月野さんのギターkindle書影_大航海_

小説「月野さんのギター」第12章(最終章)

 長居しすぎたカフェを出て、シオリと別れた。


 自転車を押して歩きつづける。朝から照り続けている日光のせいで、サウナのような熱気が足元から立ち上ってくる。空は気持が悪いほど青かった。立っているだけで汗が出てくる。室内に入りたかったが、どこも人でごった返していた。デパートに据えつけられた椅子は、中年のおじさんやおばあさんで埋まっている。雑誌に載る有名な喫茶店だけでなく、チェーンの安いコーヒー屋ですら満席だった。橋の欄干には観光客の集団が貼りついていて、何がめずらしいのか川を見下ろしている。


 橋を渡って自転車を止めると、歩いて階段から川原に下りていく。一歩進むごとに、喧騒が遠のいていく。浅い川が、ずっと遠くまで続いていた。その突き当たりには、なだらかな山が寝そべっていて、濃い緑が空に映えていた。


 俺は、北川浩二の携帯番号を手に入れた。だけど、いったいどうすればいいんだろう。何を話せばいいのだろう。よく考えたら俺は間男というやつで、しかも、シオリと月野さんと両方に手を出していて、そんなやつから電話がかかってきたら、よくもふざけたことを、と、ぶち切れられてもしょうがないのだけど、なんだか北川浩二と話をしてみたい気がしたのだ。俺は変だろうか。


 とりあえず、かけてみよう。声を聞けば話すことが出てくるかもしれない。怒らせたところで、電話越しに殴られるわけじゃない。ボタンを押して耳にあてる。緊張しながら呼び出し音を一回だけ聞いた瞬間、そういえば今、やつは月野さんと一緒にいるのだと思い出して、あわてて電話を切った。


 高揚した気分が急速に萎えていく。


 俺は一人で川原に寝転がった。もちろん右と左を確認して左右のカップルのちょうど真ん中の位置に。地面が熱くて、気持がよかった。草が当たって背中がちくちくした。まぶしくて顔を両手で覆う。指の間から空を見る。とんびが輪を描いて飛んでいる。


 シオリはあんなふうに話したけれど、それが真実だとは限らない。たとえば、こういう状態も想像できる。北川浩二の本当に好きなのは月野さんで、でもぼろぼろになった状態のシオリを放っておけなくて、なぐさめるために口先だけでやり直そうなんて言った、とか。俺はひねくれすぎだろうか。でも男と女の会話なんて当人同士にしか分からない。あー、もう。自分のことだけでも頭がごちゃごちゃしてやりきれないのに、ほかの人間の意向なんて考えてられるか。


 そのとき携帯が鳴って、俺は飛び起きた。さっき着信を残してしまったせいで北川浩二からかかってきたのだろうか。どうしようか。取ろうか。それとも無視しようか。心の準備ができていなかった。無視してもこちらが誰かは分からないだろう。


 全身を緊張させたまま携帯を見ると、それは北川浩二からではなく、月野さんからの電話だった。俺は急いで電話を取った。耳にあてた。今から会える? と、聞き取れないほどの小さな声で、彼女は言った。俺は耳に強く強く携帯を押しあてる。


「どこ? 今、家?」
 うん、と、か細い返事が返ってきた。
「すぐ行く」
 電話を切った。階段を駆けのぼり、自転車を乱暴に取り出し、またがった。何かを考えている暇はなかった。俺は、ものすごい勢いで自転車をこいで、汗まみれで月野さんの部屋に到着した。たぶん、その間の時間は三分ほどだったと思う。


 ドアを開けた月野さんは泣いていたみたいだったが、俺の到着の早さに、うわあとまぬけな声をあげて驚いた。俺は、ぜいぜいと息を切らしていた。お互いに前回のあれこれを思い出す余裕もなかった。クーラー利いてるからこっちこっち、と、月野さんは俺を部屋に案内して、麦茶を渡してくれた。月野さんの視線に見守られながら、一気に飲み干した。体の中が冷めていくと同時に、毛穴からますます汗がふきだした。タオルを手渡された。汗を拭いて足を投げ出して、ひと息ついて彼女を見た。あれ、俺何しに来たんだっけ、と思った。


「早かったね。河原町にいたんでしょ。シオリさんと」
 と、月野さんは言った。そういえば北川浩二に会ったんだ。シオリが誰か若い男の子と話してたなんて、月野さんに伝えたのだろうか。シオリの件で怒らせたばかりなのに、最悪だった。
「シオリさんと、なに話してたの?」


 それは、月野さんには言えない内容だった。とっさに適当なことを言ってごまかす余裕もなく、俺は黙ってしまった。いやな沈黙が続いた。きっと誤解されているだろう。そして、また怒られるのだろう。今度こそ修復できないくらいに。でも、話の内容を正直に言うわけにはいかなかった。


 月野さんは怒らなかった。ゆっくりと口を開いた。
「君も聞いた? わたしは全部聞いたよ」
 月野さんは泣くのを必死に我慢している顔で、半笑いで、震えていた。俺も全部聞いた、と月野さんの顔を見ながら静かに言った。


「土下座されて謝られたけど、もういいから早くシオリさんのとこ戻ってあげてって言っちゃった。こういうことわたし、よくあるの。好きって言われたらすぐ舞い上がっちゃうんだけど、でも、つきあい始めて気がついたら、わたしだけが好きになってて、相手はもうほかの人に目移りしてる」


 それきり唇を噛んで黙ってしまった月野さんを、俺は見つめた。青ざめた顔で、あの強い目で、足元をにらみつけながら彼女は悲しんでいる。怒っているのかもしれない。くっきりと大きい黒い目も、小さな鼻も、透き通るような白い頬も、赤い唇も、その全部から俺は目が離せない。


 こういうことよくあるの、と彼女は言った。月野さんの容姿なら、男は誰でも恋に落ちてしまうんじゃないだろうか。本当に好きかどうかなんて、自分の気持を確かめる暇すら与えられず、あっという間に恋に落ちてしまうんじゃないだろうか。


「だから別にいいんだけどね。もう慣れてるから」


「慣れるわけないよ、そんなの」


 月野さんが顔を上げ、目を見開いて、俺を見た。そして、その大きな瞳からぼろぼろと涙をこぼした。涙があふれて止まらなくなって、大きな声をあげて泣き始めた。俺が抱き寄せようとしたのを振りはらって床に座りこみ、ソファーに顔を押しつけて、激しく泣きつづけた。布をぎりぎりとつかんで、泣きつづけた。


 俺は壁にもたれたまま、彼女を見ていた。胸が痛くてたまらなかった。せっかく手に入れた携帯番号に電話をかけて、俺ができることならなんでもするから、もう一度月野さんとつきあってくれないだろうか、と北川浩二に頼みたかった。でも、そういうわけにはいかない。恋は、そういうふうにはできていない。


 三十分ほど激しく泣いて、それから二十分ほどすすり泣いて、体力が尽きたのか、月野さんが泣くのをやめた。ソファーに頭をのせて、放心したように天井を眺めている。


 俺はその間、月野さんをずっと眺めていた。そして、ようやく泣き止んだ彼女に話しかけた。


「あのさ、人は同時に二人の人と恋愛できるかどうかという件についてだけど」


 月野さんが俺をちらっと見て、また天井を向いた。そして、
「そんな話はもう聞きたくない」
 と、しぼり出すように言った。俺は、かまわず続ける。


「俺の場合はできなかった。君のことが好きになって、君のことでいっぱいになって、彼女とうまく続かなくなった。彼女と別れたよ。その件に関して、君の意見はどう?」


 月野さんが俺を驚いたように見た。それから、ぷっとふきだした。いやそこ、全然笑うとこじゃないから。
「やっぱ、ふた股とかよくないよね」
 彼女は、くすくすと笑い始めた。おいおい。
「笑い事じゃないって。俺は真剣なのに」
 俺はどうなるんだ。


「失恋の傷が癒えてから考えるよ」
 とか言いながら、すぐ明日にでも君を呼び出したりして、と言って月野さんは笑う。もう何でもいいや。俺も笑う。なんでもいいから月野さんが笑っていてくれたら、俺はいいや。


 月野さんが立ち上がった。そして、クローゼットの奥の方からギターケースを取り出した。昼間だからいいよね、と言いながらケースを開けて、アコースティックギターを取り出し、胸に抱える。
「よし、一曲歌おう。何歌おうか」
「恋しちゃったら、しょうがないよねー」
 ふと頭に浮かんだのはナナミのセリフだった。適当な節をつけて歌ってみる。
「何それ」
「しょうがないよねの歌」
 分かった、と言って月野さんがギターを弾きはじめた。いつものようにちょっと間の抜けたメロディーで、恋しちゃったらしょうがないよねと、アドリブで歌いはじめる。しょうがないよねと歌いながら、また泣き始める。北川浩二に失恋した傷はいつ癒えるんだろうと思いながら、俺は部屋の壁にもたれて、泣いている月野さんを眺めている。ギターの音が鼓膜を震わせる。みぞおちの奥、内臓が、ぎゅっと収縮する。
 俺はここにいたい、そう思った瞬間、俺は全身が絞られて胸が苦しくなった。
 月野さんがギターを弾く手を止めて、驚いたように俺を見た。そういえば、月野さんの前で泣くのは初めてだったなと俺は思った。
                             
(おわり)

※最後まで読んでいただいてありがとうございました!


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