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人の違いを認める難しさ

高校では優しすぎてナメられたから、大学一年生の時に周りに対して忖度なしの言動をしたら怖がられた。

変に気を遣って正直に言わないよりも、正直に思ったことを言う方が正しいと思っていた。


正直にその人の至る所、至らないところを何でも発言していた。


もし僕が相手の欠点を指摘して、指摘された側の気分が悪くなったらその欠点を持ってる相手が悪い、欠点だと自覚してるから傷つくんだろ、だったら指摘されたら直せばいいじゃんか。と。

正直に言う人を嫌う方が甘えてる。そう思っていた。
自分が悪いことをしてる自覚がなかった。

もちろん、ブスとかデブとかそういうことは言ってない。

僕は欠点を指摘されたら直そうと頑張るから、指摘されて僕を悪者にする人たちが悪い。そういうふうに思ってた。



僕は人の欠点を許せない人だった。


忖度なしの言動をすることと、悪口を言うことの区別がつかない人らが「あいつは悪口を言う奴」という噂を広めた。



俺と喋ったことのない人までおれのことを悪い人だと思うようになった。


それでも僕はどう考えても自分が悪いようには思えなかった。


お前らみたいな、欠点を指摘されたくらいで俺のことを怖がるほうがおかしい。

そうやって尖るしか自分を保つ方法がなかった。

尖って周りを批評していないと自分のメンタルがもたなかった。違和感、他人の気になったところを言わないと気が済まなかった。わざわざ人の欠点を探すようなことはしてない。見えてしまう。
もともと一人が好きなタイプで、彼らと仲良く遊んだり、みんなで飲むとか、そういう類の遊びは自分には合わなかったから気の合う友達も出来なかった。そんな彼らとコミュニケーションを取りたいとも思えなかった。人とコミュニケーションを取らないから、自己肯定感をなかなか得られなかった。
俺の気遣いなしの本質を突いた意見を言える能力はなかなか周りの人にはないから、その有能さをみんなに知ってもらわねば自己肯定感を得られずに終わってしまう。そう思ってそのスタイルを貫いた。

実際人に怖がられてる時点で、そのスタイルを貫いても何の解決にもならないのだが。


他人は他人だからと割り切れるほどの余裕は無かった。

別に人が怖がる様子が面白くてやってるわけじゃない。


でも、自分のことをわかって欲しいのに、なぜ他人のことをわかろうとしなかったのか。

そしてその人たちの嫌な部分がしょっちゅう気になるほど合わないのなら、なぜその環境から離れようとしなかったのか。

窮屈だったのは全部自分のせいなのかもしれない。




「僕は欠点を指摘されたら直そうと頑張るから、指摘されて僕を悪者にする人たちが悪い。そういうふうに思ってた。」


そもそもこの考え方は、全員のメンタルが強ければ成立することだと気付いた。そういう忖度無しの意見を言われても大丈夫な人にしか通用しない。


全員が強さ、謙虚さを持ってるわけではない。



弱い方が悪い、努力しない方が悪いという考えすらも間違っていると思えてきた。


強い人になるかどうか、努力できる人になるかどうか。謙虚な人間になるかどうか、

これはもう、たまたま生まれたときからそういうポテンシャルを秘めていたとしか言いようがないと思う。だから現実的な話、全員のスタートライン、生き始めるステージは平等ではない。(命の価値は皆平等です。)


たとえどんな環境で育っても、強くあろうとする人であれば努力して人生逆転できるかもしれないけど、そもそも強くあろうとする人になるかどうかは幼少期の環境、親の影響が決めるから結局そこが平等じゃない。
同じキッカケを与えられてもそのキッカケをどう捉えるかはその人元々の頭の使い方に左右される。そしてその積み重ねが生き方、世界に対する見方の違いを生む。

子どもの頃泣き虫で意気地無しだったけどメンタル強くなりましたなんて話が良くあるが、泣き虫だったその頃からこのままではマズイと謙虚に立ち返れる性格だったからメンタルが弱いまま大人になるのではなく、途中で克服できただけの話だと思う。謙虚っていう原型あってこそ。あるいは頭が良くて、克服しようと無意識に頑張ることができたか。
ことの成り行きで生きていたらそういう原型を持った性格になっただけ。生まれてから「こういう性格になった方がいい」と思って意識的に努力や人格形成を行う幼児なんていない。


遺伝子か、環境か。

先天的か、後天的か。


本人がモテる努力をして恋人が出来たとしても、元々の顔のパーツが良かったから、つまり遺伝子の影響もあったと言うことも出来る。

お金持ちの家庭に生まれた方が、教育環境や塾の費用、家族旅行等で知的好奇心が刺激される機会に恵まれたりするので、頭が良い子に育ったり、良い学校に進学できたりする。


親がだらしなかったり、正しい知識に基づかない勉強を無理矢理おしつけることをすれば、大学や高校に行かなくなってしまったりする。


そんな環境に育った子に向かって「お前が頑張らないのが悪い」「お前の頭が悪い」「謙虚じゃないのが悪い」というように、100パーセント自己責任で責めることはしてはいけないのでは?とおもう。

だから「努力しない人が悪い」「もっとがんばれ」という価値観は、人類みな生まれた時に能力や環境は平等という前提の元に成り立つ言葉だと、少なくとも僕は思う。

だから、頑張れないこと、頑張らないことは必ずしも悪ではない。僕はそう思うようになった。

人間の元々の能力はみんな平等じゃないからこそ、ストイックに努力できる人もいれば、頑張ることが精神的に耐えられない人もいる。頑張ってまで高みを目指したいとは思わない人もいる。だからこそ、顔、年収、知名度、性格、、そういった価値基準を取っ払って本来のその人の在りたい姿を見て人と接することが必要だと思うようになった。


決して人を見下してはいけないのだと。なにか環境や遺伝子の影響があったのかもしれないと想像力を働かせられることが大事。


このように思えば、自分がどのように成長していけば良いか、ちょっとずつ分かってくる。


人はこんなにも違っている。他人のアドバイスが自分に合わなかった。試してみたら違った。何を信じて進めば良いか分からなすぎる。ということがよくあると思う。

僕は、正解は全て自分の中にあると思う。

だけどプライドが変な方向に高くなってしまうと学びを得られない体質になってしまう。他人の良いと思ったところは頭の片隅に置いておいて、自分自らの経験を積んだときに「あのアドバイス、あの人のこの考え方はこういう意味だったのか」と経験を伴ったときに自分の実にすれば良いと思ってる。そっちの方が本質的だ。その人のバックボーンやその人格に至るまでの過程には、言葉や雰囲気だけでは感じ取れない、その人固有の非常に細かい要素が絡んでいる。(生まれた環境や遺伝子含め)だからこそ僕は、ほとんどの助言はその時の自分には合わないことが多いと最近感じる。アドバイスをすぐに実行したり、人から相談を受けても、結局自分がこれだと思って行ってきた選択はそのアドバイスの内容とは全然違う。

だから、正解は全て自分の中にのみあると僕は信じている。

助言をしてくれたその人も、手本にしている人がいたとしても、その人は全く別の人間。

他人の感動した部分を取り入れることに一生懸命になるよりも、自分のロジックの構築の方が優先。


全ては自分。常に自分の内側の声に耳を傾けること。他人との違いを認めた上で。





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