2019.10.11

『後拾遺和歌集』の恋の部を読んだ。

逢ふまでとせめていのちのをしければ恋こそ人の祈りなりけれ(堀川右大臣・恋642)

恋こそ人の祈りなりけれ、恋こそ人の祈りなりけれ、とずっとつぶやいてしまった。短歌には何故かはわからないけれど、ずっと口ずさんでしまうフレーズがあらわれることがある。少し前までは大森静佳さんの短歌の一部、「夕焼け、盲、ひかりを搔いて」が頭をぐるぐるしていた。それに比べると、恋こそ人の祈りなりけれというのはキメすぎなのかもしれないけれど、1000年経っても変わらない感情があることを発見してうれしくなってしまった。愛は祈りだし、間違いなく恋も祈りだ。

近江にかありといふなるみくりくる人くるしめの筑摩江の沼(藤原道信朝臣・恋644)

くるくるいっていて楽しい、というだけなのだけれど、こういう言葉遊びのような短歌は発音して楽しくなる。筋肉少女帯の「くるくる少女」という曲がある。恋は人をくるくるに狂わせてしまう。

君がためをしからざりしいのちさへ長くもがなと思ひぬるかな(少将藤原義孝・恋669)

後拾遺和歌集からは14首、百人一首に歌が採られている。これは『古今和歌集』の24首、『千載和歌集』の15首に続く第三位である。恋の部は4つあるけれど、特に恋二の巻に該当の歌が多かった印象がある。この歌もやはり、恋こそ人の祈りなりけれ、という歌だ。いつまでもいっしょにいたい。でもそういう願いは、たいてい叶えられない。それでも永遠を信じてしまう。

ねやちかき梅のにほひに朝な朝なあやしく恋のまさるころかな(能因法師・恋788)

ものすごく淫靡な歌だと思った。「閨」や「あやしく」という言葉の放つ匂いもあるだろうけれど、「朝な朝な」の時間感覚からもよい意味でのいやらしさが漂ってくる。例えば人の移り香などでなく、庭の梅の匂いから恋の膨張を感じ取る、というのはとてもいやらしいと思う。とても好きな歌だ。

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