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「出来ないことがある」のはダメなこと?-障害者が子どもを産むことー

先日こんな記事を見つけました。

伊是名夏子さんの子育てに関するコラム。

簡単にまとめさせて頂くと、

・「骨形成不全症」のため、身長100センチ、体重20キログラムととっても小柄、かつ骨折リスクも高く車椅子で生活する夏子さん
・子どもを抱えることも難しいが、スカウトしてきたヘルパーさん10人とチームを組み、子育てをしている
・ヘルパーさんによってやり方は色々だが、子どもたちには多様な人とうまくやってくことで”引き出し”を増やしてほしい
まずはお互い”知る”ことが大切!

といった旨のインタビュー中心の記事です。


私は以前からこの方のパートナーシップや妊娠・出産、子育てについての記事を読んでいたので「夏子さんらしい素敵な記事だなー」くらいに思っていたのですが、何気なく読んだコメント欄を見て驚きました。

完璧じゃないと”子どもを産む権利”がない?

ではいくつかコメントを抜粋してみます。心して読んでね…

金持ちで高い賃金で専属でヘルパーさん雇ってる、ならまだしも…
なんか良心をダシにタダに近い形でこき使ってる感否めないな。
健常者の母親はもっと苦労してるのに。
厳しい事を言わせて貰うと、子育てどころか、自分の事も出来る事が限られてそうなのに、何で2人も子供を作ったのか理解出来ない。健常者でも、自分が子育て出来る範囲で子供を作ると思う。
しかも、ヘルパーさんはボランティア?
働き蜂に小間使いさせてる女王蜂みたいに思える。
ごめんなさい、理解力が足りないのかと再度読み直してみましたが、この記事からの情報だけで感じた事は、、、すごい図太いなってだけです。何様なのでしょうか。ヘルパーさんにおいくら支払われてるのか分かりませんが『合わない人がいても頑張ってねー』って(笑)とてもじゃないが普通の神経ではない気がします。障害は体だけじゃなくて他にもあるのでは?と思わせる内容です。

3つだけの抜粋でお腹いっぱいです。ご馳走様でした。


・健常者はもっと苦労しているのに

・自分のことも出来ないのに子どもを作るな

・何様なのか


おそらく記事に対する誤解もあるでしょう(ヘルパーさんはボランティアではない)。もちろん、匿名性の高いネットニュースのコメント欄ですから、「これが世間の本音だ!!」とは思いません(最初思ったけど)。

ですが、ここから”傾向”のようなものは垣間見えるかなと思います。

①「権利」と「資格」を誤解している
②分不相応として差別している
③依存はいけないことという思い込み

の3つです。

「権利」と「資格」のはき違えから起こる差別

まず、前述の批判的なコメントからは

「権利」のことを「資格」を受け取り違えている部分があるかなと想像できます。


リプロダクティブヘルスライツという言葉をご存知ですか?

1994年のカイロ国際人口開発会議にて採択された文章に基づいています。

人々が安全で満ち足りた性生活を営むことができ、生殖能力を持ち、子どもを持つか持たないか、いつ持つか、何人持つかを決める自由をもつ

とされており、思春期以降のすべての個人に認められるべき権利とされています。

一方「資格」とはどのように定義されているでしょうか。

1 あることを行うのに必要な、また、ふさわしい地位や立場。
2 あることを行うために必要とされる条件。 デジタル大辞泉より


つまり

権利=前提

資格=条件

ということです。

まずは、「子どもをもつかどうか」に個人の選択以上の条件はいらない、という前提から話さなければいけないため、前述の批判コメントは既に論点がズレているといえます。


障害者は子どもをもってはいけないーそんな法律(優生保護法)がたった20年前まで存在していたという事実を知っていますか?

これ、ナチス・ドイツを見本としてつくられているんですよ。


仮に障害者が子どもをもっていけないのであれば、中途で障害を負った方からは子どもを取り上げなくてはいけないことになります。

それはおかしいですよね?

だったら、誰が産んでも何とかなる社会を目指すべきではないでしょうか。


分不相応という”見えない差別”


差別というのは、暴言を吐いたり社会的に排除したり、といった「明らかに目に見える」ものばかりでしょうか?


例えばこんな話を聞いたことはありませんか?

妊婦に電車内で席を譲ったら、座ったとたんに携帯電話をイジりだして不愉快だった

というようなエピソード。


この不愉快さの裏側には「分不相応」が隠れています。


妊婦は席を譲られたら申し訳なさそうにしているべきー妊婦は本来社会的に弱い(下層)の存在ーそれらしく(相応に)振るまえ

という理論です。

(いらすとやさんの闇イラスト…)

要はその方の中で「社会的なピラミッドで、お前は自分より下にいる」という前提があるんですよね。


これと同じ理論が、前述の批判コメントの中にちりばめられていますね。


障害者はおとなしくしていろ、申し訳なさそうにしていろ。

直接は言わないまでも、差別の色濃い思想が透けて見えます。


”差別”からは建設的な議論は生まれてきません。差別が生み出すのは非効率な社会システムだけです。


依存出来るひとが「強いひと」な理由


自らも脳性麻痺当事者で、小児科医として活動されている熊谷先生をご存知でしょうか。

この方は、障害者の本質は”依存先が限られていること”と説いています。

「私は何にも依存していない」と感じられる状態こそが、“自立”といわれる状態だと勘違いされていますが実は真逆で、

私たちはいろんな人や機関にバランスよく依存することで「人生」をわかちあっているんです。

健常者の母親はもっと大変なのに

この言葉の裏側には”依存先の欠如”ないし”不足”を感じます。


私はこんなに一人で頑張っているのに、そんなに大勢に頼ってズルい。


そんな言葉が聞こえてきそうです。

夏子さんをはじめ、身体を動かすことや気持ちを表現することに”障害”を抱えているひとたちは「頼ること」が上手なひとが多いです。


物理的にできないから、やってもらって当たり前?


そういう意味ではなく、「周囲の人たちを笑顔にする」。そんな繋がりを、彼らを中心に私は何度も見てきました。


批判コメントを批判することでは、何も生まれません。

きっと、夏子さんのように「上手に周りを頼れるひとたち」がもっともっと評価されるようになれば、障害の有無なんて関係なく、みんながみんなを頼りあう社会になっていくのではないかと思います。


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