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私はアマゾンの火災を心配できない

みなさんご存知でしょうが、私は聖人でも、神さま仏さまでもない。世界の全てのよしなしごとに、心を弾ませたり憂いたりすることが出来ない、割と器の小さい人間である。

もちろんね、あー悲しいことだなとか、これは酷いことだな、とかは思うわけですよ。でも、心の底から憤ったり、考えたり、熱心に情報を探ったりして自ら調べようという気にならない。今回の件についてはそういう感じでした。特に、(今回の火事以外のものも混じっているであろう)焼かれた動物の写真や先住民たちの悲しそうな表情とか、

できるだけ見たくないわコレ

という感情になったのが事実。


その一方で、自分が以前住んでいたグアテマラの火事については「あー、あの辺のニュースだな、あの景色だな」と思って心を痛めるわけです。

(おそらくこちらの火災はアマゾンのニュースとは根本的な原因が違うのですけど)


「関心ごと」のキャパシティ

世の中は課題や問題であふれかえっていて、さらに身近なところから国全体、国外までに目を向けていくと毎日頭が痛くなるような出来事が散乱している。

SNSなんかで様々なトピックスを目にすることが増えた現在だけれど、その中で自分のアンテナに引っかかってかつ「これはいかん!行動しよう!」と思えるようなことはほんの少し。
けれど、そのことで他人を責めてはいけないんだ。

だって、キャパシティは人によって違うから。

目の前の育児で精一杯だったり、食事もままならなかったり、長時間労働に追われていたり

そうでなくたって学校や青春を満喫していたり慣れない仕事に一生懸命取り組んでいたり

人間っていうのはみんな、その人なりに忙しいものだ。


どうしたって自分に利害や関係が深いもの、経験があるもの、身近なものに意識が向きがちだし、それでキャパシティがいっぱいいっぱいになってしまうことも多いだろう。悲しいニュースからは目をそむけたくなったりもする。

けれど、そのことで他人を責めてはいけないんだ。

少しずつ知って、知られて

疲れていると、すでに頭や心の中が何かでいっぱいだと、新しいことを知ろうとする意欲がなくなってしまう。
そんなときは自分を責める必要はなくて、知りたいと思えた時にだけ少し手足を伸ばしてみれば良いんだと。そう思う。

逆に自分が大事に思っていることを知ってほしい!と思ったようなときは、それにリアクションがなかったりすると「なんでみんな興味を持ってくれないんだろ…おかしい!」と憤る必要もなくて、人間はみんなそんなもんなんだと思っていきたい。

お互いが余裕があるときに、そっと気が向いたら手に取れるように、優しくそばに気持ちを置きあえるような、そんな社会だったら良いなと思う。

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