、提供しているサービスを上回るお店ができると、お客様はそちらに移ってしまう。店の魅力ではなく、安いから利用する店にされる。
 
(19) モノより真心のサービス
おまけより、心地良い空間を提供して満足してもらうことを目指す。お客様を明るい「いらっしゃいませ」の挨拶と笑顔で迎え、真心からのサービスを提供するほうが、いつまでも喜んでもらえる店になると思う。

(20) 手作りの軽食メニューが人気
軽食として、トーストやサンドイッチ、スパゲティなどのメニューをそろえる。細やかな気配りで提供、サンドイッチではからしが必要な人と必要でない人がいるが、1人ひとりに声をかけて好みに応じる。
 
(21) 立ちっぱなし商売で疲労困憊
忙しくなると、睡眠時間が4~5時間しかとれなくなる。営業時間は午前7時から午後8時までになっており、その時間帯は接客と調理にあたり、その前後に準備と後片付けがあった。終日立ちっぱなしで足は棒のようになり、「なぜこんな商売を始めたのか」と弱気になる。
 
(22)「珈琲専門店・浮野亭」の開業
「バッカス」開店から10か月たった夏、建築中の小さな店舗付き住宅に釘付けになる。ここで今はやりの珈琲専門店をやろうと閃き、1975年、「浮野亭」を開業する。当時の日本では、ブルーマウンテンに代表されるストレートコーヒーを出す高級志向の専門店が流行していた。
 
(23) 開店2日間は大人気、3日目から低迷
内装を少し凝った店にする。開店2日間は粗品目当ての来店者で大忙しだったが、3日目からバタッと客足が止まり一向に増えない。「バッカス」の馴染み客にも利用してもらうが、なかなか浮上の兆しがみえない。期待を裏切る低い売上が続いたため、このころの夫婦の昼食はサンドイッチやトースト用につかった残りパンの耳が多かった。
 
(24) 売上不振で運転資金も不足
売上不振のため、借入金の返済や家電のローン返済、公共料金などの支払いに追われる。午後3時前に信用金庫から「決済のお金が足りない」と催促の電話が来て、入金に走ったりする。
 
(25) テコ入れは「ウィンナー珈琲」
名古屋で一番、自慢の珈琲として「ウィンナーコーヒー」を売り出す。1客セットが2000円以上の高価な珈琲カップに、濃い珈琲をいれてホイップクリームを浮かべた。1杯250円だったが、じわじわと評判を呼び、人気商品になる。口コミの威力で、友人や家族を誘っての来店が増える。

(26) 3軒目の出店は経営的に限界
2軒の店が超繁盛店になる。2軒の店で、これ以上お客様を増やし売上を拡大するのは、すでに限界に近かった。3軒目の店は、従業員の問題や経営効率を考えると、喫茶店の出店ではメリットが少ないと感じる。
 
(27) 出店より出前サービスを強化
3軒目の出店による売上拡大を棚上げして、「バッカス」を拠点に出前サービスを始める。出前サービスなら、現状のスタッフのまま、できる範囲でやればいいことになる。配達用に中古の軽4輪車を購入、ボディに「コーヒー1杯でもお気軽にどうぞ バッカスの出前サービス」とペイントし、ひまさえあれば町中を走る。
 
(28) 出前のカレーが大人気
出前サービスが好評で注文数が増加していく。近所に出前の注文が来そうな町工場が多かったので、ご飯メニューにピラフとカレーを加える。出前を始めるとカレーが大人気になり、3軒目はカレー専門店と決める。
 
(29) 田園地帯にカレー店を出店
田園地帯といえば聞こえはいいが、実際は好立地と言えない田んぼの真ん中(店の横と裏側は田んぼ)にカレー専門店の出店を決める。
 
(30) 屋号は「ここがいちばんや」
市場調査として、東京のカレー繁盛店や有名店を見て回り1日で12食たべる。どの店も個性的な味だが、毎日でも食べたくなるようなカレーではないと思う。東京からの帰り、頭の中に「自分たちのカレーが一番美味しい」という自信がわいてくる。「自分の店のカレーが一番=ここがいちばん」という屋号が浮かび、オシャレな感覚をだすため「CoCo」とする。
 
(31)「CoCo壱番屋」1号店を開店
1978年1月、「カレーハウスCoCo壱番屋=ここがいちばんや」をオープンする。お店の特徴ある売り方として、開業時「ご飯の標準量を300gとして、200gを最小サイズに100gごとに選べる」、翌年からカレーの味は、「甘口」「普通」のほか、「辛口を5段階で選べる」ようにする。

(32) 開店2日間は大繁盛、3日目から閑古鳥
開店早々20席が満席になり、厨房が注文に対応できなくなる。開店から3日目、開店時の不手際から客足がぱったり止まる。来客数が減った原因は明らかだった。開店の2日間、あまりの忙しさから「ぬるいカレールウを出したり、ご飯が足りなくてお客様を長時間待たせたり、揚がりきっていないカツや黒焦げのカツをだしたり」と、お客様の信頼を失っていた。
 
(33) お店はいつつぶれるかの噂
カレー店のお隣の喫茶店では、「カレー店はいつまでもつか」が話題になる。3日目以降、1日の売上は7000円余り、その日の来客数12人のうち8人が仕入れ先の関係者と妻の身内で、実質のお客様は4人だった。
 
(34) 日商6万円の採算売上を突破
お店の経営が苦しくても、夫婦の間では「このカレーとお客様第一の真心サービスで経営は大丈夫」という思いがあった。地道にお客様への気配りをしていると、お客様の入店数が少しずつ増加してくる。開店時の不評から一変、クチコミでの評判も上がって、毎月の平均売上が上がっていく。この経験から、商売というのは3流立地で当初の売上が低くても、そこから着実にお客様を増やしていくことが成功の道だと確信する。

ここから先は

8,399字

¥ 200

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?