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「丁寧な暮らし」の“丁寧”の成分はなんなのかを考える

わたしたちは疲れを自覚した

「成長」がテーマだった昭和・平成を駆け抜けて来た日本の多くの人々は、疲れてしまったのだと思う。

戦後、とにかく伸び代しかなかった日本は、復興のため、世の先進国と肩を並べたい一心で経済成長を追い求め、モーレツに駆け抜けるしかなかった。まだまだテクノロジーも発達する夜明け前の時代だったから、そうするしかなかったし、その成長はある意味、今の日本で生きる多くの人々を幸せにしてくれたとも思う。

けれど、あまりにも急ぎすぎて、疲れてししまったのだ。

今までの日本は、不明瞭な「あるべき姿」を追い求め、社会全体で解像度を上げるよう手探りで壮大な社会実験をしてきたわけで、そのスピードに体も心も追いつけず、蓄積した疲労感に嫌気がさしてしまった。

後から振り返ると「結構疲れちゃったね」ということがわかっただけのこと。

そして、人が人らしくいられる生き方を追い求め、「スローライフ」とか「丁寧」という、少しペースダウンした生き方や、ひとつひとつと向き合う暮らしに着目する結果となった、そんな感じなんじゃないかなあ、と思った。


「丁寧な暮らし」が“流行っている”

そんなこんなで、「丁寧な暮らし」の話なのだが、この言葉を聞いてパッと思い起こすイメージは、こだわりの家具やファブリックで無駄なくすっきりと統一感ある部屋に暮らし、季節感を大切に、生活の中に花や植物があって、味噌作りや梅仕事などの手仕事に時間をかけ、食や食卓を大切にし、使う道具、着るもの、自分を取り巻く全てにこだわりを持って穏やかに暮らしている様。

この様子はInstagramを覗けばあふれかえっていて、「ああ、流行っているんだな」と感じるほど、世に広く浸透している気がした。

しかし、そのワードが一般化されてしまったせいか、消費を促すためのアイコン的な存在になっているように感じているのは、もしかしたら私だけではないはずだ。

多分、「丁寧な暮らし」という概念が普及した当初は、「暮らしひとつひとつに向き合い、そこに楽しみを見出し、穏やかで清々しい生き方」をめざした人たちのための言葉だったと思う。

仕方のないことなのだが、社会にその概念が広く受け入れられるということは、だいたい途中からその真の意味は歪曲され、当初の真意とは異なった形で広がってしまう。一般化すると、亜流がどんどんできていくってだけのことだとは思うけれど、昨今巷で見かける「丁寧な暮らし」は「“丁寧そう”な暮らし」であったり、「見栄えのする”素敵”な暮らし」だったりする。

そんな「素敵な暮らし」ばかりが目に付くInstagramなんかを見ていたら、筋金入りの怠け者な「全日本雑な女選手権代表」の肩書きがしっくりくるわたしには到底無理な芸当だと感じてしまうが、果たしてわたしには「丁寧な暮らし」はできないのだろうか?

多分、そんなことはない。
「素敵な暮らし」や「見栄えのする素敵な暮らし」はできないけれど、どんな雑な女だって、「丁寧な暮らし」はできるんじゃないか。


「丁寧な暮らし」の“丁寧”の成分は……

わたし的な「丁寧な暮らし」の“丁寧”成分は、「それに向き合うことで、自分のことが好きになれる要素」でできていると思っている。

もっと具体的にいえば、「使ってるシャンプーがメリットだったとしても、それを最後の最後まできっちり使い切るような生活」こそがわたしの思う「丁寧な暮らし」の本質だし、「紙のフィルターに粉の入ったコーヒーにちょっとずつ湯を注いで香りがいいなあと心をほころばせる時間を持つこと」それも丁寧な暮らしだ。

その暮らし方に、いいうつわも、コーヒー豆を挽く時間も、手仕事で梅干しを仕込む作業も、きっと必要ない。

他方、手仕事をしたり、素敵な食卓を用意する人も、それをすることで自分のことが好きでいられるのだから、それも丁寧な暮らしだ。
そこに「丁寧だ」とか「それは丁寧ではない」とかいうジャッジは野暮だ。

要は、「丁寧な暮らし」は「自分が生きたいように生きる生き方」の思想の権化で、世界に人が生きている数だけ存在する宗教のようなもので、宗教同様、信じるものによって百者百様であり、一つとして同じ解釈がないし。信じている度合いと教義をどのていど忠実に実行するか、だけのことだ。

「宗教とは何か」という問いに対して、宗教者、哲学者、宗教学者などによって非常に多数の宗教の定義が試みられてきたとされ、「宗教の定義は宗教学者の数ほどもある」といわれる
(wikipediaより)

丁寧な暮らしの本質は哲学であり、思想なのであって、使っているもの(プロダクト)だけ誰かの真似をしたところで、それはその人自身の本当の丁寧な暮らしではないと思う。けれど、それが自分自身が好きになれるための行為だとしたら、そのうわべだけの丁寧も「丁寧な暮らし」の一種なのかもしれない、と思ったり。

少なからず見せかけの「丁寧」が溢れかえっているように感じているわたし的には、「何が丁寧なのか」を自分の中に持っておくことこそが真に「丁寧」なのではないかと思うわけだ。

あなたにとっての「丁寧」を持っていますか?という、そんな話。

(おわり)

別にメリットをディスってるわけじゃないけれど、ドラッグストアでもどこでも買えるし、決してオーガニックでもない。めちゃ安く手に入る工業製品の代表格ってだけです。メリットだって「くらしにいいこと、たくさん」っていう丁寧な暮らしに通ずる思想を持ってる。メリットでだって、丁寧な暮らしはできる、気がする。

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