言葉の歪み。

「なぜ生きているのか」

ふとした瞬間にぼうっと考えている。

多分、小学4年生ぐらいの時に、「なぜ人は服を着るのか」という問いを1人延々考え続けていた時期があった。

どういう過程でそうなったか今の私にはわからないが、「なぜ人は死ぬのか」という問いにたどり着いたのが生死について考えるようになったきっかけだった気がする。

この青臭い問いを忘れてしまうように、世界はできている。「みんな主義」というのも納得できる。ああ、中二だなあ。

言葉にとても執着してしまう癖がある。

難しい言葉を並べられた時は、「とは?」と聞くとだいたい相手の思考を一撃できる。案外、自分も含めて、深く考えずにそれっぽい言葉を並べていることが多い。

この癖は、高校生の頃、毎年、秋に取り組んでいた英語ディベートで身についた。ディベートにおいて、世界の矛盾を知った。原発に心の底から賛成することで、見えてきた景色があった。TPPを承諾することで開けた展望があった。自殺を容認することで救われる者もあった。(あくまでも妄想の中ではあるが。)

「ふつう」に洗脳されて、思考停止になり、借りた言葉で発言している自分を見つけた時は心底自分が嫌になる。メタ認知という特性は、ギフトであるとも言われたが、私はこれにずっと苦しめられてきた。

私はどこに向かっているのか。とふと考える。最近、少なくとも、幸福論を捨てる決意をした。幸福を追い求めても、その過程で必ず誰かしらを傷つける。考えることはとても苦しいし、自分のやりたいことなんてちょっとやそっとじゃ見つからない。ずっと何かに疑問を持ち続けることも苦しい。ただ、生きることは苦しい。

幸福になりたいなんて、贅沢な悩みだ。と、ミャンマーの村を訪れて感じた。スリランカの道を歩いて気づいた。ただ、生きるというのは大変だということを。

幸福論も一種の論だと思うと、少し、生きるのが楽になった。

なんていうとりとめのない雑記。

友人とシーシャに行きます。そして、また、noteを書きます。