櫻の樹に私

 三学期の、卒業式も修了式も終えた春休み。私は近所にある桜並木へ向かうため、家を出た。天気の良い昼下がりの外は春に相応しく、程よい陽気がじんわりと身体を暖める。暑さも寒さも苦手な私にとって、春のこの気温が一番好きだった。
 同じく休みであろう小学生くらいの子が数人、はしゃぎながら私の横を駆けて行く。楽しそうだなぁ、と羨ましく思ってしまう。いつからだろう、無邪気に笑って過ごす自分を見失ってしまったのは。
 歩いて十五分程。住宅地から少し離れた山の麓へ到着する。道の両側には満開の桜の木が数十メートルにわたって立ち並んでいた。道は寂れた神社と、そこそこな規模のお墓に面していて、私は鳥居をくぐって石段を上る。階段の丁度中腹に山道へ逸れる脇道があり、私はそちらへ歩を向けた。
 しばらくして、堂々と花を咲かせる一本の桜の木が、私の前に姿を現す。
 まるで仲間外れにされた様なこの木を、私は毎年見に来ていた。群れを嫌い、周りに立つ緑の木々の中に居て、淡い桃色の花を咲かせて自分の存在を訴えている光景に、私は時間を忘れて見惚れてしまう。
 そしていつも、あの言葉が頭に過るのだ。
「櫻の樹の下には屍体が埋まっているに違いない」
 そう、これは信じても良いこと。
 昔読んだ小説に、そんな文言が書かれていた。私は目の前のこいつを見て、初めてその意味を理解した。
 だってこんなにも美しいのに、理由がないわけないじゃないか。
 ——嗚呼、私もこの桜の木の下で眠りたい。お前の美しい一部になりたい。
 けれどそうするだけの、勇気がまだない。
 だから私はポケットに忍ばせていたカッターナイフを取り出して、キチキチという音と共に現れた刃先を、自身の左手首に押し当てて手前に引いだ。肌の上についた線から、赤い液体が、球場になってふつふつと浮かび上がってくる。
 左手で握り拳をつくり、ぎゅうと力を込めた。出来上がった大きな赤い球を、桜の木の根元に目掛けて傾ける。
 深紅の滴が二、三粒、地面に染み込んでいく。
 勇気がないくせに、秋和目の悪いこの行為を何年繰り返してきただろう。
 これでほんの少し、私もお前の一部になれただろうか。
 来年はほんの少し、今よりも美しい花が咲いてくれるだろうか。
 そんなことを思いながら、自分の血が落ちていくのを見届けた。傷口が乾いてくると手首を舐めて拭い、立ち上がって桜の木に背を向ける。
 木々の隙間を縫って風がひと吹き、ひゅうと髪を撫でた。
 私はそれが、桜の木がありがとうと言ってくれたような気がして。
「うん。じゃあ、また来年」
 振り返り、木に手を振ってその場を後にした。

 来た道を戻り、神社の敷地を抜けて並木道に出た時、私はあの言葉をもう一度口にする。
「やっぱりあの櫻の樹の下には、屍体が埋まっているに違いない」
 そう、これは信じても良いこと

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瑞波かな

幻想少女小道

現実と幻想の隙間を歩く少女。 そんな女の子のお話を書きたい。
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