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あぁ…ここは、『40歳』最後の日々。

私の『40歳』が終わろうとしている。5月。今年もまたここ。
スパイラル状に上昇?  しているのかな?  してきたかな??
変わりばえのない日々に、心が追いつかない。……いや、違うな。追いついて来ないのは「現実」のほう。いつだって、そんな感じ。そして今年も“相変わらず”のまま、また1つ、歳を重ねようとしている……のか。……のだ。

『40』になるときは、なんだかものすご~く「抵抗感」みたいなものがあったのだけど、こうして『40』の中にすっぽりと取り(捕り?)込まれてからはもう、30代も20代も遥か昔の……まるで前世・前前前世のことのように遠い。こうやって、どんどんどんどん“楽”になっていくのだろうか?  これは“楽”なのだろうか? 全然苦しくて、そんな日々が長すぎて(まじでこのフェーズ、本当に本当に“長すぎ”だって!!)、とっくに麻痺してきそうなものなのに苦しいままで、ますます苦しくなって、それを言葉にすることすら減ってきて、それら全部にすっかり“飽きて”いて、なのにやっぱりどこまでも苦しいままで、それがもう“あたりまえ”みたいな日々で、人生で、それを生きる「覚悟」だけがピカピカに、どんどんますますピカピカに輝いていて、なのに現実にはこんなにも、未だ1ミリも、反映されてこない日々で、毎日で、心折れそうになり続けたまま、それでもこうして生きていて、生きられていて。……これは、この感じは、“楽”なのか???


ただ、「信じて」いる。
『夢は叶う』は、あたりまえ。
そのフェーズに、行きたい。そのフェーズを、生きたい。“たい”、“たい”、“たい”、“たい”、“たい”、“たい”、“たい”。――たぶんそれが、今の私を生かしてる。生かし続けてる。


だから、“それ”を
そして、“それ”を
「活かし」たい。活かして、生きて、いきたいんだよぉーーーーー!!!




愛か、欲望か。


これは私の「愛」であり「欲望」だ。
「欲望」が、私を生かす。そしてそれらは全部、私への、私自身への「愛」なんだ。





落ち着いたら読もうと思っていたスイッチさんの小説を読んだ(有料のところは読めなかった。残念!  それにしても、世界の真理や神秘や秘密みたいなこと?を、こんなふうにさらっとユーモアたっぷりな感じで読ませてしまうのが、実は一番“カッコイイ”ことなんじゃないかと私は思う)。

この『第15章「ここへ来た本当の理由」後編』で、それは「デザイン」という言葉で語られていた。私の場合は「プランニング」とか言っている。


つまり……何を言いたいかというと、

「私はこの人生を自分で選んできたのだから、やめたくない。全部丸ごと、全うしたいのだ!!!」

ということ。


だけど。

こんなにも道のりが長いとは……まったくもって「想定外」じゃね?


そして、そうして、
私の『40歳』が終わってく。『41』へと続いてく。


心の底から、腹の底から、「もういいや。あきらめる。やめる!」ってなるまでは、このままやっていくのだろう。……それにしても。。。





先日、こんなことをつぶやいた。

“これって、なんだっけ?”と思っていたら(村上春樹作品だってことはわかっていたのだけれど)、『ねじまき鳥クロニクル』の中にあった。


『ねじまき鳥クロニクル
第2部 予言する鳥編
18
クレタ島からの便り、
世界の縁から落ちてしまったもの、
良いニュースは小さな声で語られる』
より

 かつて加納クレタであった女はもう一度唇をしっかりと結んで、長いあいだ空中に言葉を探していた。それから彼女はとても静かな声で僕に言った。「いいですか、岡田様、岡田様もご存じのように、ここは血なまぐさく暴力的な世界です。強くならなくては生き残ってはいけません。でもそれと同時に、どんな小さな音をも聞き逃さないように静かに耳を澄ませていることもとても大事なのです。おわかりになりますか? 良いニュースというのは、多くの場合小さな声で語られるのです。どうかそのことを覚えていてください」


例えばこの言葉に、文章に、また心を掬い上げられて、「今日」を、「日々」を、生き延びる。

そんな相変わらず“夜明け前”な私の『40歳』最後の日々の風景は、どこまでも相変わらず、“こんな感じ”だ。




“はじめまして”のnoteに綴っていたのは「消えない灯火と初夏の風が、私の持ち味、使える魔法のはずだから」という言葉だった。なんだ……私、ちゃんとわかっていたんじゃないか。ここからは完成した『本』を手に、約束の仲間たちに出会いに行きます♪ この地球で、素敵なこと。そして《循環》☆