見出し画像

演劇って何なのかなって、ずっと考えている

わたしの本職、というか、アイデンティティは小説家なのだけど、いま縁あって演劇の脚本と演出をやらせてもらって毎月公演しているし、来年の1月には自分で脚本を書いた朗読劇を上演する。

いままでにないほど演劇漬けになってしまっているのだけど、テレビとかネットとかリモートで複製できるものがあふれている時代で、演劇って何だろうということを考え続けている。

まだ答えは出ないけど、ふと、昔書いた文章を思い出したので再録しようと思い探したら、2015年文章だった。5年前か。そのときには自分が演劇やるとは思ってなかったんだな。ちゃんとカルチベートされてるよ、わたし。

ブログより再録

劇団「地点」カルチベートプログラムを受けました
2015.03.19 Thursday 22:43

 カルチベートとは耕すという意味。このプログラムは京都に拠点を構える劇団「地点」が行っている観客を耕し育てるためのプログラムで、レポートを書いて応募し、通ったら、半年間「地点」のすべての劇を無料で見ることができる。いや、見ることが出来るというのは語弊があって、必ず見なくてはいけない。そして数回のレクチャーも出席しなくてはならない。別に欠席したら何が起こるというわけでもないけれど、それが約束だ。タダで見てよい。その代わりすべてを見て最後にレポートを書く。
 半年間通い終えたわたしはどうなったかというと、まんまとカルチベートされた。
 演劇は小説よりも「体験」に近い。横から突き飛ばされるような出会いがしらの事故がある。体験したそのときは、ただ感情に翻弄されて言葉にならずその体験の意味も分からない。だから、また見たい。
「劇は何度も見てください」という演出の三浦さんが言っていた。そのまま盲目的に実行してみようと思う。

 書いたレポートは公開してもいいそうで、ここに貼りつけます。
--------------------------------------------
「地点」カルチベートプログラム 報告エッセイ
手に負えないものとの戦い /寒竹泉美

 地点の劇に出てくる人たちは、みんな、例外なく「自分で自分が手に負えない」状態であるように見える。しかも、手に負えない自分を、あきらめずに何とかしようとがんばっているように見える。
だからわたしは彼らを見たいのだと思う。何度も何度も見に行きたいのだと思う。

「地点」という小さな風変わりな劇団を、ある人の薦めで見に行ったのは、二〇一四年の五月で、そのときの演目はチェーホフ原作の「かもめ」だった。
その人が強く勧めてくれたからというのもあるけれど、原作がロシアの大文豪チェーホフだったというのが見に行こうと思った一番の動機だった。わたしはずっと、いつ誰かに「小説家のくせにチェーホフも読んでないのか?」と言われるかと心配で怯えていたのだ。
 バスに乗って京都の端っこまで行って、こんなところにあるのかと思う場所の、小さな地下の劇場に降りていく。そして、わたしにとって初めての地点体験がそこで行われた。段差のないステージを客が取り囲む。演者はときどき客の椅子に座り、テーブルの上でタップダンスを踊り、走り回り、重いサモワールを持たされて立ち尽くし、妙な抑揚でしゃべりつづけ、犬のように吠え、ピストルは何度も発射される。
 ただただ圧倒された。鮮烈な印象を受けた。今までに見たことがないものだと思った。今までの感覚で分類したくなくて、下手な言葉でまとめてしまいたくなくて、言葉にしない状態を保ちながら、たったひとつ、「また見たい」という思いだけは言語化した。それからわたしは運よくカルチベートプログラムに採用され、地点の地下劇場に何度も何度も通い続けることになった。
六種類の劇を見、演出家の話を聞き、ゲストの言葉から読み解くための視点をもらう。何度行っても、やっぱり毎回圧倒されて言葉が出なかった。そんなふうに保留し続けていた思いを、今日は、ついに、言葉にしなくてはいけない。締切がやってきたからだ。

 何から考えるか悩んだあげく、チェーホフのテキストを読んだときにわたしが思い浮かべた人物と、地点が見せてくれた人物の印象を比べてみることを最初の手掛かりにした。わたしがテキストから思い浮かべた人物は、凡庸で、退屈で、ありきたりだった。地点の劇中で動き回る人物たちのほうが濃い血が通っている感じがした。それは単にわたしの演出力と想像力のなさのせいだけではなくて、何かもっと次元が違う「違い」があった。平面と立体のように、無生物と生物のように、何か質の違う違い。地点の人物たちは変なしゃべり方をし、変な動きをするのに、より生物らしい感じがした。本当に変な人たちなのだ。この劇中の人物のひとりが現実のコミュニティーの中に現れたら、警察を呼ばれるか、病院送りだ。普通の人には手に負えない。みんな目を合わせないように通り過ぎるだろう。でも、観客であるわたしは動けないまま彼らを凝視する。
 そんなふうに考えているうちに、「手に負えない」という言葉が出てきた。しかも他人から見て手に負えないのではなく、自分自身が手に負えない。どうしようもない。分かっているけど、こういうふうにしか生きられない。そんなふうに劇の中で彼らは叫んでいるように思える。手に負えなさが彼らに生きものらしさを与えていたのだろうか。手に負えない。それは自分の中にあり、他人との関係の中にもある。世の中との関係の中にもある。不穏で邪魔な手に負えなさが現実には常に存在している。
そしてもうひとつ大事なことは、彼らがその手に負えなさに対してあきらめていないことだ。
 彼らの手に負えなさは、劇の中で、ほかの登場人物にも、観客にも迷惑をかけていない。ぎりぎりのところで制御されている。いや、むしろ演出家の手によってかなりガチガチに制御されている。制御された緊張感の中で、「手に負えない」を演っている。
これはたぶん脚本にも言えることで、原作への愛と敬意という縛りが確固として存在しているのが分かる。どれだけ激しくコラージュされて、変わったことをされても、こんなのチェーホフじゃないとは一度も思わなかった。これもチェーホフだ。むしろ、これこそチェーホフかも、と思った。
 手に負えないだけのものは見飽きている。哲学のないアート風のなにか、泥酔して自分をなくした酔っ払い、猟奇殺人事件、戦争、世の中の醜悪な開き直りの数々、原発事故、政治、病気、貧困、死。そういうものに目を背けるあまり、わたしは「手に負えないもの」すべてから目を背けるようになっていた。声高に叫んでいる人から目をそらし、渦中で苦しんでいる人から距離を取り、考えるのを放棄し、最初からあきらめ、手に負えないことなんかこの世に存在しないかのように暮らしている。
 手に負えない自分自身に振り回されることは、わたしにも経験がある。あった、と言ったほうが近いかもしれない。今では、手に負えない自分自身からも目をそらし、そんなものはなかったかのように表面上の平和を保って枠内におさまって暮らしている。

 地点を見ていると手に負えないものとあきらめずに戦う必要性を思い出す。「ファッツァー」や「近現代語」のように劇そのものがそういうテーマを孕んでいるときもあるけれど、そうじゃなくても、妙なしゃべり方と動き方をする人物たちは、それだけで常に手に負えないものと真剣に必死に戦っているように見える。そのようにしかしゃべることが許されていないという制限の中で、ありったけの声を張り上げ、自分の想いを託す言葉を放つ。現実のわたしはまるきり逆だ。好きなようにしゃべっていいのに、制限された言葉でしか話していない。
 手に負えないものと戦うとき、命は最も真摯で美しい輝きを放つのかもしれない。手に負えないものとの戦い、それは命と自分自身の尊厳を賭けた生きることそのものだから。

 今の時点でわたしが感じている地点の魅力を言葉にすると、「あきらめずに戦うことを思い出させてくれる」となる。地点を見る前のわたしだったら、これを陳腐な言葉だと思って鼻で笑っただろう。部活の試合だとか、受験だとかでさんざん唱えられる、子供のときに聞き飽きたフレーズだから。でもこのフレーズは、あるときから、ぷっつりと聞かなくなる。大人の社会にとって、あきらめずに戦う人は、たいていの場合、邪魔ものになる。さっさとあきらめて切り替えられる人が賢く、良い市民とされる。あきらめずに戦っている人たちは、冷ややかな迷惑そうな目で見られる。もしくは、美談にして隔離されエンターテイメントとして消費される。
 わたしには、あきらめているものが山ほどある。あきらめるのに慣れきって思考停止状態になっていることが山ほどある。そのことをそのまま指摘されたとしたら、わたしは絶対に素直に認めなかっただろう。けれど、地点を見ていたら自然に分かってしまった。認めてしまった。
 これは演劇という表現のおかげなんだろうか。
演劇って一体なんだろう、と考え続けている。小説と何がどう違うのだろう。その答えはまだ出ていない。地点体験から一年も経っていないのだから、答えはまだ出さない方がいいに決まってる。これから見つけていくつもり。

〈了〉

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?