見知らぬ人を手助けするにゃ。
「一人で生きていると思ってた自分、傲慢だった。$2のコーヒーは人生で一番おいしかった。」
サンフランシスコで書いた日記。
ぼくは、和歌山の僻地から、一人で東京に出て、アメリカにまで行って、やっとここまで辿り着いた。自分って、すごい。
...そんな気分に浸っていた矢先、やっとの思いで到着したホテルで、持っていたカードが使えない。2ブロック先のドラッグストアにプリペイドカードを買いに行ってくれと言われる。
しかし、もう時間はすでに22時。日本人のちんちくりんの小娘が出歩けるような場所ではない。ちっさいマリオでファイナルステージに挑むようなものだ。HPはもちろんたったひとつ。漂うウィードの匂い。目がイッてる巨人。数百メートル先には警察官でも危険だと言われるテンダーロイン地区。なんとか交渉するも、カードが使えないと泊められないの一点張り。女でも学生でもルールはルールだと、(一応申し訳なさそうに)フロントであしらわれる。
途方にくれていたとき、ふらっと現れた、ケイという男の子。彼は学生で、どうやらこのホテルに長期滞在しているらしかった。一緒に行ってあげるからと、迷子の子どもと親を探すみたいに、たった100m先のドラッグストアに一緒に着いてきてくれた。
プリペイドカードを無事購入し、ケイが近所のカフェで、コーヒーを奢ってくれた。多分、朝大量に作ったであろう、めちゃくちゃ味の薄い、茶色い飲み物。これが、今まで飲んだコーヒーのなかで一番美味しかった。美味しいってなんだろうと考えさせられるほど、疲弊した身体に沁み渡る、恍惚感溢れる瞬間だった。たった2ドル、東京に帰れば、焙煎士が厳選し、丁寧に淹れたハンドドリップコーヒーが500円。コーヒーマニアのぼくはかなりの杯数のコーヒーを飲んだと思う。それでも、ここで飲んだ、何処の馬の骨がわからないうっすいコーヒーに惨敗したのだった。今思えば、あれはコーヒーじゃなくて麦茶だったのかもしれない。そのくらい薄かった。
そうして、部屋に着いた瞬間、長旅の疲れとホッとした気持ちで涙が溢れた…。ドミトリーだったのに、割と泣いていたから、同室の宿泊者がそっとタオルをくれた。
見知らぬ人を手助けするということ
…ということをふと思い出していたら、大学に行く道で、困っている外国人観光客が何人もいることに気付いた。
和歌山駅は外国人に全然優しくない経路設計になっている。読みづらい看板、わかりにくい改札。
でも、誰も声をかけられない。改札を通る手助けをしてあげればいい、たったそれだけなのに。
今までのぼくなら、そのまま知らん振りをしてスタコラサッサと歩いていくところだった。でも、今日は無意識に何にも考えず、「ダイジョーブ?ココトオルノ?アーカンタンヨ、ハイドウゾ。タノシンデネー。」みたいなやりとりをしていた。
見知らぬ人を手助けする、それは難しいようで、助けられた経験があれば、自然とやってしまう行為なのかもしれない。
ちなみに、世界の中で見てみると、日本人は見知らぬ人を手助けするのが苦手なようだ。世界寄付指数で見ると、日本の指標はなんと、110位から120位(144ヶ国中)を行き来している。
しかし、調査項目のうち「寄付をしたか?」については、40位とそんなに低くないのだ。では、なんでこんなに低い結果になっているのだろう?それは、項目のひとつ、「見知らぬ人を手助けしたか?」という項目がズバ抜けて低い。142位。最下位から数えたほうが早いのだ。
その理由などは、素晴らしく分かりやすいこちらのnoteにあずけるとして、今、ぼくたちが見知らぬ人を助けるにはなにが必要かということを考えたい。
まず、手助けされる経験に敏感になること。そして、それに気付けると自然と出来るようになるものだ。いきなり、見知らぬ人を手助けしましょうと言われても案外難しいことはとても分かる。
見知らぬ人は手助け「する」ものではなく、手助け「してしまう」ものな気がする。
さらに、自分が助けられたなということは、気付きにくいし、忘れてしまう。どうしても、心理学でいう「公平理論(Equity Theory)」が働き、やり損だと感じてしまうのだ。だから、ぼくは意識的に、助けられたこと、やってもらったことを思い出すようにしている。
かっこよく海外に一人旅に行っているようで、飛行機だって、自分一人じゃ動かない。パスポートだって発行できなかった。それなのに、ぼくたちはなぜか「来てやったぜ!」みたいにってしまう。(青年期特有の諸症状かもしれないことを断っておく。)
そうすれば、勇気なんかなくたって、困っている人をそっと見返りを求めず助けてしまうようになる。
**まずは、どんどん助けられよう、そして、助けてしまおう。 **
交換可能なものばかりが増えていくこの社会で、見返りのない、見知らぬ人を手助けするという行いは、少し、世界の歪みを正してくれるかもしれない。
友人とシーシャに行きます。そして、また、noteを書きます。