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デトックス彼氏

恋におちた。

その瞬間は、取引先との合同コンパで訪れた。
いつもやりとりする部署ではない彼に、初めて会った。
彼をみつけた途端、他の男たちはナスやキュウリに思えた。
彼は非常に涼やかな、春先にそよそよと吹く一陣の風のような男前だった。
小川のつやつやとした流れを思わせる、光を含む前髪。
今朝みた空のような青みがかった白目。
琥珀色の瞳。
私より白い肌。しみひとつない白い肌。白い肌。

ぽっ、と恋におちた。
落ちて、這い上がれなくなった。
しかし私は、困るほどではないけれど、さして褒められることもない中途半端な容姿であったので、口説き落とす勇気もなくただただ、彼の斜め後ろにひっそりと立ち尽くすことしかできなかった。
彼はそんな私を無視し続けた。
無視する横顔も美しかった。
ぽ、ぽ、と何度も恋に落ちる私を尻目に、合同コンパは盛況のうちに幕を閉じ、そして帰り際、彼は突然私を振り返り、そして言ったのだった。
「おつきあいしませんか」

それからとんとん拍子におつきあいは深まった。
彼は意外にも、体を重ねることに熱心だった。
春風のような存在感は、動物的な行為に興味がなさそうに思えたし、私も彼がどんなに淡白でもかまわないわと思っていたが、それはそれは熱心にことに及ぶ。
熱心に、真面目に、真摯に取り組む彼も美しかった。
私の上でさらさらと動く彼は、まるで海を泳ぐ魚の腹のようで、私は何度も彼の背後にキラキラと光る水面を見た。

季節がふたつ過ぎた頃、彼は、唐突に言った。
「遊覧船に乗りませんか」
「遊覧船?」
「そう、みずうみの」
私は深い水が怖くて嫌いだった。泳げないのだ。
おまけに想像力がたくましく、もし船から落ちたら・もし座礁したら・もし乗っている最中に悪天候にみまわれたら・などなど、ひたすら考えてしまう。
「遊覧船は、ちょっと」
そういって断ると、彼は珍しく顔を歪めた。
声を潜めながら、じりじりと私を壁際に追い詰めてきた。
そしてとくとくと説得してきた。

どれほど遊覧船がすばらしい乗り物であるか、
遊覧船に乗れることがどんなに幸せなことなのか、
自分がどんなに遊覧船を愛しているのかを。

ほそほそほそほそ、と私の耳に向かって、甘い息とともに遊覧船愛を吹き込んで来る。
いちいち頷いて愛想笑いを浮かべていた私も次第に顔は能面のようになり、いろんなことが面倒になり、あきらめてうなずいた。
そのときの彼の美しい笑顔たるや。ぽぽ。

遊覧船に乗った。
思ったより怖いこともなかった。
色付く景色をながめ、ほおを撫でる風のやわらかさを、目を閉じて味わう。
私の表情をみて彼も嬉しそうにほほえむ。
その微笑みをみて、私もほほえむ。
彼はまるで菩薩のような慈悲深い微笑みをたたえている。

「ぼくは遊覧船が本当に好きだ。
このたゆたう揺れと、船に触れる水の音。
なんだかとても懐かしく思えるだろう?」
遊覧船に揺られながら彼の優しい声を聞いていると、なんだかたまらなく満ち足りた気持ちになり、思わず呟いてしまう。
「わたし、しあわせ」

すると彼は、満足げに笑った。
いつもの彼の、微風のような笑顔ではなく、花が咲くような艶やかな笑顔だった。
そして、ふう、とわたしに向かって息を吹きかけた。
草花の放つ清涼な香りのような息を感じ、私は体がバラバラになるような気がした。

気がついたら大きな鍋の中にいた。
文字通り、私はバラバラになっていた。
彼は、鍋のなかの私を覗き込んでいる。
たっぷりと水を注いだ。
私のあたまは、ぷかぷか浮かんだ。
それから、その白く長い指で、良い香りのする葉を何枚も何枚も、ちぎっては鍋に浮かべた。
水面が緑で覆い尽くされ、残った葉はあちこちに沈んでいる私の体の部分部分のすきまにねじ込んだ。

「きみは毒を抱えすぎている」
そう言って、じじじ、ぱちん、と火をつけた。
彼は木べらをつかい、ゆっくりと混ぜながら、私をやさしくやさしく、傷つかないように煮た。
黄色く、嫌な匂いを放ちながら溶け出した毒素を、丁寧にすくいとって捨てた。
それは何度も何度も繰り返された。
「毒がでなくなるまで」
呟くように言う彼のかすれた声と、行為のときと同じくらい熱心な眼差しと、どこまでも丁寧に優しく触れてくれる手のしなやかな動きを見ていると、また再びぽ、ぽ、と恋に落ち、私は鍋のなかで腕やら足やら頭やらをそれぞればたつかせた。

黄色い毒素が出なくなると、彼は私の部分をそれぞれすくいだし、流水で丁寧に洗った。
水が冷たくて、手足は魚のようにぴちぴちと暴れ、頭はいつものシャンプーを使って洗ってくれと彼に頼んでいた。
すべてがきれいに洗われると、彼はひろびろとしたステンレスの台の上に私を並べ、そしてふぅと息を吹きかけた。

はっと気がつくと遊覧船の上にいた。
横には彼がいて、不安げな顔をして私を見ている。
白昼夢?
それにしても体が軽くて踊りだしそうだ。
こころなしか肌艶も良くなって、悩んでいた眉間の吹き出物も消えて、いつもならだるく重い両足は羽が生えたように軽い、いまならどこまででも歩いていけそうだ。
心の薄暗い部分も隅々まで光があてられ、幸福感であふれている。
私の明るい表情を見て、彼は微笑む。
その白いつるりとした頬。

唐突に、このひとを手放してはいけないと思った。
妙な白昼夢を見たせいかもしれない。
私は口走った。
「わたしとけっこんして」
彼の目が一瞬戸惑い、そしてスッと息を吸い込んだのを見た。
私は、断られてはならないと、必死で畳み掛ける。
「けっこんして。してくれないとここからとびおりてわたしは湖の藻屑となってしぬ」
「それをいうなら海でしょう」
彼は生真面目に訂正してきた。
「わたしはほんきよ」
手すりに手をかけて本気度をアピールすると、彼は目をかまぼこのようなかたちにして笑い、言った。
「いいよ、結婚しよう」

私たちは遊覧船の上で盛大に抱き合い、周囲のひとびとに祝福された。
そして彼はその美しい唇を私の耳元に寄せ、囁いた。
「病めるときも、健やかなるときも、いつでも君を煮てあげる」

                        


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