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2019雨の季節の映画メモ(『海獣の子供』と『天気の子』が今の私に与えてくれたもの)。

映画や本には、観終わったあと/読み終わったあとに、「もうなんにも語りたくない(言葉が追いつかない、この体験は自分だけのもの)」みたいな気持ちになるものと「なんでもいいから(?)とにかく熱く語らせて!(ほかの人の感想も読んでみたい♪)」みたいな気持ちになるものの2種類が(ざっくり言うと)あると思う。「深まっていく(静かなる)熱狂・興奮」と、「広がっていく(明るい感じの)熱狂・興奮」とでも言えばいいだろうか。

私の場合、最近の映画体験でいうと前者は『海獣の子供』だったし、後者は『天気の子』だった。私にしてはめずらしく、どちらも「これはぜひとも映画館で観たい!観よう!」と楽しみにしていた作品。


(↑結局、『#今日の私メモ』でのつぶやき以外に書いたのは、たったのこれだけ。だけどこの短さの中に、見事に?表現されている・詰め込まれていると思うんだけどな~♡ ←ザ・自己満足☺︎)

(そしておまけ。映画のあと、けっこうすぐに原作コミックスの『1巻』を買って読んだのだけど、マンガ本って高いのねー。もちろん「絵」にそれだけの労力が使われていることはわかるけど、単純に「金額」だけで考えたら、同じくらいの金額で村上春樹の小説の文庫本を買えば、もっとずっと遠くまでストーリーが進むわけよね。同じ金額で、長く、深く、物語を堪能できる……そう実感させられちゃったもんだから、やっぱり私は『本(小説)』がいいな・好きだな・必要だな・金払えるな、と思ったわ。マンガだと、圧倒的に「絵」に力がない限り、金払って読もうとは思わないな(かつては“りぼんっ子”→“別マ少女”だった私も今では)。でも今回の五十嵐大介さんの絵は『本物』であり『圧倒的』だから、これはかんばって全巻手に入れたいところ。最初はいっきに読み終えたかったけど、ここはちょっと、のんびり楽しもう~♡)



今のこの「2019年」の「双子座→蟹座→獅子座の季節」に(ざっくり言うと「雨の季節」に)、この2つの作品を“映画館で”観られたことは、なんだかとっても象徴的なことのように……感じているのだ、自分的には(おそらくは“時代的”にも?  まぁ『作品』が世に出てくるということは、そういうことなのでしょう)。


それで、そう……後者の『天気の子』についても、じっくりと自分の中に浸透させたあとに、たっぷりの時間を用意して「なにか書くぞ!」と意気込んで(?)いたのだけれど、先にこちら↓を書き上げたら(追記までして)なんだかすっかりと果ててしまった。


※ところで7月31日にはここ「仙台」で、舞台挨拶があったのですねー♪ 気づいたときにはもう、チケット全滅しておりました(舞台挨拶って見たことないや)。


もう私が語らんでも充分に、それ以上に、ものすごお~く盛り上がっている! そりゃあ、そうだろう。その期待があったから(『君の名は。』の大ヒットのあとに、いったいどんな作品を世に放ってくるんだ??)、そして勝手な「信頼」があったから(ストーリーは未知だとしても、とにかくこの人の絵のクオリティーの高さは本物。映画館で観る価値アリアリ!)、だからわざわざ「金」と「時間」を投入して(楽しみすぎて万全の態勢で臨みたくて「プレミアボックスシート」の「ど真ん中の席」まで確保して)、観に行ったのだ。そのくらい、“観る側”としても本気さを示したくなる作品だった。



で、感想?
なんかもう、いいんじゃない⁇ 笑
この盛り上がりが、すべてじゃない???

なんてことを考えながらもポツポツと(もうこれは自分用の記録。もちろんいつだってそうだけど)。

というわけで、映画のひとこと感想は……まず、本田翼さんが意外にも(⁉︎)ものすごく良かった。絵や音楽の素晴らしさは言うまでもなく、そして全然「賛否両論」感じなかったけどな。超ハッピーエンドじゃん。なにより「東京」に行ってきた感がすごく、ものすご〜く、ある。余韻は不思議となく、驚くほどストレートでシンプルな物語だった。『君の名は。』のような複雑さ?はまるでなく、最後まで一本道を突き進む展開?が私には逆に「予想外」だった。でも「期待ハズレ」ってことではなくて、あれはあれで物語の王道だと思う。何より、あそこに込められているエネルギーに泣けた。なのでこれはいい映画です!
あと、弟が、『聲の形』の弟……じゃなくて妹か……みたいで、いい存在感だったな。
余韻はなかったけど(物語がスッキリ終わっていたから)、帰りのバスから雨を見てたら「あの子を救えるならいっか……」みたいな気持ちになっていて……つまり魔法がかかっていて、雨の感じ方が違ってたのもすごくよかったな。☔︎☔︎☔︎


そうそう、「東京」にね、“行ってきた感”がものすごぉーーーく残ったんだった。そういう意味でのリアリティーと、物語としてのフィクションとが、見事に融合していたと思う。
私はあのラスト、彼の決意(?)に、全然違和感覚えなかったけどな。ほんと「超ハッピーエンドじゃん」って。小栗旬のセリフ(役名なんだっけ?)にあったように「おまえらのせいで世界が変わったって本気で思ってんの?」(←みたいな)ってことに尽きると思う。「おまえが死んで、世界を救えよ」みたいな話は、もうダサイというか、古い。犠牲者の精神で、人はしあわせになれない。世界は進化(?)しない。

って今、書きながら思うのだけど(ここは完全に余談ね/ちょっと無遠慮に綴ります)、、、ちょっと前から「かわいい女の子の死によって、主人公のさえない男子が成長・変化する」みたいな話が立て続けに売れたけど(そう“売れた”けど!)、私はずっと何かムカムカするもの(怒りというより疑問)を感じていたんだよね。物語を盛り上げるために、都合よく“勝気でかわいい病気持ちの女の子”を(わざわざ登場させて)殺すなよ!! と(ミスチルさんも、かなり昔に歌っているぜ?)。それって、自発的・自然発生的な物語じゃないよね?  最初から仕組まれた?アイデアありきの?(あ!こんな結末思いついちゃった♪ ……ex. 「病気で死ぬと思われていた女の子が、まさかの通り魔に刺されて死ぬので~す!」みたいな。……確かにタイトルには「やられたな」と思ったけど、こういう話は、ほんと、なんかものすごくムカムカする私デス。←たぶん病気とともに生きてきたから。あ、この話はここだけの秘密ね☺︎)、中身スッカスカの操作された物語じゃん……って。そんなふうに「病気」や「死」を利用しないと(なのにリアリティーがない)、「死」で演出?しないと、成立しない話って、そんなのなんか薄っぺらいわー、趣味じゃないわー、けど“売れる”ってことはみんな好きなんだねー、だからこの世界はまだまだ(ますます?)薄っぺらいんだねー、じゃあ私はどんなふうに生きればいいのよ、まったくねー、、、、、みたいな気持ちになっていたのだけど、そして、そんなの忘れて過ごしていたけれど(これ大事☺︎)、、、あのときのあの「モヤモヤ」が、行き場のなかった「違和感」「“?”感」が、今回のこの『天気の子』の結末で、全部! きれいさっぱり! 浄化されたような気が! 今!!  しました&しています!!!(お!余談からの急展開♪)

(だけどもう少し語らせて……)

(ほんと「男子たちよ、 自力で目覚めろ! 強くなれ!!」である。好きな女子、失ってんじゃねーよ、殺す物語作ってんじゃねーよ、それに浸ってんじゃねーよ、そんなの全部、“酔ってる”だけ!!! 飛び出て、自分の世界を、人生を、生きろ! 創造しろ!!)

神様、これは「毒」ですか?  だったらごめんなさい(読んだ“あなた”にもごめんなさい)。そして新海監督、こんな私の毒を吹き飛ばしてくれてありがとう!!!♡\☺︎/♡



というわけで、もっとまともな?感想っぽいこと?を書くつもりが、気づけばほらまた、こんな感じ……(まともな文章なんて、書いてられっかよ!)。心の声があふれ出ないと、おもしろくない。書く意味ない。記録する価値もない(感じられない)。

だから、私の文章より、例えばこちら↓をおすすめします☺︎/*



✳︎


エンターテインメントってなんだろう。
前作であんなミラクル起こして、その“次”となる、今回。
機会を得ること・与えてもらうこと。それに応える・応えようとすること。伝わること/伝わらないこと。いい意味での誤解や、悪い(好ましくない?)意味での誤解。それら全部を越えて、超えていくこと。貫くこと/合わせること。
全力を尽くすことはもちろんで。でも、それができない人もいて(機会が与えられないという意味ではなく、せっかくの機会が与えられているのに、それを自覚できていない・残念な意味でのプレッシャーに押しつぶされている・自分自身に「進化」を求めない&「可能性」を追求しようとしない……という意味で)。
だけど。仲間やチームに恵まれ、何より自分に与えられた(自力で“辿り着いた・掴み取った”の先にある、もっと何かすごいもの。神さまとか宇宙とか時代とかに“選ばれた”みたいな?)立場を正しく、客観的に把握して、その「ミラクル」みたいなこと(恩恵?)を堂々と受け取って、その上で自分(いや、『作品』か?)にとっての“最善”を追い求め、貫こうと全力を出し尽くしたとき――。

そこにはやっぱり、また別の新しい、けどどこまでも“その人らしい”何かが立ち上がっていて、それがまた人々を魅了し、もっともっとおもしろい場所へと連れていってくれるような(作者を)、また違った「ミラクル」が待ってくれていて――???

それら全部を丸ごと“楽しもう、楽しませていただこう”という意識がある限り、真のクリエイターは絶対に(?)傲慢にはならないし、さらなる「謙虚さ」(それは古い日本にありがちな“自分を小さくみせようとすること”ではなくて、今の自分のベストを尽くそうと誠実に取り組もうとすること。この「命」「機会」に対する礼儀)でもって、自分の信じる道を、正しく疑いながらも、正しく極めていくのだろう…………と、そんなことを今、「新海誠」という人に、思う(全然言葉が追いついてないけれど)。



とにかくね、「オリジナル」であることのすごさ、貴重さよ。

その「全部」を、自分で再現?できる能力の高さよ。


だからブレないし、ある種の「完璧な」世界がそこに立ち上がる。

私たちはその中で自由に受け取り、味わい、影響を受け、こうして好き勝手な文章を、ばかみたいに時間をかけて綴ったりする(もう3日も費やしているんだぜ?)。

今の自分には上記のような「機会」なんて、まるで与えられていないのに(こうしてネット上で世界に発信できるのも、ある種の「機会」ではあるが)。そんなものからはほど遠い、こんなにも遠いところにいるっていうのに。それでも、未だ見ぬ“誰か”に向かって、発信したくなる。記録しておきたくなる。

そういうエネルギーを、勇気のようなものを、受け取って、行動に移して。
それでも全然、まだまだ、相変わらず、こんなにも“届か”なくても。

あの『作品』の中に込められている情熱が、祈りのようなものが、私を動かす。




うん。

もっと正直になろう。


あんなふうに素晴らしい作品を、「観る側」「楽しむ側」で終わる人生は嫌なんだ。

私も“届け”たい。“創り”たい。“出会い”たい。“挑み”たい。それらを“仕事”として、“生きて”いきたい。




“選ばれる”人生も、自分で設定してくるのだろうか?
それとも、そこは私たちの意思が及ばない「神秘」の領域なのだろうか?


素晴らしいものに触れると、悔しくなる。

だから。

「悔しい」と感じるうちは、この道を、もう少し……。





だけど、この『命』も、今回の『人生』も、“有限”だから。

もう“どうしたらいいのかわからなくなってしまうよ……”なんて言ってる暇があったら、手を動かせ! 創作しろ!!


うん。「だって、すごい人は最初から、圧倒的にすごいんだ……」って思ってあきらめられるようならば、ここにはいない。



自分の人生を、信じろ。

“全うしよう・したい・させてくれ!”という願いを、私はまだ捨てたくない。捨てたくないから、捨てない。その道を、(今はまだ、気の済むまで)生きる。


そして、私の「オリジナリティー」が、
きっと、ここに、ある。






***


お暇な人は、こちらもどうぞ♪☺︎/*



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“はじめまして”のnoteに綴っていたのは「消えない灯火と初夏の風が、私の持ち味、使える魔法のはずだから」という言葉だった。なんだ……私、ちゃんとわかっていたんじゃないか。ここからは完成した『本』を手に、約束の仲間たちに出会いに行きます♪ この地球で、素敵なこと。そして《循環》☆