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プレゼントの理由探しとその先

「あ、これかわいい。誰か誕生日の人とかいたっけな。」

だいたい、私がお花を買う時や、何かかわいいものを見つけた時はこういう思考をしている気がする。

私は理由もなく贈るプレゼントが好き。

別に自分のために買いたいとは思わなくて、これを買う理由が欲しい。

お花がかわいい時、お気に入りの香りを見つけた時、大抵言い訳をする子供のように、誰かの誕生日やお世話になっている人を思い浮かべる。

それが思い浮かばなかった時は、買うタイミングじゃないということ。

そういえば最近、プレゼント上手になった気がする。

そうしていて気付いたのは、私が生きていていい理由のためにプレゼントをするということ。

もちろん、相手を想って、ものすごく時間をかけて、丁寧に選んでいるんだけれど、もらってくれることで、私が生きていていい理由をつくってくれる。

...

だから、雨の日はプレゼントが増える。

たとえば、シェアハウスに飾るお花とかも含まれる。

家族につくるご飯も含まれる。

たくさんギブをすることは、わたしがわたしであるために必要な行為なんだなあと気付いた。

...

そうする時に、ちょっと懸念されるのが、受け取る側のうしろめたさというか負債感について。

特にこちらは何も意図していなくても、やはり受け取る側には、何かしらそういった感情が湧くことが多い。

これは、「うしろめたさの人類学」(松村圭一郎著)  や「贈与論」(マルセル・モース著) で語り尽くされていることなのだけれど、改めて、無意識の暴力に自覚的であろうと思った。

贈与について、フラっと考えた夜でした。


友人とシーシャに行きます。そして、また、noteを書きます。