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20代が終わるまで、「諦めグセ」だけはつけないほうがいい

何歳になったって、チャレンジしたくなったら挑戦すればいいし、やりたいことが見つかったら飛び込んだらいい、そう思います。

とはいえ、まだ「これぞ!」ってものが見つかっていない人も、なんとなく「これなら頑張れそう」と思えるものに出会ったばかりの人も、「辛いかもしれないけど、頑張らなきゃ」な状況に出会う予定がある人も、1つだけ伝えておきたいことがあり、書いてみました。
途中作り話みたいなこと書いてますが、嘘のようで本当の話(笑)
とりあえず人生経験を多分20年くらい先取りしてしまった(気がしている)わたしが、若いうちはとにかく大切だと思っていること。

自分の人生を振り返ると、「諦めなかった」ことが今の自分を作っているということ

30代になったばかりのわたしが偉そうに言えることでもないんですが、10代・20代の人に会って未来の話をするときには必ず「やりたいこと、やりなね、応援する。」と伝えています。(※やりたいことを見つけなさい、という話ではなく、少しでもやりたいことが出てきたら多少怖くても辛くても飛び込んでみたら?という話)
そして、飛び込むことを「諦めるな」とも思うし、飛び込んで苦しくても「諦めんな」とも思っているということ。(ノリが体育会系ですね。)

なんでそんな話をしているのかというと、わたし自身が意志の弱いタイプで、怠け癖や諦め癖があり、諦めてしまったことは積もりに積もっているけれど、残された「できそう」or「やりたい」ことに食らいつき、泣き言をいいながらもなんとか取り組んできたことが「今のわたし」を作っているし、「今のわたしが頑張れること」になったと感じているから。

言い訳を見つけては頑張ることを避けていた時期を経て……

振り返れば30年ちょっとですが、まぁまぁ山あり谷ありの人生でした。結果的に9回の手術を受ける羽目になり、今振り返るとなかなかにハードな後半の15年間。

高校に入学したばかりのわたしは、多分どこかの大学に行って、都会でバリバリ働いて、もしかしたらこれからの時代、海外で仕事をする機会もあるのかなぁ?なんて、不確かながらもフワフワとした未来は、ほのかに明るかった気がします。

けれど、17歳の夏に状況が一変。比較的大きな病気をしたせいで1年弱の入院になり、身体のコンディションが変わり、高校は留年確定。それまで夢だと思っていた職業には身体的理由で就けないと気付かされ、今まで優等生として積み上げてきた人生がいとも簡単に崩れ去ってゆきました。

淡々と続く地獄の抗ガン剤治療の日々を経て、なんとか生きる先行きが見通せるようになったにもかかわらず、この先何をすれば良いのか、何ならできるのかが全くわからなくなったまま高校へ復帰。
わたしには出来なくなったコトだらけだというのに、「同級生の普通」は容赦なく目の前にあり、自分と彼らの間に見えない薄い壁ができたような気分で本当に辛い毎日でした。あの時の惨めさはもう二度と味わいたくありません。(最初の3年くらいは、自分ができないことを思い知る日々で、マジで病んでたと思います……笑)

諦めれば苦しまないかもしれないけれど、見える景色は変わらないまま。

あのときは本当に「この身体じゃ、この先もずっと不幸」と信じていたし、拗らせすぎたわたしは、自分の明るい未来を諦めていました。

出来ないんだ、仕方ない

この言葉の裏には、「(だから、私の人生はこのまま暗闇の中で一生を終えるのだろうな)」という後ろ向きな意味を持っていたように思います。

けれど、ゼロリセットされたわたしは、「新しい能力」「新しい自分」を掴まないと、何ができるのかわからないままの何もできない自分でしかいられなくなる、それじゃ辛いが続いてしまうと気づき、「不自由や身体のことを理由に諦めることをやめる」ことにしました。

わたしが「諦めない」を選んだ理由はちょっと後ろ向きだったかもしれません。これから先も暗い気持ちにしかなれない人生から逃げたかった、ただそれだけ。

出来ることがわからないから、やってみたいこと、やれることは何でも挑戦してみました。手痛い失敗もあったし、挑戦しなきゃこんな辛い思いしなくて済んだと言えることもあったけれど、何もしないよりは、全部やってみて良かったと思います。やらなければ「アレをしていれば今頃どうなってたんだろう」とモヤモヤとした負の感情をずっと持ち続けていたかもしれません。
別に大きな成果やわかりやすい何かを得たわけではないけれど、今は十分に楽しくて、できることがたくさんあって、刺激的。
見える世界が増えて心が落ち着きました。

知らない世界を想像だけで羨むのは不健康だと思うから、目の前の靄が晴れて、進む先が見えた意味で、やって良かったと思っています。

諦める理由はいくらでも見つけられる。頑張る理由が1つ見つかったらそれは宝だから、手放さずに信じて粘った方がいい。

私の例は極端だったから「諦める」を辞められた気がしたし、その先に見えた景色の差分も明白だったんですが、日々の生活がそこそこうまくいってれば、危機感は芽生えないだろうし、このままでもいい気がしてしまいます。

ただ、挑戦することや背伸びをすることを諦めてしまうことは簡単で、あっという間に諦める決断はできるし、諦める理由はいくらでも見つけられるものです。でもそれは、「新しい能力」「今までにない一面を備えた自分」を阻むことでもあると。

最後に、20代いっぱいは「諦めぐせ」から逃げたほうがいい理由

一回諦めてみると分かるんですが、「諦め」で人生に致命的なことは起きたりしません。一度「まぁいっか」を始めると、必死で落ちないようにつかんでいたロープから手を離した後に実は何も起きないことが分かり、「なんでもないっぽい、大丈夫」と体が覚えてしまいます。諦めるラクさを知ってしまうことがよくなくて。

そして、「諦めない」は心の筋力。30歳頃からその能力を拡張していくことはむしろ難しく、維持が精一杯になってきます。人の体は基礎代謝が落ち鍛えるハードルが上がるように、心の筋力もなかなか鍛えにくくなっていくもの。

人は飽きることを嫌がるくせに、変化を疎む傾向にもあり、色々理由をつけては「このままでいいんだ」と言い聞かせがち。わたしも出来るならラクしたいと思ってますし(笑)

そして、諦めや負けることは、2、3度経験すると癖になり始めます。

逆に、2、3度諦めずにブレイクスルーする経験を持つと、山を越える筋力と越えるための読みの力が付くので、より挑戦のハードルが下がっていく。その差はどんどん開き、30歳ごろには大きく溝を分かつ状態になってしまう。そうすると、頑張っている人が余計遠い存在に思えて、自分は頑張れないんじゃないかっていう自己暗示にかかってしまうことにもなります。(そして筋力は衰えていく……)

だから、頑張りたい理由が一つでもあるなら、それは奇跡だと思って飛び込んで食い下がっておいたほうがいいんです。
その気持ちが一番充実して最高の状態なのは一度目だけ。
同じ内容の挑戦で、2度目以降はどんどんモチベーションを保つことが難しくなります。

そして、一番体力も気力も充実して、周囲も助けてくれやすい20代いっぱいまでに諦めてしまうことが続くと、心の筋力がつかないまま歳をとっていく。そうなると、もっと頑張ることにエネルギーを必要としてしまう気がしています。(今、30代になった身としてちょっと感じてるので)

人は自分の辿ってきた道で自分が作られます。
どんな人生であろうと、道を選んで進み、見えた景色の数だけ自分というアイデンティティが生まれます。
今の自分に満足していられない、もう少し自分のアイデンティティに輪郭が欲しい、そう思ったらそこから進みたいと思える道を選ぶ挑戦をしたらいい。

ていうか、いつになく気持ち悪い文章を書いてしまいました。

決して努力礼賛をしているわけではありません。
ただ、「諦める」という魔の癖から逃げておくと、頑張るために必要な瞬発力を出すコツを体が覚えるから、早いうちに習得して置いたほうがこの先の人生逆に楽だし楽しいのでは、という話です。

そして、「諦め」がポジティブなら別にいいと思うけれど、何か始めたいなら簡単に諦める理由は見つかっちゃうもんだから、「やる理由」を見つめて欲しいと思います。
ただ一つ、「死んだら本当に終わり」だから、死なない程度に。

(後記)
諦めるには種類があるな、と気づきました。
諦めることと諦めないことのバランスのいい人って素敵だなと思っています。自分ではどうにもならないことは潔く諦められるけれど、自分の力で良くできることには諦めない。前向きな「諦め」と前向きな「諦めない」が最強なきがする。時々後ろを向くけど、前に進むための確認ぐらいにして、前向きな一歩を進められれば。

そして、この文章がとても気持ち悪い出来だったので、何が良くなかったのか分析し、書き直すとしたらどうしたかをまとめたnoteを書きました。
これを通して私が言いたかったことを最後にまとめています。是非。

昨日の夜から理由不明にお腹が痛い。。。腹弱は諦めそうです……
お布団が愛おしい季節到来。お疲れ様です。

\ありがとうございます!/ いただいたご厚意は、新しいチャレンジに役立てます!