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カンボジア旅行記①着陸そしてプノンペン1日目前半

8月の暑い日、成田空港を出発し、マニラ空港で乗り換えて、プノンペンへ。
搭乗1時間前に急に搭乗ゲートの変更がアナウンスされたり(アナウンスのみで、誘導してくれるスタッフは1人もいない)、私含め大量の外国人乗り継ぎ客がいるのにゲートが一つしかなくて長蛇の列を作っていたりと、なかなかのカオスっぷりなマニラ空港でしたが、親切な係員さんが道を案内してくれたりしてどうにか深夜11時過ぎにはプノンペンに着陸しました。

マニラ行きの便での機内食。選択の余地なく、無言でテーブルに置かれた。(味は日本的でとても良かった)


マニラ空港の外国人専用乗り換え口。ゴミ箱などなく、没収されたペットボトルは床に直置き。


20歳の頃からいつかカンボジアに行きたいと思いつつ雑事に追われたりコロナ禍で踏み出す勇気の出なかったところ、急に行きたい気持ちが強くなり決行することにした今回の旅行。
ついに彼の地を踏める、と胸の高鳴りを抑えられません。
CAさんも赤い口紅ときっちりとまとめた髪のよく似合う上品な雰囲気で、内戦前に「東洋のパリ」と呼ばれた美しいプノンペンを感じました。
着陸後には、空港の係員さん方の投げやりとも取れる対応や、ハエがブンブン飛び交うホテルのトイレに衝撃を受けつつ、長旅の疲れを一刻も早く取るべくシャワーを浴びてすぐに就寝。


プノンペンの夜景。思ったより光が多かった。

衝撃のキリングフィールド

次の日、朝8時にガイドさんとドライバーさんがホテルのロビーに迎えに来てくれました(日本で、クメールルージュにまつわる場所を巡る半日ツアーに申し込んでた)。

朝ごはんにホテル併設のレストランでオムレツを注文したら、まさかのオムレツのみだった。パンやライスがついてくるかと思った…(味は洋風で美味しかった)

車で小一時間ほどのところにあるキリングフィールドへ。
活気のある街を抜けて、寂れた雰囲気の町はずれに行きます。

ここは収容所で処刑しきれなくなった、反逆者(とみなされた人々)やその家族を処刑するのに使われた場所で、今回プノンペンで一番衝撃を受けた所でした。

使われていた建物は内戦で焼け落ちてしまったため、ほとんど残っていません。
当時の姿を知る方法はこの解説パネルしかないようです。

目隠しをされてこの小屋に連行されました
処刑するための農薬を保管する倉庫
このサトウヤシの木の側軸を使って処刑しました
この下に400人余りの骨が眠っています
この木に革命分子(と見なされた人)の子供たちの頭が打ち付けられ処刑されました。「腐ったリンゴは箱ごと捨てる」というクメールルージュの残虐さを思い、寒気がしました。
この木にラウドスピーカーを吊るしてクメールルージュを讃える歌を流し、処刑される人々の叫び声が聞こえないようにしました。
処刑された人々の服
慰霊塔。

伝統工芸的なものを買えるロシアンマーケット

ロシアンマーケットとは、ロシアの人々がなぜか昔よく訪れていたからその名がついたそうで、実際はカンボジアの製品しか売られていません。
カンボジアらしいものを買うならここ!といった感じの観光地です。

干した魚
見慣れないフルーツ。ガイドさんは見慣れてるようでスルーしてどんどん先に行きます
フィリピンとかギリシャとかと比べると日本に近い(大阪とか?)雰囲気

トゥールスレン虐殺博物館

そして、大学生の頃から興味を持っていたトゥールスレン虐殺博物館へ。
友人たちが行って衝撃を受けたと聞いて、気になっていたのです。
結果は確かに、衝撃でした。
日本のように保存とか展示の工夫とかはあまりなされておらず、ほとんどありのまま当時のままの姿で展示されているため、当時の様子をまざまざと想像させる説得力がありました。
とはいえ、ポルポト政権陥落直後の1980年頃は死臭が漂っていたそうですが、それから40年以上経つ今は流石に生々しさは薄れてきています。


人々は都市部から農村部に大移動させられ、移動中にも多くの人が栄養失調や伝染病で命を落としました。
クメールルージュの兵士の黒装束。かれらは「クァイ(クメール語で『カラス』の意)」と呼ばれていたらしい。
トゥールスレンで処刑された人々。子どもも沢山。
生存者(約1万6000人中わずか8人)の1人が収容されていた部屋。
女性が収容されていた部屋。男性ほど力がないため木の扉。

今からそう遠くない昔に、日本からそう遠くない国で、このような未曾有の大量虐殺が行われていたと知り、背筋が凍りました。
衝撃のあまり写真を撮れなかったものも多々あります。
それと同時に、何がクメールルージュをこのような蛮行に駆り立てたのか、そして今のカンボジアは恐怖政治からどのように復興しようとしているのか、知りたい気持ちが大きくなってきました。
今後はクメール語とカンボジアの歴史を学び、引き続きこの国の動向を見ていきたいです。

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