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「はらりはらり、と」 1

未来はここにある、という気持ちを込めて名付けたという。『種を蒔く』、ここは不登校のこどもを持つ保護者と、こどもたちのために設けられた、非営利のサロンである。労働福祉会館の貸室を月に一度借りている。参加したい人は百円を払って、リプトンの紅茶と甘いお菓子を食べながら、今を語る。そんな場所にしたいのだと聞いた。わたしの名前はアカリという。みんな任意の名前を名札に書いて、呼び合っている。ニックネームでもいいということになっているが、ニックネームを名乗る人は今のところいない。下の名前を書いて呼んでいる。ちなみにこどもも来てもいいのだけど、まだこどもの出席者はいない。

源氏パイをざくざく食べながら、わたしはひときわ声の通る女性が気になって仕方なかった。わたしより一回りくらい上だろうか。わたしは人のことが気になると、じっと見てしまう癖がある。こどものころからそうで、昔は相手からの目線が返る前にふっと目を伏せて、翌日は部屋から出られなくなった。翌日どころか一週間は出られない。今はもう平気だけれど。…だいたい、わたしは呼ばれてここに来ているのだから、もっとちゃんと話しを聞いて、場を回さなければいけない。しかしどうしても、途中でこういうふうに集中が切れてぼうっとしてしまう。ここにいないみんなも、そんなこいないかしら。労働福祉会館の閉館のチャイムが鳴り、長時間にわたるサロンは惜しまれながら閉会する。

「アカリさん、よかったら一緒に帰りませんか」。リコさんはまっすぐにわたしに言ってくる。誘いの言葉を、言ってくる。わたしはゆっくりと、平静を保つ。「はい、もちろんです」。拳をぎゅっと握るのも、昔からの癖で直らない。別に戦うわけでもないのだけれど。

労働福祉会館は銀杏の並木の先にあった。並木道を駅前に向かう道は、嘘みたいにわたしとリコさんをふたりきりにした。「ミズキはね、漫画家になりたいんだって。わたし賛成したの。旦那はなんだそれって聞かないけど、わたしはいいなあって。ほら、何とか推し、とかっていうでしょ」「推し…アイドルとかでいう」「うん、2次元っていうのかしら。」「ああ、そういう」「そういうのがあったら、海外行って英語できなくても、コミュニケーション取れるとかって、あるでしょ。そういう未来もあるから、漫画に興味を持つのもありかなって」ああ、未来の話をしている。思わず笑うわたしをリコさんは見逃さなかった。「ミズキに会ってね、アカリさん」わたしはミズキさんの姿を初めて頭から足元まで見た。シフォン生地のふわっとした花柄のロングワンピース。「リコさん、可愛いワンピースですね」「ローリーズファーム?ミズキとよく行くのよ」カーディガンは深緑だ。「わたし、ミズキさんに会いますね」

 「こどもが不登校です」と言う大人が語るこどもたちは、大人たちが悩んでいるほど深刻でないことに、わたしは驚いていた。どちらかというと、母親たちの方が学校に行けないことを嘆いている。ここに呼ばれて来ている、不登校だったわたしや、不登校をこどもと一緒に考えたことのある大人は「学校に行かなくても来る未来」をここに来る人たちに話すことがある。でも、こどもたちは部屋にパソコンを持ち込んで、とっくに未来を見ている。どうすればいいのか、わからずに、汚れていく身体に指を擦りつけながらも、そんなことをするのは、眩しいものがこの世界にあることを、知っているからではないだろうか。うまく呂律の回らない自分の言葉に辟易しながら、輝ける人に、憧れているのではないだろうか?ここにあるのは、ほの暗い過去ではなく、明るい未来だ。わたしは思い出していた。わたしが未来にどうやって踏み出したのかを。

「リコさん、自信のなくなった人が、どうしたら自信を取り戻せると思いますか?」リコさんはちゃんと考える人だ。「どう…?」わたしは、リコさんの目を頑張って見つめながら、言う。「…誰かを好きになって、そのひとに好きになってもらう。たとえば、恋愛です」リコさんはわたしと友だちのように笑う。「男の子?」「はい、自分以外の誰かと」リコさんはわたしの足元をはっと見て、しゃがんで、コンバースのすっかり解けた紐を結んでくれる。「あああ、いいですよ、すみません」直立不動のわたしのコンバースは綺麗な蝶々結びになる。「アカリさん。そうね、きっとそうね」見上げたリコさんの瞳は、きらきらと黄金に輝いていた。銀杏はいつまでも鳴り止まない拍手のように、はらりはらりと、散り続けている。


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