理解されないことを恐れてはいけない

他人から理解されないという現実は、すなわち自分自身の人格を否定されたような気分になる。

就活生に対するよくあるアドバイスで、「受からなかったのは、相性が悪かっただけだよ。決してあなたが社会から必要とされていないのではないよ」なるアドバイスがある。

確かにその通りなのだが、これはかなり残酷だなと思う。この説を信じて、50社や100社エントリーシートを送ってみても、結局面接まで進めて、かつ内定がもらえるのは良くても数社だけ。ひどい場合なんかは、一社も内定がもらえない。

これでは、自分自身が考えている「自分の良さ」を、相手に理解してもらえなかったと考えても不思議ではない。

そうして、内定がもらえなかった人は、どんどん自分に自信がなくなってくる。負のスパイラルだ。

それでもエントリーシートを送り続ける人は、本当に強いと思う。僕はそんなに強くなかったので、就職活動を途中で放り投げてしまった。

途中で放り投げてしまったけど、学校に通っていない以上、何か社会的な活動を行わなければならない。それをしないと、タダのニートになってしまう。

そういうわけで、わたしは自分の技術で、どうにかして食べていく方法を探すことにした。それの一環が、このnoteで書いている駄文だと思う。

普通の人なら、出版社に就職するとか、システム開発会社に就職するとかして、自分の技術を活かしつつ賃金を得る。

でも、わたしの場合は「就職する」という段階で躓いてしまった。もちろん、今後もアルバイトなどを探すつもりではいるけれども、この「就職する」というハードルを蹴飛ばしてもいいのではないかと考えている。

もちろん、起業したり個人事業で食べていくのは、とても難しいことだとは知っている。でも、このまま就職活動をし続けて、自信を失い続けるよりはいいのではないだろうか。

それに、就職活動をしながら、独立・起業に向けての道を模索してもいいだろう。

とにかく、どうせ理解されないなら、そもそも理解されないことを恐れなければいいのだ。わたしはそう思う。

もし家族の理解があるなら、自分の信じた道を突き進んでもいいのではないだろうか。そんなことを考える、今日この頃。

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