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非商業アブストラクトの世界

アブストラクトゲームは「運や隠蔽要素がない」という特徴を持つ、定義上ボードゲームの(ややニッチな)一ジャンルです(この用語には独特の紛らわしさがあり、人やシーンによってはやや異なる意味合いや意味範囲でも用いられることは過去の記事で触れました)。とはいえ、実はボードゲームの一ジャンルとしては少々変わった特徴があります。それは「物理的かつ商業的な形で出版されていないゲームが多分に含まれる」という点です。

今回の記事は、一般的なボードゲーム愛好者の目からは隠れがちな「出版されないものとしてのアブストラクト」についてです。

非/出版物のとしてのアブストラクト

「アブストラクトには出版されていないものが多くある」というように書くと、なにか「出版企画で没になった(あまり優れていない)ゲームがたくさんある」というように捉えられてしまうかもしれませんが、別にそういう意味ではありません。というのもアブストラクトのファンコミュニティの間で高い評価を受けているゲームには、商業的に出版されていないもの、あるいはルールのみが公開されたものが多数含まれるからです。

例として、私の好きなアブストラクトの一つにラインズ・オブ・アクションというゲームがあります。シド・サクソンのA Gamut of Games(『シドサクソンのゲーム大全』)で紹介されたゲームなのですが、このゲーム自体は1980年代から90年代にかけて商品化もされています。写真(これは製品版ではなくDIYのようですが)のように向き合わせた駒を一定の移動ルールに沿って動かしていき、先にすべての駒をひとまとまりにした方が勝つというゲームで、おそらく「駒の統合」を勝利条件とした初めてのアブストラクトです。

ラインズ・オブ・アクションはアブストラクトファンの間で根強い人気があり、マインドスポーツオリンピアードなどのゲーム競技会でも常連競技になっています。ところが製品版は長らく絶版になったままです。理由の一つとして考えられるのが、そもそもこのゲームの必要コンポーネントは欧米で広く普及している伝統ゲームのチェッカーと同じであり、チェッカーのセットで完全に代用できるという点です。

1つのタイトルを大量に売らなくてはならない出版社としては、非常に普及しているゲームのコンポーネントで過不足なく代用できるようなゲームを手がけるのはリスクが大きいです。ところがアブストラクトにはこのように他のゲームのコンポーネントで容易に代用できるもの、またはそこまでではなくても比較的簡単に代用品が用意できるものが多数あります。潜在的に優れたゲームであっても、こうした事情によって出版の機会に恵まれず一般には埋もれたままになりやすくなってしまうわけです。

ゲームの価値をどこに置くか

ところが上記のようなラインズ・オブ・アクションの特徴は、商業出版という点からはマイナスでも、アブストラクトのコミュニティの間では明らかに優れた点の一つとして受け取られています。手軽に遊べるから、ということももちろんあるでしょうが、それに加えてデザイン上の美点としても受け取られているようです。

アブストラクトゲームの「アブストラクト(抽象)」は、このジャンルの典型的なゲームがしばしば具体的なテーマを欠いていることに由来するらしい、ということは過去の記事でも言及しました。これは一面では他のゲームを代用したり自作したりしやすいということでもあり、また別の面では、純粋にゲームのシステムを追求することに価値が置かれやすいジャンルだということでもあるでしょう。コンポーネントの特殊性に依存せず、普遍的/ありきたりな道具で遊べるということは、そのゲームシステムの純粋性をはかる一つの指標となりうるわけです。

こうした価値観は作り手の間でもある程度共有されています。この世界には商業的な出版を直接的な目標としない、少数ながら優れたアブストラクトゲームのデザイナーが存在しており、ウェブサイトやコミュニティ上で継続的にゲームを発表しているのですが、彼らのゲームではなるべく普遍的なコンポーネント、すなわちチェッカーボードやオセロ盤のような四角形のボードや、六角形スペースを正六角形型に組んだボード(ヘクス-ヘクスボード)、そして碁石やチェッカーのような代用のきく駒、という範囲でデザインされる傾向がはっきりみられます。

サイズ4(5)のヘクス-ヘクスボード

自分の経験からしても、上記のような普遍的な道具で遊べる、シンプルで面白いアブストラクトを考案しようとすることは、なにか新たな自然法則を追究しようとするかのようなスリルがあると感じます。何世紀にもわたって誰もがアクセス可能であった道具によって、誰にも思いつけなかったようなゲームを考案することには、あたかも人類史を出し抜くかのような快感があるのです。非商業的なアブストラクトデザイナーたちが、物理的な出版の可能性をあまり気にせずこのようなタイプのゲームを作り続けているのには、こうした理由もあるのでしょう。

アブストラクトデザインの美学

Mark Steereは、上記のような非商業的なアブストラクトデザイナーの一人です。1992年にデビュー作クワドラチャを出版して以来、商業目的でないアブストラクトゲームを長年にわたりデザインし続けており、それらの完全なルールはすべて彼のウェブサイトで入手することができます。近年はボードゲームアリーナに精力的に自作を実装しています(直近では運要素を含むゲームに挑戦しているようです)。

最近彼がAbstract Games vol.24 に掲載した「Finitude and Aesthetics」(有限性と美学)は、彼が自分のゲームデザインに対して課している厳格なルールと美意識が彼自身の言葉でまとめられた興味深いエッセイです。彼の考え方には共鳴するデザイナーたちもいるのですが、どちらかといえば非商業的なデザイナーの中でもむしろ極端な部類であり、このようなタイプのアブストラクトデザイナーの総意を表しているわけではありません。しかし極端であるぶん、この種のデザイナーの一傾向がわかりやすく示されているものでもあるので、ここにその論点をかいつまんで紹介してみることにします。

まずタイトルになっている有限性 (Finitude) について。これはここではゲームの終了が保証されていること、言い換えれば千日手(サイクル)が起こらないことを意味します。千日手にはプレイヤーが勝ちを争ううちに自然に起こりうるもの(強制サイクル)と、両者が勝負を捨てて意図的に不自然なプレイをすることによって起こるもの(協調サイクル)があり、実際のプレイ上で後者が問題になることはありませんが、後者が起こり得るゲームで前者が起こらないことを証明するのは一般に困難です。ゲームを厳密に有限にする(ハード有限)ため、クワドラチャ以降のマークのゲームでは、どうプレイしても千日手が起こりえないルール構造によってデザインされています。

有限であることに加えて、マークのゲームでは引き分けが絶対に起こりません。この両方の特徴を持つゲームをマークは決定的 (Decisive) なゲームと呼んでいます。そして決定性は囲碁のコミコウ、チェスの50手ルールのような恣意的で付随的な調整ルールによって保つのではなく、そのゲーム本来のシンプルなルールのみによって自然に保たれていなくてはならないとされています。寄せ集めのようなルールの組み合わせや、クリシェのようなルール(チェッカーのジャンプ捕獲や桂馬飛びのような)は避けられます。コンポーネントは普遍的で一般的なものであるべきですが、十分な動機があるのであればそのルールは破られます、等。

こうした厳しいルールを課した結果として、彼のゲームはしばしば硬直的でプレイしにくかったり地味すぎたりすることがあり、特にアブストラクトファン以外のプレイヤーが接しやすいBoardGameArenaに実装されたものはBoardGameGeek (BGG)でのレーティングがのきなみ低く付なったりもするのですが、時にはなぜ今まで存在しなかったのかと思われるようなシンプルで興味深いものが出現します。近年のゾラ、ドードー、アイスブレイカーなどは、アブストラクトのデザイン史に銘記すべき成功例と言えるでしょう。


反/出版物としてのアブストラクト

私が面白いと思ったことの1つは、上記のような美意識に基づくルールが、コンポーネント以外に関してもことごとく物理的・商業的な出版にそっぽを向いて見えるということです。頻出するのでもなければ、千日手や引き分けが絶対に起こらないことは通常ゲームを売るうえでのアピールポイントにはなりませんし、なじみのあるメカニクスがあることは逆にアピールポイントになりえます。そしてルールから極力恣意性を排除しようとすることは、たとえばコスト面から駒の使用数を制限したいような場合に都合が悪いのです(○○コマは一人何個まで置ける、といった制限は、とくに商業的なゲームでしばしば目にします)。

別の作者の例ですが、Mike Zapawaのタンブルウィードは2020年のアブストラクトで、ヘクスヘクスボードを使用するスタッキングゲームです。BGGでBest Combinatorial 2-Player Game of 2020を受賞するなど評価の高いゲームなのですが、このゲームは現実に物理的なコンポーネントで遊ぼうとすると膨大な量のスタック可能な駒(またはダイス)が必要になってしまうため、ルール確定時から事実上ほぼデジタル用のゲームとなっています。

作者がもし商業的なデザイナーであったら、おそらく何らかの形で駒数の制限を設けたり、特別な役割をもつ駒を入れたりして必要コンポーネント数を減らす努力をしていたでしょう。しかし(マーク風に考えれば)そうした調整は美的でない恣意的なルールであり、アブストラクトの純粋性を損ねてしまうことになるわけです。こうした例は、ボードゲームの一ジャンルであるアブストラクトがそこに内在する価値観をある方向に突き詰めたとき、そのボードゲームの現在規範的な流通形態の都合に真向から反してしまう、という興味深い事実を示しているようです。


考えてみれば、ボードゲームのマスプロダクションのようなものが整えられたのはたかだかここ百年程度の話であって、ボードゲームの歴史自体はそのはるか以前、紀元前から存在するわけです(そして近代以前のボードゲームの多くはアブストラクトでした)。売り物にしにくいアブストラクトが特殊というような書き方をしてきましたが、実際のところは「物理的な製品をある程度大量に作って市場で販売する」という形態のほうが歴史的には特殊なのであって、アブストラクトの一部にたまたまそれに適合するものが含まれている、というだけの話なのかもしれません。

まあ、そのようなタイプのアブストラクトを少部数生産の体制で物理的に販売したりしている私は、どちら側から見ても特殊ということになってしまいそうですが・・・

この記事はアブストラクトゲーム Advent Calendar 2022参加記事として書かれた「商業アブストラクトと非商業アブストラクト」を構成を変えて全面改稿したものです。



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