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“自分が見たい夢”を自分に見せてあげることに本気になれば、人は幸せになれるのではないか?

今朝から考えていることを、言葉にするのは難しい。
まずは、上記のようにタイトルを打ってみた。

さて、どこまでいけるだろう……。


《夢は自分で叶えるもの》

今日、目に止まった、ネット上の言葉。「本当にそうだよ、そうなんだよ~」と心の中で返事をし、胸の灯火に想いを寄せた。このことについては散々考え(させられ)て今に至っているわけで、いろんな想いが頭をよぎる。
まず――誰かが自分を、自分の思っているとおりに幸せにしてくれることなんて、ほとんど不可能なのだ(と私は思う)。彼に具わっている「愛情表現」と、私に具わっている「愛情表現」は大きく異なる。育ってきた環境、持って生まれた性格、魂の性質(?)などなど、さまざまな要因がこんがらがって本人さえも自覚できないくらい勝手に、まるで“あたりまえ”のように自然に、その人を『その人』たらしめているもの――そこに気づかぬまま、例えば「私を好きなら、私が欲しいものがわかるはず! わかろうと努力(?)してくれるはず!」なんて期待を膨らませてみても(←これまたほとんど無自覚に)、こっちの想いが全部丸ごと自動的に伝わることなんて100%ありえない(と私は思う。たとえ“言葉”にして伝えたとしても、丸ごと100%を他人と共有することなんて……ある意味では言葉にしようとすればするほど、不可能さを痛感させられるのではないか?)。『他人』は、驚くほどに、『私』を理解することができない。そのとき、過去の私のようなタイプの人間なら「それは本当に好きじゃないからだ!」とか叫び出しそうになるのかもしれないが、好きとか本気じゃないとかの話ではなく、単純に、もっと本質的に、私たちは恐ろしいほどに『違う』のだ。そこからはじめないことには、多くの個人的な戦争は永遠に終わらない。どんなに血を流したからって、解決するような問題ではないのだ(と私は考える)。

しかし、それでも&だからこその「想像力」。それと「思いやり」。これらの大切さを思い知る。そして、「わかり合いたい」への大いなる憧れ――


(……って、話がなんだか思った方向に進んでいかないな……。今日したい話は、この延長線上とは少し違う……というか、こっち経由で進むと「本一冊分」になっちまうぜ!?)



とにかくね(と、いきなり舵を切る)、
誰かが自分を“自分の思っているとおりに”幸せにしてくれることを願っている時間があったら、自分で動いたほうが早い&速いだろうって話なのです。
もちろん、自覚ありでも完全無自覚な他力本願でも「誰かに幸せにしてもらうこと」を求め続ける人生があっていいんだと思うし、本当にそれを味わいたくて生まれてきた人たちだっていると思う。
だからこれは私の話で、私は心から、腹の底の底から、「自分のことは自分で幸せにするしかない!」という人生のテーマに目覚め、それを追い求めて生きているというだけのこと。

で、私の場合そこには「夢を叶える」「夢を生きる」ということが深く結びついているようで、その『夢』に対しての今の私の答え(?)の1つが「作家を生きる」ということなのですね(って、やっとここ?)。



では、どんなふうに叶っていったら“おもしろい”と感じるのか?

というわけで、やっと本題に入れます(いつの間にか「です・ます調」になっている……)。


冒頭に私は、“今朝から考えていることを、言葉にするのは難しい。”と書いたのですが、今朝起きて、これを読んでいたのです。

で、私はコメントを残したくなって

私も昨日、書きはじめていた文章を途中でやめ、気づいたら『小さな違和感を、見逃したくないから。』という話を書いていました。そのとき、ばななさんのこの本(まだ読んでいない)のタイトルが脳裏の片隅でチラチラしていた記憶があります。
シンクロしているようで面白かったです☺︎/(昨日はそういう日だったのかも?)

と書きました。
そして、私の上にコメントを書かれている方々のnoteを見学しにいき(「これも何かの縁だろう……」)、こちら↓のnoteを知ったのです。


自分と同じようなことを考えている人がいる――。
しかも、もう動いてる。とっても行動的!!!

いろんな記事を、興味深く読みました。
「そうそう、私もこういうことがしたかったんだよ。出版に至るまでの道のりを、全部さらしてね……」
刺激的で、実際にフォロワーもたくさんいて、人を巻き込んで大きなことをしてくれそうな勢いとオープンな明るさみたいなもの(個人的には水瓶座のエネルギーのようなもの。新しい時代のエネルギーですね、ネットワーク力)を感じます。

やっぱりSNS(ツイッター)のちからってスゴイな。
やらないなんて、もったいない・ばかみたい、なんだろうな……


この『note』をはじめてから、「湖臣かなた」のツイッターを用意すべきかどうか、悩み続けていました。
ここ『note』でも、「ツイッター(もしくはフェイスブック)」でも、人気のある人・成功しているように見える人たちには、圧倒的な数のフォロワーがいる。
何かをはじめようとしていて、実際に動き出している・動き出そうとしている人にも、フォロワー。
とにかく、どこもかしこも「フォロワー」「フォロワー」「フォロワー」なのです。

「それって実際、フォローしている人たち全部の記事読めてるの? 読んでるの?」なんてことは置いといて(そんなのは“ナンセンス”と?)、そういう世界がすでに“ある”ということ、そしてそれは今後“主流(?)”になっていくだろうこと(もうすでになりつつあるのか?)を感じつつ、なんでかな……今の私にとってそれはあまりに新しく近未来的で、とにかくそう、「実感」がないんだな。感じられないの、「人間」を、なのか「温もり」を、なのかわかんないけど。そして、そういうのはもう「古い」って感じなのかもしれないけど……。


実体のない・感じられない世界では私、今のこの私が叶えたいと思っていること全部、叶えられなくなっちゃう。「無意味」みたいになってきちゃう。

そう、全然うまく説明できないのだけれど。

それで成功している人たちはもちろん、それで全然OKで、素晴らしいって思うんだけど、今の私には「それじゃない、なんか違う……」って。


だから。とりあえずツイッターのアカウントは作らないまま、ただこの『note』と自分のホームページ(有料プランにすらできてない)だけで、私は奇跡を、縁ある人を、引き寄せたい。出会いたい。そうじゃなきゃおもしろくないし、私が見たい世界は、世界のおもしろさは、そういう(うまく言葉で説明できない)ところにこそ、あるのだ!!!

――と、そんな感じのことを、今朝からずーーーっと考えていたのでした。





でね、思ったのです。

結局人は(というか私は)、「自分が一番“おもしろい”と思える方法」でしか、幸せになりたくないんだな、なれないんだな……って。

だから、自分が生まれる前に決めてきた『人生の設計図/地図/計画書(呼び方は何でもいいよね)』には、自分が最高に“おもしろい”(とか“カッコイイ”とか、人が重要視するポイントは人それぞれ違うだろう)と思えるプランが描かれているはずで、誰かのマネじゃなく、自分の“それ”を1個1個ひも解いていくほうが、一見遠回りに思えても、実は一番確実な、自分にとって嘘のない、「真実の道」への辿り着き方・歩み方だと思ったわけです。



で、今日のタイトル。

“自分が見たい夢”を自分に見せてあげることに本気になれば、人は幸せになれるのではないか?


そこに本気になるか、ならないか。
その自由すら、私たちは手にしているのだけれど。
自分に「幸せ」を見せたいのであれば、本気で、真剣に、探っていかないことには“はじまらない”のだと思うから。

「あなたが“最高! 夢みたい!”と感じられる状況(状態?)は、どんなものですか?」

そういうことを私は、自分自身に問い続けていきたいし、そういう世界を自分で自分に見せてあげたい。連れて行ってあげたい。

だってそれこそが、こうして「大人」になるまで生き延びて、「大人としての自由」を手に入れたってことでしょう?

そして、自分が幸せになること――つまり自分自身を幸せにしてやることだけが、これまでの人生に対する「復讐」みたいなものだと、私は本気で考えて生きてきたから。――だから、やる。叶えた先を、生きるのだ!!!




というわけで、なんとかここ(今日はもう時間ない!! 誤字・脱字、おかしな文章、あったら全部あとで直します!)。

ひとまずこれで、ポチッと公開~♪(長くなったぁ~~~!!! 最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!)






《後日、追記》この話は、こちらへと続く♪(この↓絵、好きだわ~)


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自己紹介

“はじめまして”のnoteに綴っていたのは「消えない灯火と初夏の風が、私の持ち味、使える魔法のはずだから」という言葉だった。なんだ……私、ちゃんとわかっていたんじゃないか。ここからは完成した『本』を手に、約束の仲間たちに出会いに行きます♪ この地球で、素敵なこと。そして《循環》☆