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愛は、むしろ煩悩。~”夫”を、1事業として考えてみる。


「愛」という言葉とその意味は、明治になってキリスト教の概念を直訳したもので、それ以前の日本ではネガティブにとらえられてたのだという。つまり、愛欲とか愛着とか。これらは自己中心的な執着心に他ならず、むしろ煩悩だった……。

わお、リピート・アフター・ミー。「愛は、むしろ煩悩。」 OK?
仏教では、「慈しみ」、なのだそうです。なーむー。



▶近代の誕生、「主婦」の誕生。

明治といえば、日本では近代の始まり。ナポレオンが引き起こした流れのなか、国と国、とか、企業と企業、とか、大きなものがパワーでぶつかりあう時代になっちゃった。

えーい、弱くてわけわからんのがごちゃごちゃバラバラしとったら邪魔なんじゃい、とでもいわんばかりに、中央集権的な国民国家制度ができ、国民教育のための普通教育制度ができ、国民皆兵のための体育教育ができ、工場や軍で働けない者を隔離する精神病院ができ、「家」ができた。うん、日本で家父長的な家制度が国の基礎となったのは、明治31年だ。


近代、それは、国家でも企業でも家庭でも、権力を一か所に集中させることで、効率的な集団経営をはかることを最優先させた時代。たぶん。

人類史に「主婦」というのが出てきたのも、ざっくりこの時代になる。
つまり、産業革命で工場が誕生し、止まらないベルトコンベアとかの機械にあわせて人間も限界まで働くようになってきて、じゃあ体力ある男が工場で働くけどクタクタで自分の労働力の再生産なんてできないから、家庭に労働者の専業世話係として「主婦」という役割がいた方が効率的(※工場目線)じゃん、という構造の中で生まれたものなのね。


▶「夫」は、あなたの命を守ってくれている(かもしれない)。

どうも、明治になって、「家制度」と「主婦」と「愛」が日本にいっしょくたになだれ込んで、「夫を愛している専業主婦が家の中で待っている」図が日本の文化っぽくなったのだけど、それってこの100年ちょっとくらいの話なんだね。

でも、ぜんぜんそれを否定するつもりはない。あのね、離婚して私、つくづく身に沁みてわかったのだけど、「夫」はありがたいぞ。重い荷物もってくれるし、インスタントラーメンつくってくれるし、話しかけたらわりと返事してくれるし、なんといっても、お金を稼いでくれたりする。

繰り返そう。お金を稼いでくれたりする。


たとえば今日の時点で、近所のダイエーでは、レジのパートが時給880円だ。もしもあなたの夫が月給26.4万円なら、あなたがレジを月に300時間打ち続ける(つまり「9月に1日も休まず、毎日10時間レジを打ち続ける」)のと同じお金を、毎月、家にもってきてくれるのだ。ブラヴォー!

想像してみるといい。レジ業務、立ちっぱなしで、変なお客さんも相手にして、ほんま大変やで。月300時間とか、私はぜったいでけへん。だいたい、月に300時間労働って、ざっくり毎月200時間(1日8時間×週5日×4週)+残業100時間だから、過労死ラインを明確に超えてる。つまり、夫は、あなたの命を守ってくれているかもしれないのさ。


▶「夫」を、1事業として考えてみる。

近代になって日本に入ってきた「愛」は、この際、置いておこう。明治も終わり近くに「制度」として導入された「家」も、この際、置いておく。

「クラン」でも「カンパニー」でも「家族」でも何でもいいのだが、ともかく個人のあつまりの目的は、「一緒になることで、より生き延びる可能性が高まる」ことにある。動物見てると、そんなかんじよね。


とすると、「夫」も、一緒にいることで、あなたが生き延びる可能性がより高まるなら、一緒にいればよい、と思う。経営者の目線で言い換えると、「夫を、1事業として考えよ」ということ。

あなたの家庭の損益分岐点は? あなたと家族がご機嫌で生きられるためには、いくら必要? それを実現するため、「あなた」という事業部門でいくら、「夫」という事業部門でいくら、売り上げを立てる? 固定費はいくらかかるの? 売上原価は? ちゃんと、自分も勘定に入れて考えること。



幸せであることは、きっと、手段じゃなくて目的

夫(と自分)の事業採算性を考えて、夫という事業を継続させる(=夫と暮らす)と決定したのなら、もう、グチグチ言うのじゃないよ。グチグチ言うくらいなら、離婚して、自分自身の手で、自分(と家族)の事業を立ち上げたら良いだけの話。

イヤなんだよね。「夫に文句言いながら別れない主婦」とか、「会社の文句言いながら仕事を変えようとしない会社員」とか。21世紀ジャパンに住む我々、離婚する自由も権利も、職業選択の自由も権利も、あるっつうの。自分が責任引き受けて権利行使しないことを、誰かのせいにするんじゃない。


組織が存在する目的は、たぶん、属する個人が生き延びる可能性が高まることにある。できればその毎日が、より幸せに、よりご機嫌になるといいといいよね。幸せであることは、きっと、手段じゃなくて目的。いますぐ、幸せになるといい。

明治になって入ってきた「愛」がなくってもさ、仏教的に「慈しむ」ことならできるかもしれない。あなたが過労死せずに済んでいるのは、夫のおかげかもしれない。なんせ、袖振り合うもなんとやら、力を合わせて、生きていこうぜ。


(2019/08/12)















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