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天才にはなれないけれど|エッセイ

「死ぬもの辛いけど生きてるのも同じくらい辛いなあ...」

ここ1年ぐらい慢性的な気分変調症みたいなものに悩まされている気がする。

周りには面白い人もたくさんいるし、大事にしてくれる人も、欠点も好きだと言ってくれる友人も、楽しい職場も、それなりの実績もついてきた。

でも、何かが足りない。

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昨日、ふとしたきっかけで「何者」を手に取り貪るように読み進めた。

Amazon Primeで無料で見られる映画版でも良かったのだけれど、なんとなく活字で、ダウナーな気分になりたかったのだ。

職場に向かう乗車率200%の電車、週に2回は嫌でも乗らなければいけない。

その電車の中で、iPhone版Kindleの1ページ目をスライドさせる。

"「ドン、と、誰かの方が当たって、リズムが崩れた。」ー。"

と始まるようにサクッと読むにはうってつけの本だった。

就活×SNSをフックに、登場人物の葛藤が描かれている。

こんな素晴らしい作品を読んだ日には、小説書きたいなあなんて思ってしまうくらいには、私はまだ純粋にできているらしい。

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なんだか物を書くということは、啓発的な意味合いがある気がして、最近気が引けてしまう。

一端の凡人である市民が伝えたいことや個人が思っていることなんて、99.9999...%どこかの学者や経営者、先人たちが同じようなことを言っているものだ。

それなのに、私たちは何度も何度も教訓めいたことを書きたくなるし、伝えたくなる。

むしろ伝えたいことがないと文章はつまらなくなる。

だから、この文章はつまらない。

特段、このnoteを通して伝えたいことはないからだ。

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だから今、タイトルに"エッセイ"と付け足してみた。

単調で変化のない、意味の味付けがされていない、ただの記録。

いや、本当の意味でのエッセイとはそんなことではないのかもしれない。

そもそも意味や主義主張って必要なのだろうか?

最近、写真に関して悩むことが増えた。

伝えたいことってなんだろう?とかこの写真に隠された意味は?とか。

シーシャの煙を燻らせていると、無意味の心地よさに気付かされてしまった。

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いつもどこかで、天才である自分を夢見ている時がある。

もうこうして言語化し、メタ的に見られている時点で天才ではないのだ(と思っている)。

いやどう考えても凡人だということは自他共に認めているのだが、自分は「人と違う感性の持ち主」だということをどこか小さなプライドのように持ち合わせておきたいのだろう。

凡人は凡人なりに鬱々とした日々をエッセイという形で書き落とすだけで少し天才に近付けたような夢心地な一瞬を楽しんでいる。

これ、30歳とかで見返すと、恥ずかしいんだろうなあと思いながら、等身大の葛藤を残しておきます。

友人とシーシャに行きます。そして、また、noteを書きます。