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『SEX EDUCATION』 Calから考えるノンバイナリー表象

こんにちは!SOGI研メンバーのRayです🍽🇸🇪

みなさんはLaurie Nunn原作・制作の『SEX EDUCATION』というドラマをご存知でしょうか?2019年からNetflixで配信されているイギリスのドラマです。2023年9月にシーズン4が配信され完結しましたが、それからもしばらく「今日のTV番組トップ10」に入り続けるほどの人気を誇り、世界的に注目されました。

ストーリーはタイトルにある通り「性教育」に大きく関わるものです。母親がセックス・セラピストである高校生の主人公オーティスが、問題児と呼ばれるメイヴと共に学校でセックスセラピーを開きます。多種多様なジェンダーアイデンティティ、セクシュアリティの人物が登場し、それぞれがセックスに関するさまざまな悩みを抱えています。

僕は昨年10月にこのドラマを視聴しはじめ、つい最近やっと最終話まで見終えました。毎シーズン新たなキャラクターが追加されるのですが、シーズン3からノンバイナリーを自認するキャラクターのCal(キャル)が登場します。

ノンバイナリーが描かれる作品はまだまだ少なく、キャルがこのドラマでどのようなストーリーを創っていくのかとてもワクワクしながら視聴しました。このnoteでは、日本で(いまはスウェーデンですが)ノンバイナリーとして生きる僕の注目したポイントをいくつかの項目に分けて紹介したいと思います。


クィアと翻訳の未来

僕がまず注目したのは、日本ではまだ浸透しているといえない言葉や概念が、日本語字幕をつける際どのように表現されているのかという点です。

たとえば、キャルは自らの代名詞として「she(彼女)」でも「he(彼)」でもなく、「they」を使います。theyは基本的に「彼ら/彼女ら」という意味で、性別を問わず複数の人々を指す代名詞として使われますが、単数形として使う場合も性別を特定せずに使用することができます。

よってノンバイナリーやXジェンダーなど、自分自身の性を「女性」もしくは「男性」の枠にあてはめない人々の中には、自らの代名詞として「they」の使用を推奨する人がいます。(もちろん特定の性自認・性表現に限らず、さまざまな理由や目的をもって『they』を使用する人々がいます。)

まさにこのように、「they」を使う際はその用途をここまで説明しなければ多くの人々に理解されません。これくらいの説明ではピンときていない人も少なくはないでしょう。なぜなら、この「they」と全く同じ意味合いで一般的に広く使用されている言葉が日本語にはないからです。

これは「クィア」という言葉にも当てはまります。「クィア」は「奇妙な・風変わりな」という意味で使用される形容詞で、元は男性同性愛者に対する蔑称として使用されていました。しかし、性別二元論や異性愛規範に当てはまらない人々があえて自らを「クィア」と名乗ることで、その存在と権利を主張し、連帯するための肯定的な意味合いで使われるようになりました。

「クィア」という言葉はその歴史も含めて唯一無二の言葉であり、この言葉のもつ膨大なエネルギーは他に代えがたいように僕は感じています。日本語の一言で言い表せない分、日本語を第一言語とするすべての人々が本当の意味でこの言葉を理解するのは、簡単ではないようにも思えます。

ドイツからの留学生も「クィア」の概念について、「自分たちが普段使う第一言語で表せない言葉や概念は、広く一般に浸透させることが難しいように感じる。」と話しています。程度の差はあれど日本語に限らず、英語を第一言語としない人々の間で同じような問題が抱えられていると考えられます。

では、このような言葉はドラマ『SEX EDUCATION』でどのように訳されていたのでしょうか。

まず、生徒会長であるジャクソンが友人のヴィヴィアンにキャルを紹介するシーンで「they/them」のセリフが登場します。ジャクソンがキャルを「彼女(she)とは先日廊下でぶつかった。」と説明した後、キャルは次のように返します。

"My pronouns are they/them, but no worries. I'm Cal."
「”彼女”ではなく”この人”(they)だ。キャルだよ。」

Laurie Nunn『SEX EDUCATION』(2021) Netflix. Season3. Episode2. (00:18:23~00:18:35) 

英語原文でははっきりとキャルの代名詞が「they/them」であると示されていますが、日本語字幕では、「they/them」の概念をより “自然” で多くの人々にとって ”わかりやすい” 日本語で表現するために「この人」という訳が採用されていると考えられます。

僕はこの訳を見た時、theyをどのように日本語にするのか自分では思いつかなかったので、率直に「上手いな、なるほどな。」と思いました。しかしよくよく考えると、ここでキャルが自分の代名詞を訂正した意図、they/themの概念が明確に視聴者に伝わっているのかという点では疑問を抱きました。

ほかにも、キャルのセリフの中であえてジェンダーを意識させているもの(エピソード3より"the idiot popular girls" (38:40~39:50) など)、逆にニュートラルな言い回しを意識させるもの(エピソード1よりgood boyではなく"good human" (34:21-34:30) など)がうまく字幕に反映されていないように感じられました。

また「クィア」という言葉に関して、シーズン4ではそのまま「クィア」と訳されている場面もありましたが、シーズン3のエピソード3ではキャルのセリフ "other queer kids" (39:02~39:11) が「他のマイノリティーの子」と訳されていました。社会にはそれぞれのカテゴリーでマイノリティが存在し、その中でもクィアの存在について語られているのに、なぜ包含する言葉を選んでしまったのか疑問に思いました。

クィアを語るうえで "自然さ""わかりやすさ" をどこまで追求すべきかという点は慎重に考慮されなければなりません。"自然さ",  "わかりやすさ" を求めるあまり、かえってその言葉の本当の意味が覆い隠されてしまったり、元の言葉とは全く異なる概念のように姿を変えられてしまうこともあります。

また、その "自然さ",  "わかりやすさ" が誰にとって "自然" で "わかりやすい" のかという点にも注目しなければなりません。マジョリティの言葉でマイノリティの概念を説明しようとしすぎることは、本来の言葉のもつ歴史や人々の想いを顧みず、望まれる解釈とは遠い認識を導くことになりかねないです。

とくに今回の『SEX EDUCATION』のようにさまざまなクィアの存在を可視化する作品では、マジョリティの物差しにあてはめすぎず、彼らの言葉をそのままに近しい感覚で視聴者に受け取ってもらえるような字幕の工夫、心がけを模索することが必要となるでしょう。

代名詞「they/them」の可能性

またこのドラマを通して、性別二元論の枠にはまらない人々だけでなく、相手のジェンダーを想起させない、断定しない意図で代名詞theyが使用されることを学びました。

それはエピソード6のエリックが恋人のアダムスについて祖母に話すシーン(54:36~55:15)で表れます。エリックはクリスチャンの家系で、祖母に自分がゲイであるということを明らかにしていませんでした。しかし、祖母がエリックの恋人を "she" と表現した際、エリックはアダムスの代名詞を "she" に合わせず "they" と表現します。

このシーンできっとエリックはアダムスを "he" と表現したかったでしょう。もちろん、何からも抑圧されずにそう言える社会の実現が最も望ましいです。しかし、theyは相手のジェンダーを明らかにしたくない、今はまだできないという場合に使用することで、相手をできる限り尊重するひとつの手段になりえると知りました。they/themという代名詞がもつもうひとつの可能性をこのやりとりが示してくれたような気がします。

つまりthey/themは、

  1. 性別二元論の枠に当てはまらない人々が心地よく過ごすための代名詞

  2. 相手の性自認がわからない場合のミスジェンダリングを防ぐことができる

  3. 状況に応じて特定のジェンダーに縛られず使用できる

この三つの能力をもつ言葉なのです。

しかし、they/themをただ「万能な代名詞」として覚えてしまうことは危険です。一つ目の用法は性別二元論の枠に当てはまらない人々に配慮するため、theyの存在を可視化するために必要であること。三つ目の用法においてはなぜ「he」もしくは「she」と表現したい人を「they」と表現してその人のジェンダーを隠さなければならないのか、その状況に潜む社会の問題を考える必要があります。三つの用法それぞれの意味を理解することが重要です。

また最後に気になったのは、ノンバイナリーの一人称がどう訳されているのかということです。

僕が確認した限りでは、キャルもレイラも一人称は「自分」を使用していました。私、僕、俺、ウチといったほかの一人称は特定のジェンダーを想起させると考えられ、最もニュートラルな「自分」が採用されたのでしょう。

現実に生きるノンバイナリーやXジェンダーの子たちが何をどのような意図で一人称として使用しているのか気になったので、何人かの友人や僕の運営する性別二元論の枠に当てはまらない子たちのための居場所「Room for Drowsy Purple」で聞いてみました。すると「私」や「うち」、「僕」、「自分」、「俺」、自分の本名をそのまま使用するなど、人によって何が心地よい、自分らしいと感じるかは人それぞれだということがわかりました。

僕自身、話す相手によって使い分けていたり、ぱっと口から出たものを一人称としていて、気分でころころ変わります。ノンバイナリーはこれを使う!というのが固定されないように、これからはノンバイナリーでもいろんな一人称を使うキャラクターがでてきたらいいな~とこっそり望んでいます。


ノンバイナリーの恋愛って?

ノンバイナリーがノンバイナリーとして愛されること

ノンバイナリーの人々はどんな相手となら心地よく恋愛ができるのか。これは僕が長年考えてきた問いでした。

ノンバイナリーは自身の性を「男性」もしくは「女性」の枠に当てはめないため、特定の性として他人から好きになられることに不快感を抱く人もいます。(性表現のカテゴリーのみをノンバイナリーだと考える人、恋愛においてはまた別の考え方をする人々もいるので、一概にすべてのノンバイナリー当事者がこうだと言い切ることは出来ません)

よって、例えば相手が異性愛者、ゲイ、もしくはレズビアンのように相手を女性または男性として好きになる場合(これも一概に言えませんが)、ノンバイナリーの人々との関係はどのように築かれるのでしょうか。

シーズン3では、キャル(ノンバイナリー)ジャクソン(シスジェンダー男性・ヘテロセクシュアル)の恋愛描写もストーリーの主軸のひとつとして描かれています。ジャクソンはキャルのノンバイナリーというアイデンティティを尊重し、キャルの困難を一緒に解決しようと試みます。

物語の半ば、ふたりの距離は徐々に縮まり、キスを交わすようになります。しかし、キャルは自身の身体(胸のあたり)に触れられることに抵抗を示します。対してジャクソンは自らの発言(”You're beautiful")がジェンダー化されたものでないか慎重になるあまり、ベッドの上では気まずい雰囲気が流れていました。

その時、キャルはジャクソンにこう尋ねます。

”If this was going to become more serious, then you would be in a queer relationship. Is that okay with you?"
「付き合うとしたら君もクィアになる。それでもいい?」

Laurie Nunn『SEX EDUCATION』(2021) Netflix. Season3. Episode7. (00:36:32~00:37:13)  

僕はこのセリフにかなり衝撃を受けました。

ノンバイナリーの恋愛について考える時、「ノンバイナリーを好きになる人はどんな人なんだろう。」、「相手が特定の性として自分のことを好きになったら、それを受け入れるしかないのかな。」などと常に受け身の姿勢で考えていて、自分がそれに適応するか拒絶するかしか選択肢はないと考えていました。

しかしこのセリフには、ノンバイナリーがノンバイナリーとして愛される権利があるように感じられました。ふたりで関係性を築いていく上で「自分は相手にどんな性として見られてるんだろう。」と一人で悩むのではなく、「僕と付き合うってことは君はクィアになる(クィアである)ってことだよ!」と相手に主張してみても良いことを学びました。

だからと言って、必ずしも相手がクィアになるとは限りませんし、この問いかけは相手の自認するセクシュアリティを否定する、変化を強要するものでは断じてありません。ジャクソンのように、考えた上で自分はクィアではない、キャルを女性として好きだと自覚する場合もあります。しかしここで重要なのは、自分だけが悩むのではなく、相手に一度考える機会を与えられるということです。

ちなみにノンバイナリーをノンバイナリーとして好きになる(可能性のある)セクシュアリティとしては、以下のようなものが見つかりました。
(定義の仕方は人によってさまざまです)                 

  • ノマロマンティック(セクシュアル)・・・男性以外のあらゆる性に恋愛的(性的)関心を抱く。

  • ノウマロマンティック(セクシュアル)・・・女性以外のあらゆる性に恋愛的(性的)関心を抱く。

  • セテロロマンティック(セクシュアル)・・・ノンバイナリーやトランスジェンダーに恋愛的(性的)関心を抱く。

  • ダイアモリック・・・ノンバイナリーな性に魅力を感じる。

  • パンロマンティック(セクシュアル)・・・恋愛的(性的)関心を抱くのに相手の性別は関係ない。

具体的にこのどれかのセクシュアリティでなければいけないというわけではありません。相手のセクシュアリティが何であろうと、お互いのアイデンティティを尊重し心地よく恋愛するためには、キャルとジャクソンのように相手と自分を思いやったコミュニケーションを十分にとることが大切です。

男友達、女友達、ノンバイナリーの友達?

ドラマと直接関係しませんが、上記の恋愛関係の問題は友人関係にも繋がると考えました。僕は友人に対して自分がどう見られているのか気になるときがあります。自分のジェンダーアイデンティティについて話している友人と、そうでない友人がいますが、どちらにしても自分を二元論的な特定の性の友達(男友達もしくは女友達)として接されていると感じる瞬間があります。

例えば、目の前で着替え始められたとき、異性にはハグをしない友人にハグをされたとき、これはどういうことなんだ・・・?と頭の中でぐるぐるぐるぐる考えてしまいます。

これが相手の性的指向をもとに線引きがされているのか、性自認をもとに線引きされているのかというところもわからなくてモヤモヤします。性別二元論的、もしくは異性愛規範的な考えがもとになっているのではないかと考えると、もっとモヤモヤします。

自分が特定の性として見られているのではなく、Rayだから良いと思ってくれている、心をひらいてくれているんだと考えようとしますが、やっぱり状況によっては少し嫌な気持ちになったり、不快感を抱きます。相手の見方、考え方にどこまで干渉してよいのかもわからないし、これといった解決策も見つからなくていつも悩んでしまいます。

しかし中には、自分のノンバイナリーというアイデンティティをとっても大事に尊重してくれる友人がいます。その子たちとの関係性を振り返ってつくづく感じるのは、やはり対話の重要性です。

もともと素敵な友人に恵まれたということも大きいですが、「この子ならわかってくれそう!聞いてほしい!」と思える友人には、ゆっくり後からでも良いからちゃんと気持ちを伝えること。それが自分の心地よく過ごせる空間を手に入れる方法の一つだと思います。僕も自分の気持ちを整理しながら何度もトライして、少しずつ悩みを打ち明けることができるようになってきました。

恋愛においても友愛においても当事者だけが悩むのではなく、関係を築く相手や信頼できる周りの人々と一緒に話し合い、お互いが心地よく過ごせる方法を探すことが大切だと考えます。

ロールモデルの重要性

そして最後に、キャルのようなノンバイナリーのキャラクターがメディアで描かれることの重要性についてお話します。

僕自身この作品に出会うまで「ロールモデル」という存在を特に意識したことはなかったし、むしろその概念自体あまり好きではありませんでした。自分がノンバイナリーだからといってノンバイナリーの人々に帰属意識を抱いたことはなかったし、ノンバイナリー同士だから必ず理解し合えるということもないと考えていたのです。

みんなそれぞれ考え方も環境も異なるのに、特別なひとりをロールモデルとしておくことの意味がよくわからなかったし、まれに自分自身をロールモデルとされることにも違和感を抱きました。

しかし、今回キャルが数あるノンバイナリーの人生のひとつを描いてくれたことによって、いままで参考にできるものがなく、手探りで切り拓いていた人生にひとつの道を示してくれたような気がしました。

例えばミスジェンダリングを受けた時どう対処すればよいのか、本やサイトで調べても概念的な説明ばかりで、具体的なシチュエーションを想像することは難しいのです。しかし、実際にキャルがミスジェンダリングされたときのふるまい方がこのドラマの中では描かれていて、こんな言い回しで意外にも簡単に訂正できるんだ・・・!という驚きと発見がありました。

他にも、校長に男性と女性で分かれて列に並ぶよう指示されるシーンでは、その状況をどのように問題提起し、どのように友人に助けを求めればよいのかが描写されています。しかもここでは、同じノンバイナリーでも最後まで反発して授業に参加しないことを選ぶキャルと、騒ぎにしたくないと考え諦めてどちらかの列に並ぶレイラというノンバイナリーの中の多様性までも扱われていました。

ノンバイナリーを理解しない人、あるいはまだ学んでいる最中の人に対してどこからどのように説明すべきかというのは、言葉の足りない僕にとってとても難しい問題です。そんな中でキャルやレイラがそれぞれのやり方で障壁に対処していく姿は、同じ悩みを抱える人々にとってとても大きな道しるべとなりえるでしょう。

前項で触れた恋愛描写もこれと全く同じで、キャルとジャクソンの衝突やすれ違い、歩み寄りの過程を含む関係性が、ノンバイナリーの恋愛がどのようなものになるのか全く想像できなかった僕に、ひとつの例とひとつの結果を見せてくれました。

ロールモデルというのは、「このセクシュアリティとしてこんな生き方がしたい!これが理想だ!正解だ!」という意味でのモデルではなく、そのセクシュアリティの人々によくある悩みや疑問の対処方法を、より実践的に考えるための一例になるものだと考えています。

「ノンバイナリーとしてこう生きるのが正解。」なんてものはもちろんありません。さまざまな考え方、行動をとるノンバイナリーのキャラクターが描写されればされるほど、数多くのロールモデルの中からより自分らしい選択肢が得られるようになると思われます。

もちろん現実はドラマのように上手くいかないことも多いですが!それも込みで、みんなにとっての理想という意味ではないロールモデルです。


今回は『SEX EDUCATION』におけるキャルのノンバイナリー表象に着目して、クィアと翻訳の未来、ノンバイナリーの恋愛、ロールモデルの重要性の三つの観点から考察してみました。

このドラマにはノンバイナリーだけでなく、アセクシュアルやトランスジェンダー、ゲイやレズビアン、バイセクシュアルなどたくさんのクィアなキャラクターが登場し、クィア同士の連帯やクィアと信仰の関係、フェミニズムとトラウマの克服など、幅広いテーマが扱われています。繊細に描写しながらもセンシティブに扱うのではなく、コミカルかつ最高にクールで熱いドラマになっているので、ぜひ広い世代の多くの人々に見ていただきたいです。

最後になりますが実は、このnoteは10月に書き始めました。8月にスウェーデンに来てから少し生活が落ち着いてきたころです。書いては消し、書いては消し、実生活での体験もあいまって何を伝えたいのかわからなくなり、意味を見出せなくなった時もありました。しかし、少しずつ自分のアイデンティティと向き合い、友人ともたくさん話して、今はこのnoteをなんとか満足できる状態で公開できていることに時の流れと少しの成長を感じています。

日本に帰っても今の気持ちを忘れず、自分の考えを言葉にし続けていきたいです。最後まで読んでくださりありがとうございました。



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