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道を極めるということ

日本の伝統文化がたまらなく好きだ。

小さい頃から「大人になったら毎日着物を着て過ごしたい!」と夢を語り、小学生の頃は週に一回、学校帰りに茶道の先生のご自宅に通ってお稽古をつけてもらっていた。大学生4年間は三味線とお箏の練習に明け暮れ、去年は一人で着物を着られるようになりたくて着付けを習った。寺社仏閣が大好きで、年に三回は京都に通う。

そんな風に生きているおかげか、今でも、お茶会の席や着物のイベントなどに誘っていただくことがある。

今日、自分が持っている茶道用具の整理をしながら、ふと、去年参加させていただいたお茶席での一シーンを思い出した。

スタートは会食から。美味しい食事を前に、お気に入りの着物を着た女性たちが楽しげに語らう席はとても華やかで、その場にいる自分の気持ちまで華やぐような気がしたことを覚えている。

そんな華やかな席の空気が変わったのは、主催者の先生が席について一呼吸、お袱紗をさばき始めたその瞬間。

会場内がシンと静まりかえって、どこかピンと張りつめた空気になった。その、何か一つのものに向き合う瞬間の神聖さを感じさせるような鎮まった空気。

そして、何か道を極めてきた人の真剣な眼差しが

とても好き。

お茶会の席にゲストとしていらっしゃっていた、先生のご友人が『自分の道と人の道を重ねないこと』というお話をしていらした。

何か一つのこと・道を極めている人たちって、心がよそを向かない。

そういう人達はただ真っ直ぐに、自分の行く道の先を見ている。

自分が何を表現するか。

自分が何を遺すのか。

自分が表現するものを通して人に何を与えるか。

ただひたすらにそれだけを考えて、自分と、自分が選んだもの・ことと向き合って積み重ね極めていく。

その真摯な姿と潔さ・深さは

とても尊い。

以前、日本刀鍛冶師の方がテレビに出ていらっしゃって。その方が作り上げた刀と、その方が刀に向き合う姿が私にはものすごく美しく尊いものに見えて、感動して大騒ぎしたことがあった。

そうしたら、一緒にその番組を見ていたその当時のパートナーに聞かれた。

『鈴木かなえ的に何がそんなにいいの?』

って。

その時は上手く言葉にできなくて

ただ、彼が拾い上げてくれた『魂がこもってる感じがいいのかな』っていうのが妙に腑に落ちた。

自分の道と他人の道を重ねず、ただ自分の道の先だけを見ている人たちは、心がよそを向かない。

ただ真っ直ぐに「自分」と「自分が向き合うと決めたもの」「自分が極めたい道」と向き合っている。

「自分の道」と真摯に向き合っているからこそ、その人の生き方だったりとか、その人が創り上げたもの・表現したものに、その人の意志とか、魂とか、その人自身が宿って表れる。

そうやって「作り手自身の想いや魂、その人自身」が表れたものは、それがどんなものであれ、とても魅力的に見えて、私は強烈に心惹かれるのだろう。

それに対して、「自分の道」と「他人の道」が重なると、その自分の道ではない道が魅力的に見えたり、そこを歩む人と自分の歩みを比べてしまったり、自分の道以外のものが気になり始める。

要は、心がよそを向く。

そうやって、人と比べたり、人の目を気にして形にしたものには「その人自身」や「その人の想い」「魂」は宿らない。

だって、“心がよそを向く”

つまり

“心ここに在らず”

ってことだから。

SNSが発達し、簡単に「他人の道」を見ることができるようになったこの時代では、どうしても「自分の道」と「他人の道」を重ねて、その道の華やかさを羨んだり、自分の道は本当にこれで良いのかと不安になることがある。

でも、自分は自分で、他人は他人なのだ。

どう頑張ったって、私は誰か別の人の道を歩むことはできないし、誰か別の人が私とまったく同じ道を歩めるわけでもない。

自分が歩む道は自分で決めて、その道を極めていくだけ。

自分に集中。

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