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ATMの考え

貧しい人は優しいなんて、嘘だと思います。


自分の暮らしに苦労している時に、誰が自分より裕福な人を喜ばそうと思えるでしょうか。
他人に優しくするなんてことは、自分が満ち足りていないと出来ないわけで、事実、私は苛ついている時や不満がある時は他人に優しく出来ません。精神状態ならまだしも、暮らしに苦しんでいる時に他人に優しくするなんて出来ないと思います。
豪雨の中では一つの傘には一人しか入れないように、貧しければ貧しいほど自分のことに一生懸命にならざるを得ないのだと、ラオスに来て、そう思いました。


ラオス人は優しいと思っていた、とたくさんのブログに書いてありました。私も、そのつもりでいました。
でも実際は、笑ってくれるのは子どもか物売りのおばちゃんで、買い物をすれば水もどうか、果物はお菓子はとまくし立てられ、道を歩けばレストランやゲストハウスから声を掛けられる。
同じラオス人同士であれば、降る雨の量も傘の大きさも同じなので親切にも出来るのでしょうが、自分たちよりも立派で丈夫な傘を持つ外国人には、もう少し雨が降ってもいいと、そう思っているのかもしれません。
私は財布かATMにしか見えないのではと思えてしまいます。


でも、果たして私にはそれを責められるのかと考えた時、ため息こそ漏れてしまっても、責めることなんて出来ません。


私は貧困家庭で育ちました。子どもの頃から、おもちゃやゲームを買ってもらったこともなければ、新しい洋服を買ってもらったことも数える程度です。いつも、羨ましかったです。毎日数百円分のお菓子を買ってもらっている同級生や習い事や塾に通える友達が。
衣食住に困ることはなかったし家庭には恵まれたので幸せでしたが、それでも、子どもの頃はやはりどこか卑屈でした。妹とは分け合っても、他人とお菓子を分け合うことは嫌いでした。


人間は、ある程度満ち足りていないと他人に親切には出来ない生き物だと思っています。それは精神面も生活面も。
だから今の私は、他人にかける小さな親切心を持ち合わすことが出来ています。けれどもし生活に困るようになったら、生きていくために、私は観光客に物を買うように求めるしぼったくりだって幾らでもすると思います。


誰にどう思われたとしても構わないから、生き延びたい。そう思う人を責めるなんて出来ないから、貧しい人は優しいはずだとそう思っていた過去の私を、よく考えろとぶん殴りに行きたいです。



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