第19話 商売繁盛とパイナップルケーキ |2018年11月

 十一月。幸彦たちを載せた飛行機は、台湾の桃園空港に降り立った。旅行の話が出たのは五月だった。そのときには、国内旅行のつもりで話していたのに、少し調べた甲本さんが国内よりもむしろ海外の方が安いと言い始め、甲本さんの母である美鈴さんも乗り気になったため。台湾旅行に決まったのだ。
 しかも、旅行の行き先が台湾と聞いて、幸彦の母が自分も行きたいと言い出した。向こうもお母さんが来るならちょうどいいじゃないと言われ、そう言われてみればそんな気がした幸彦は、毒を食らわば皿までというやつだ、と、母も連れていくことになった。
 でも、幸彦にとっては結果オーライだった。母と美鈴さんは仲よさそうに話している。これなら甲本さんと二人きりの時間もできるはずだ。

 飛行機から降りて空港内を歩いているときは、まだ異国に来たという実感がなかった。きれいに整った空港はあまり日本と変わらなかったからだ。
 だが、街に出た途端、空気が一変した。ざわめきも狭い通りにぎっしりと並んでる店も、政治家がモデルのように微笑む巨大な選挙用看板も、何もかもが異世界だった。日本では嗅いだことのない、独特の香辛料の香りがあちこちから漂ってくる。幸彦は圧倒されて、きょろきょろした。店の前で世間話しているおばさんたちの、早口の言葉を聞きながら、自分とは違う場所で誰かが生きていることを初めて実感した。テレビやインターネットで知っているはずの外国が、とたんに実体を持った気がした。

「剛くんへのお土産は、幸彦が担当ね。わたしは果穂とお父さん」
「なんで……」
 母の言葉に幸彦は抗議しかけたが、口をつぐんだ。果穂の夫である室田剛は幸彦と同じ会社だし、母よりは幸彦の方が室田をよく知っている。その分担しかありえない。しかし、幸彦には、室田が何を買えば喜ぶのか全く見当がつかない。報道カメラマンとして長い間海外を飛び回っていた室田は、何をあげても目新しさはないだろう。それに幸彦と室田は、あまりにもセンスや考え方が違いすぎるのだ。
「深く考えないで、幸彦がいいと思ったものをあげればいいのよ」
 母の言葉に幸彦はうなずいた。そして、たまたま入った店で試食を勧められたお菓子がおいしかったので、それを室田の土産用に買い求めた。

 四人全員が海外旅行初心者だったが、幸彦母と美鈴さんの予習はばっちりで、ガイドブックの地図を見ながら迷いなく歩いていく。優柔不断の幸彦は、おかげでずいぶん助かった。
「やっぱり海外旅行ってすごいね。何を見ても楽しい」
 甲本さんが本当に楽しそうに幸彦に笑いかけた。歩き疲れて無口になっていた幸彦は、慌てて調子を合わせて、そうだねと答える。初の海外はふたりきりじゃなくてよかったかもしれない、と幸彦は思った。頼りないところばかり見せたり、疲れていらいらして喧嘩になったりしそうだった。

 台湾の空気に慣れてきたころに帰ることになった。もっといたいなと甲本さんが言うと、
「物足りないくらいがいいのよ」
 と、美鈴さんがなだめた。
 幸彦は、甲本さんのように素直にまだ帰りたくないとは思えなかった。もっと遊んでいたい気もするけれど、慣れた日本へ早く帰りたいという思いもあった。何年も海外に住んでいた室田は、日本が恋しくならなかったのだろうか、と、ふと思った。室田のように海外で暮らすことが日常になってしまうのはどんな気持ちなのか、まだ1回しか外国に行ったことがない幸彦には想像しようもなかった。

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 アロマの香りのするオイルを手の熱で温め、足全体に伸ばしていく。果穂がふくらはぎにそって手を滑らせると、ふうっと気持ちよさそうに姉はため息をついた。
「お姉ちゃん、足がぱんぱんだよ。よく歩いたね」
「少しはやせたかなと思ったけど、たくさん食べたからダメね」
 足の裏にはマメもできている。かなり酷使したのだろう。ゆっくりといたわるように指を滑らしていく。
「それにしてもお姉ちゃんも台湾に行ってたなんて。台湾、流行ってるの? ゆきちゃんも行くって剛くんが言ってたから」
「あら、一緒に行ったのよ」
 果穂は手を止めて、姉の顔を見た。
「ふたりで?」
「四人。わたしと幸彦と、幸彦の彼女と、そのお母さん」
 幸彦は例外だが、みんな果穂のリフレクソロジーのお客さんだ。
「どれだけ歩いても果穂が何とかしてくれるだろうって噂してたのよ。商売繁盛ね」
「商売繁盛より、わたしも行きたかった」
「剛くんに連れて行ってもらいなさいよ。旅慣れてるでしょう。新婚旅行は、どこ行ったんだっけ?」
 果穂は手を止めて考えこんでいたがだんだん表情が険しくなった。
 どこかに行こうという話は、結婚式の前後でした気がする。でも、もうずいぶん経つのにそれっきり何も進んでいない。
「報道カメラマンとして、世界中のいろんなところ飛び回ってたんでしょう? とっておきのいい場所に連れてってもらいなさいよ」
「そうする」
 決意をみなぎらせて果穂はうなずいた。妻であるわたしには、その権利がある、と果穂は思った。

 晩御飯を食べたあと、室田剛は幸彦からの土産だというパイナップルケーキを取り出した。箱の中に手のひらに載るサイズの正方形の包みがいくつか入っている。
「幸彦がさ、試食で気に入った現地のお菓子だって言って、ずいぶんもったいぶってくれるから何かと思ったら、これだった。台湾土産の定番だって教えてやったら、びっくりしてた」
 室田は笑うが、果穂はちょっとむっとした。
「海外旅行初めてなんだからしょうがないじゃん。わたしだって、台湾の定番土産がパイナップルケーキだってこと、知らないよ。行ったことないもん」

 室田は笑うのをやめて、果穂の顔色をうかがった。
「俺、なんかした?」
「新婚旅行」
「あっ……」
 室田はあからさまに動揺した。忘れていたのだ。
「よし、わかった。長期休暇を取るから。家で一緒にのんびりごろごろしよう」
「そんなの新婚旅行じゃないよ」
「わざわざ飛行機乗ったり、人の多いところに出かけたりするより、家のほうがいいって」
「剛くんはそうかもしれないけど、わたしはふたりで旅行に行きたいの。剛くんが今までどんな世界を見てきたのか。全く同じことはできないけど、ちょっとでもいいから覗いてみたいの」

 果穂の気迫に押されて、室田剛はうなずいた。
「わかった。一緒に行っても危険じゃないところを選んで案内する」
「やった!」
 果穂の機嫌は途端に直った。室田はこっそりため息をついた。正直言うと、本当は、まだかつていた場所を訪れたくはなかった。今の室田はまだ海外を渡り歩いた日々が「旅」だったと言い切れる自信がまだなかった。果穂と一緒に過ごしている今の日々のほうが旅の途中のような気がしている。

「行ってみて戻りたくなったら戻ってもいいよ」
 挑戦的に果穂が言った。今度は室田がむっとした。
「そうだな。リフレクソロジーは言葉が通じなくてもできるしね」
「え?」
 果穂が慌てた。
 室田は得意顔だ。かつてカメラマンとして過ごしていた場所に行けば、自分の気持ちがどうなってしまうのかは室田自身にもわからない。ただ、これからもずっと果穂と一緒にいるという決意は揺らがないだ。そのために結婚したのだから、果穂には発言には責任をもってもらわなくては困る。室田が戻るというのは、果穂が海外で暮らすという意味だ……などということを説明するのが照れくさくて、室田は幸彦からもらったパイナップルケーキをほおばった。クッキーとパウンドケーキの中間くらいの固さの生地の中に、甘く煮詰めたパイナップルが入っている。かじるとほろほろと口の中で崩れて、パイナップルの甘みと酸味が噛みしめると溢れてくる。
「うまい」
 室田は叫んだ。そういえば定番土産だということは知っていても食べたことがなかった。世の中には自分の知らないことがたくさんある。そして、それは多くの場合、自分以外の誰かが運んでくるのだ。
「そうだ、お姉ちゃんからお茶をもらったんだ」
 果穂が立ち上がる。
「剛くん、待って。お茶いれるから、全部食べないで」
 と、果穂が言ったが室田の耳には入らなかった。こんなにうまいものが世の中にあるのかと感動しながら、次のパイナップルケーキに手を伸ばしていた。

(つづく)


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