2019.10.8

引き続き『後拾遺和歌集』の賀・別・羇旅・哀傷の部を読んだ。

春は花秋は月にとちぎりつゝ今日を別れと思はざりける(藤原家経朝臣・別482)

大人になるということは、果たされない約束を増やしていくということなのではないかと思う。花も月も空の枠内にある。ともに空を見上げる、ということは花や月を見ると同時に、遠いところを見つめるあなたを見つめるということでもある。それはきっと、絵画の鑑賞のようなものでもある。あなたという絵が永遠に消え失せてしまう。

思ひ出づや思ひ出づるに悲しきは別れながらの別れなりけり(橘季通・哀傷560)

言葉遊びのような歌だ。リフレインする「別れ」の意味は、一度目と二度目で変わる。一度目は希望のある別れ、すなわち離別。そして二度目の別れは二度と会うことのできない死別をさす。祖父の死のことを思い出した。

見むといひし人ははかなく消えにしをひとり露けき秋の花かな(藤原実方朝臣・哀傷570)

いっしょに見よう、っていったのに、いっしょに行こうって言ったのに。そういう後悔の歌ばかり刺さってしまう。そうやって濡れている秋の花を見ているのは実方自身。孤独と自愛がそこにはある。自らを慰めることができるのは、自分だけなのだ。

捨てはてむと思さへこそかなしけれ君になれにし我身と思へば(和泉式部・哀傷574)

自愛、といえばやっぱり和泉式部の歌が印象的だ。君に愛された身だから捨てるのが惜しい、というわけだけれど、ここでは君への愛憎にも増して陰湿な自己愛が表面化している。この湿り気は、例えば近代では与謝野晶子が継承しているのではないかと思う。

年ごとに昔は遠くなりゆけど憂かりし秋はまたも来にけり(源重之・哀傷597)

時間は遠くなっていく。けれど記憶は褪せることなく、何度も顕現する。ときには橘の香りとなって、ときには宙を舞う花となって。記憶は頭に宿るわけでなく、こころに刻まれる。だからぼくたちは、なんでもないものからも過去を連想し傷ついてしまう。それは秋が何度もやってくるように、不可抗力の痛みなのだ。

『後拾遺和歌集』は「小鯵集」などといって揶揄されることがあるという。直情的な歌ばかりとって、よくないとも言われる。源経信は『難後拾遺』を著して、その編纂に文句をつけた。勅撰集に対してはじめて書かれた抗議の書であった。けれど、その直接的な感情の表現が胸を打つこともある。哀傷の部では、特にそれを感じた。

また語彙のレベルでは釈迦入滅の沙羅双樹の林のことを「鶴の林」と表現するらしい。訳注の充実している本では、こうして注を読むだけでも新たな発見があって面白い。久しぶりに本を読むことの楽しさを実感している。

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