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優しさの戦争。

「優しい」ってなんだろうってよく考えます。

それは人それぞれで、「幸せ」をどう考えるかと近しい問いのような気もします。

優しさといえば、写真家 幡野広志さんの著書『ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。』では、息子さんの優くんの名前をつけた背景をきっかけに、幡野さんにとっての優しさが綴られていた。

それでも私は優しさについて考えます。

昔、どんな人になりたいの?と聞かれた時、「強くて優しい人」だと答えていました。

じゃあ、強いってなんだろうとか優しいってなんだろうとか考えます。

時に、優しさは"戦争"を生み出します。

もう少し難しく考えると、優しさの定義の違いによって、戦争が生まれているのだと思います。

だから、私は優しさについて深く深く考えます。

きっと、戦争も最初は、「家族のため」だとか「国を豊かにしたい」だとか、そういう優しさから始まったのです。

シェアハウスに住んでいるとよく優しさの戦争が起こります。

お互いの優しさが違うからです。

小さなことだけれど、AさんはBさんの行動に対して気になることがあったらそれを伝えてあげることが優しさだと思っています。でもBさんはそれを優しさだとは思わず、黙って見守ってくれること、全てを受容してくれることが優しさだと思っています。

だからお互い、本当は、私にとっての優しいを伝え合うことが大切なんじゃないかなあと思います。

それでうまくいった例は、ガンジーじゃないかと思っています。

彼は、国民に、非暴力・不服従こそが優しさだと示すことで暴力のない抵抗を続けられたのではないだろうかなんて。

まあ、最後はそれでもイギリスに裏切られ、果てには暗殺されてしまうんですけどね。

...「優しい」ってなんだろうってよく考えます。

「好きなタイプは優しい人」ってよく聞くけれど、これだけはわかります。きっと、優しい人と一緒にいたいのならば、自分が優しくあらなければいけないのだと。


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