戯曲について考えること

 昨年秋に京都で発表した『バルパライソの長い坂をくだる話』が、ぼくにとって4作目の「岸田國士戯曲賞」の最終候補作になったが、前回候補になったとき(2016)の審査会でぼくのテキストについて、「これを戯曲と呼べるのか」というような議論が、その選評を読むかぎりどうもあったらしい。ぼくはいつも戯曲──というか演劇のためのテキストを書いているつもりなのでそう言われても困るのだが、そして審査員たちがこれを読むかはしらないが、今回の審査会のまえに、ぼくなりに戯曲を書くということについて思うところを書いておくことにする。

 ところで岸田戯曲賞では、上演に使用されたものはすべて「上演台本」と呼ぶようである。岸田戯曲賞にはこちらから「台本」を応募するわけではなく、12月くらいになると白水社から連絡が来て、データなり印刷したものなりを送る。そうして集まったものの中から最終候補作が選ばれることになる。
 前回候補になった『+51 アビアシオン, サンボルハ』はそのときすでに上演されていたが、白水社には文芸誌「新潮」に掲載されたものを送っており、上演に使用したものとはちがった。つまり上演では「新潮」掲載のものから一部変更や修正などを行なったので、候補作発表のときには「上演台本」ではなく掲載誌を明記してもらった。
 今回の『バルパライソの長い坂をくだる話』も同様に「新潮」に掲載されているが、事情は異なる。京都での初演では、「新潮」掲載の戯曲をスペイン語に翻訳し、出演者だったアルゼンチンの俳優たちと話し合って、アルゼンチンのとくにブエノスアイレスで使われている表現や単語などに変換し、一部戯曲構成の変更もしたうえで、日本語字幕をつけて上演した。この過程を踏まえて、戯曲の日本語を推敲し直したものが今回候補作となっている。だから、「新潮」掲載のものとも、上演時の字幕とも異なるわけで、厳密には「上演台本」ではないのかも?と思って、白水社に問い合わせたところ、「上演台本」で問題ないだろうとのことだった。(なお、京都のあとに東京で行なった日本語によるリーディング公演では、多少の修正があるものの、基本的には「新潮」に掲載されたものを使用した。)

「戯曲」か「上演台本」か。この議論はいろいろあると思うが、ここではどちらも「演劇のためのテキスト」ということにしておきたい。ぼくはいつも人間がしゃべるということを前提にして言葉を書いている。その言葉を口に出すとどんなリズムになるかとか、どんな余韻が生まれるかとか、しゃべり手の身体がどう変化するかとか、そういうことを気にしている。それ以外のこと──どのように見せるのか≒どのように舞台化するのかというような「演出」的なことについては、書いているときには考えていない。好きにしてくれ、という気持ちでいる。(でも、けっきょく自分で演出しているので、好きにしているのも自分だ。誰かに好きにしてほしい。ほかの人に演出してほしい。だから、今回ノミネートだけでなく、受賞して単行本として出版してもらいたい!)


 演劇のいくつかあるだろう機能のうち、「誰かの言葉(あるいは出来事)を、べつの誰かが、誰かに伝える」という機能に、ぼくは重大な関心を持っている。つまり「伝聞」である。
 演劇は、映像のようにはなにかの<出来事そのもの>を表現することに向いていない表現だ。演劇とは生身の人間が出てきて上演するのを観客が見ることだとぼくは信じているが、そのときにたとえば、人の死そのものをそのまま、表現することはできない。出演者は死んだふりをしなければいけない。ふりはできても本当に死ぬわけにはいかない。観客もその人が死んだことになったと理解しなければいけない。
 いっぽうで、演劇では人間の「反応」をよく見ることができる。その反応のなかでも、「なにかの知らせを受けたその人の反応」が、一番おもしろいとぼくは思う。たとえば、誰かが死んだという知らせを受けたときの、その人の反応。そしてそのあと、その人がなにを語るのか、どのような行動に出るのか、どんなふうに身体状況が変わるのかというところが演劇における最大の見どころだ。知らせを受け反応する人がいわゆる主役である。
 恥ずかしながらぼくはまったく演劇史に明るくないのだけど、ぼくが知っているくらい歴史的に有名で優れた演劇のテキストにはかならず、知らせをする人やもの(手紙など)=メッセンジャーが出てくる。そして、その知らせによって受け取り手である主役はなにかが変わる。その人の話す言葉、体、もしくは存在が変わる。

 そういうわけで、ぼくは「メッセンジャー」ということに注目してテキストを書いている。極端な話、ぼくが書くテキストにはメッセンジャーしか出てこないと言ってもよい。セリフをしゃべる人はみんななにかの報告、知らせをする。そして、その知らせを受けて反応してほしいのは、読者(観客)だ。だから、ぼくのテキストにおいて主役は客席にいるという想定になっている。誰か(作家)の言葉を、メッセンジャー(登場人物≒俳優)が知らせ、それを受ける主役(読者≒観客)が変わる、ということをいつも目指している。これがぼくが書いている演劇のためのテキストだと思う。
 ぼくは俳優という職業の人たちのことをとても重要な存在だと思っている。なぜか。それは彼らが、自分が思ってもいない、誰かべつの人間の話を語るからだ。つまり俳優の職能のうち、メッセンジャーとしての能力を重視している。
 たとえば、日本ではもうすぐ終戦後75年になる。戦争体験を語れる人は日に日に少なくなってきている。もしも人間が、自分に起こったこと、自分が体験したこと、自分が思うことしか語れなかったならば、それは想像力がないということだ。戦争体験は受け継がれなくなってしまうだろう。自分に起きていないこと、自分が体験していないこと、自分が思っていないことを語り、それを聞いて想像するという行為は、他人に関心を持つということでもある。それが人間の作る社会の根本であり、最も重要なことなんじゃないか。
 誰もが、自らの体験や視点を提示できるようになった現代だからこそ、誰かの言葉を聞いて、想像するということがないがしろにされてきてしまっているかもしれない。ぼくが危惧するのはそのことであるし、演劇が機能するのもそこなのだと考える。他者と他者をつなぐ役割を担うメッセンジャーを重視するのは、そういう理由からだ。

 最後に『バルパライソの長い坂をくだる話』について少し。このテキストでは、ぼくがどこかで誰かから聞いたことを元にして、まさに伝聞をメインにして書いている。つまり、作者であるぼく自身もひとつの媒体、メッセンジャーのつもりだ。夫/父親の遺灰を海に撒きにやってきた話、日系移民として南米に渡った話、アメリカ合衆国統治時代に生まれたある島の人の話、人類が世界に散らばっていった話、それから戦争で死んだ人の骨を掘り続ける人の話など。それは移動の話であり、「移動」とは土地の移動のみならず、生から死へ、そして死から生への移動のことでもある。そういう移動が積み重なり受け継がれ、歴史を作る。そういう知らせの作品だと思う。

 今度の審査会では、戯曲かどうかということじゃなくて、そこに取り上げられているトピックが今や未来の読者/観客にとってどのような効果を持つのか、観客がその話を聞いてどうなるのか、ということについてもっと議論してもらいたいと思う。そのほうが建設的だと思うのだけど。いや、きっとそういう話もしているはずだ。

(2018.1.23)

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