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「死にたい」という言葉に向き合えるか?自殺を考える人に寄り添うには



これは将来的に自分に子供ができた時に伝えたいことの備忘録です。テーマは自殺について。できることなら自分の子供には幸せに生きて欲しいですが、辛くなったときの何かの助けになればいいなと思って記しておきます。それがどこかの誰かの助けになれば幸いです。


『「助けて」が言えない SOSを出さない人に支援者は何ができるか』という本を読んだことがきっかけでこの記事を書こうと思いました。この本の中の一説、「助けて」ではなく「死にたい」ー自殺・自傷の心理というパートから自分の意見をまとめていけたらと考えています。

割と自殺って身近な問題じゃないかな?

まずはじめに自殺を考えたことありますか?私はあります。20年そこらの短い人生ですが「自殺」という二文字が頭をかすめたことは幾度とあります。それはいつでも苦しい時でどうしようもないんじゃないかと一人苦悩した時でした。具体的な手段もいくつか考えましたが、結局自殺はしませんでした。これは死への恐怖や、自殺した場合に残された両親の気持ち、自殺せずに生き残った場合に得られる幸福などを考えた結果、踏みとどまることができたものだと思っています。

この本では前置きとして、”「困った時に誰かに助けを求めること」”について述べられています。若者の自殺予防教育として、助けを求める力を育てて自殺を防ごうとする方針がたてられているらしいです。このことに関しては私は賛成です。私が自殺を考えた時も一人で悩んでいたから、苦しかったのかもしれません。もし人に相談していればもっと楽になった可能性はあります。しかし、相談したことでより辛くなる可能性もあります。例えば、いじめの報告をしたことで状況がより悪くなるということは容易に想像がつくことだと思います。もし一度でも悪化してしまえば、苦しんでいた子は二度と相談なんかせず、一人でずっと苦しむことになるでしょう。もしあなたに自殺願望のある人(我が子や友人)から相談された場合適切に対応できる自信がありますか?あなたのもとに相談がやってくることは可能性として十分にあり得ます。実際、自殺の思いが強まっている状態では専門家よりも非専門家に助けを求める場合が多いという研究があるようです。

自殺を考えた時、人に言えるか?

少し古いデータとされていますが、自殺を考えたことがある人のうち相談できた人は約3割という意識調査の結果があります。多くの人は自殺を考えても相談はしないのです。身近な人には心配をかけたくないと思い、専門家には敷居が高いと躊躇してしまうのです。つまり、「死にたい」という言葉はその人の勇気を振り絞った発言である可能性があり、本当は自殺しないだろうと軽視してはいけないということになります。また、私がそうであったように自殺を考えていても人に相談しないことが多いというのにも着目しなければいけません。周囲の人の些細な変化に気づいておかなければ悩む人は一人でとことん悩むことが考えられます。

自殺直前におこる心理的視野狭窄

本当に追い込まれた人は「死」以外の選択が思い浮かばなくなるそうです。これを心理的視野狭窄といいます。これまで「死にたい」と発していた者が死の直前にはそうした訴えなく、普段通りに過ごしていたということがあったようです。ずっと自殺願望を示していた人が大人しくなったと安心していたら自殺してしまうんですよ、恐ろしいと思いませんか。周囲の人の「死にたい」サインは軽視してはいけないことがわかります。早いうちに対処すれば自殺を防ぐことはできますが、対象者が心理的視野狭窄に陥ると「全自動自殺マシーン」になってしまうということは覚えておかねばなりません。この状態になると助けを求めることはできません。「なぜ助けを求めなかったのか」と発言する人は配慮が足りていません。自殺希望者のマインドとして「助けを求められない」人が約7割いて、心理的視野狭窄になると「死」以外の選択肢が考えられないのです。自分の頭では考えられないことを理解しようと歩み寄ることが大切だと思います。


自殺がおこる3つの要因

「自殺の対人関係理論」という理論では自殺の発生は「獲得された自殺の潜在能力」「所属感の減弱」「負担感の知覚」という3つの要因が用いられます。

「獲得された自殺の潜在能力」とは痛みや恐怖への慣れを意味します。自傷や暴力被害によって高まるとされています。

「所属感の減弱」とは孤独感や孤立感を抱くことを意味します。

「負担感の知覚」とは自分の存在が他者への負担になっていると感じることを意味します。

私が自殺を考えた際、踏みとどまったのは「死への恐怖」「(自殺した場合の)遺族の思い」でしたが、これはまさに「獲得された自殺の潜在能力」が低く死を恐れていたこと、「所属感の減弱」がなく家族への思いが残っていたことであると考えられます。私たちは周囲の人(自分が大切にしたい人)に対して「所属感の減弱」が起こらないよう仲間であることを示し、「負担感の知覚」を生じさせないよう接することが大切です。

これを踏まえた上で、本書で説明される自殺を考える人にはこのような考えを持つ者がいます。
「自分に味方がいないと考えている(所属感の減弱)」
「いつも自分ばかりが相手に頼っていて、迷惑ばかりかけている(負担感の知覚)」
「自分は助けてもらう価値のない存在だ(負担感の知覚)」

このような否定的認知を持つ人が助けを求めることが困難であることは想像に容易であると思います。どうすればいいのか?

プロに頼りましょう。あなたが否定的思考を持つ相手を変えようと努力し、それが報われず疲れて愛想を尽かせば、相手はより孤独を深め悪循環になるとされています。相手が変わらなくても関係を続けられる方法を考えて欲しいと本書では述べられています。


自傷する人の考え

私は自傷経験がないので本書で述べられている自傷に関する記述は大変興味深く拝見しました。自傷行為はイライラした気持ちをスッキリさせるといった不快感情への対処が目的とされる場合がほとんどとされています。つまりストレス解消方法の1つと言えます。この点においては自傷行為は自殺と一見関係なさそうに思えますが「死にたい」「消えてしまいたい」という気持ちを抱えていることが多いと書かれていますし、自傷によって「獲得された自殺の潜在能力」が高くなり死への抵抗がなくなっている可能性があります。

私はドラマなどの影響で病的なかまってちゃんが行うものかと思っていましたが、中高生の約1割が自傷行為を経験しているのにもかかわらず、保健室で把握されているのはその3分の1に過ぎないと本書にあります。つまり10人のうち3人しか把握されていない状況なのです。心の痛みに対して一人で耐え忍ぶ頑張り屋さんが自傷行為をしているのです。

ではなぜ助けを求めることができないのか?助けを求める人がそばにいなかったり、どう助けを求めたらいいのか分からなかったり、愚痴や陰口をいうことに嫌悪感を示したりと複雑な理由があるようです。これらは自分の気持ちを言葉にして誰かに伝えることが難しくなって起きている問題とされています。自分の気持ちを言語化して助けを求めるよりも、即効性のある自傷行為で自己治療してしまおうとするようです。どうしようもなく追い詰められ発した「死にたい」という一言は周囲の人に過剰な拒否反応や庇護的反応を引き起こしたり、疲弊させたりします。そうすることで他者との安定した関係の構築が難しくなるかもしれません。自分の気持ちを表現できないから苦しい状況を「死にたい」と表現したのであって、本当は「悲しい」「辛い」「ひとりでいるのが寂しい」なのかもしれません。

筆者は最後に”このように、モノクロの「死にたい」という言葉にきちんと色をつけていく練習を積むことは、他者との新しいつながり方の構築に寄与するものと思われる。”として締めています。確かに私が大学院時代に感じた「死にたい」は「この辛い実験をほっぽり出して1ヶ月くらい南国でバカンスしたい」だったりしたのでもし「死にたい」という言葉がそこに存在した時、その感情を深掘りして言い換えてみると気が楽になるかもしれません。


最後に

自分の子供に向けた備忘録としていましたが、本のまとめになってしまいました。子供に対しては家族として居場所を提供することで「所属感の減弱」がないようにし、お手伝いなどを通して自己肯定感を高めてあげることで「負担感の知覚」がないようにしたいと思います。また、自分の気持ちを言語化できるように相手の話を聞いて言い換えることで確認を取り、理解する姿勢を示し普段から相談しやすい雰囲気を作っておければと思います。万が一「死にたい」と言われてもあまり動じずに落ち着いて相談にのれるようにしたいと思います。また私自信が疲れないよう専門家や友人などに頼っていけるようにしたいと思います。



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