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最初の一歩を踏み出さなくては。ゼロはいくら積み上げてもゼロのままだから。

飼い主さんを探している保護猫ばかりを集めた猫カフェで、猫と戯れた。とても行き届いた猫カフェで、猫は楽しそうにのびのびしてるし、人懐っこいし、オモチャを揺らすとあちこちから若い猫が飛んできてじゃれついてくる。

しばらく床に座って子猫と遊んできたけれど、大きなのっそりした老猫が近づいてきて、ふともものところをチョイチョイとする。登れる高さにしてあげるとよじ登ってしがみつくようにわたしの上で丸くなって落ち着いてしまった。床暖房のほうが暖かいのに揺らしてもなでても動かない。しがみついて意地でも降りない。いびきをかいて寝始めた老猫をなでながら、6月に亡くなった飼い猫のモーちゃん17歳を思い出す。

無邪気に遊びまわってる子猫たちよ、君たちもいずれ年をとるのだよ、と言い聞かせてみたくなる。たとえ言葉が通じたとしてもわかってはもらえないのだろうけれど。だって、わたしなんか、人間40年近くやってきて、ようやく歳をとるということがわかりはじめてきたところなのだもの。

いま、39歳であと9ヶ月経てば40になる。死ぬまでにあと何作書けるのだろうということを昔はよく思っていた。すでに大成した作家になっている40歳の自分を想像しながら。

何作書けるのだろうとか思っている場合ではない。スタート地点にも立っていない。なりたい自分があるなら、そのためのスタートを切らなければ。

純文学と呼ばれる小説ジャンルに挑戦したくて、もう何十年も芥川賞を取る取ると言い続けてる気がするけど、賞の候補どころか入場券すら手にしていない。まずは書かなくてはいけないのに、日々の忙しさに追われ、書き出すこともできなかった。

なのに、いま、わたしは、猫カフェなんて行って1時間、猫と戯れている。あれ、なんだか最近、時間的に前より余裕があるぞ、なんで…と考えてハッとした。あ、そっか、これは過去のわたしが、応募用の小説を書けるようにせっせと作った時間だ。仕事を調節し、厳選し、断り、必死で積み上がったいろいろを片付けて作った時間だ。あー、ごめんごめん! 過去のわたし!まあでもほら、リラックスするの、大事だし。

スケジュール帳は3月末まで白々としている。これを見ると、食べ放題のレストランでブッフェ料理を眺めているような豊かな気持ちになる。食べ放題ならぬ、何でも「し放題」!

でも、するべきことはひとつでした。空き時間ではない。他の仕事と同じように、スケジュール帳のマンスリー欄の正方形の1日分の枠の中をぐるりと囲って、中央に執筆と書く。それをせっせと2ヶ月半分やる。バカバカしい作業だけど、自分に対する決意表明だから愚直にやる。バカバカしいとか、かっこ悪いとか、効率が悪いなんて文句ばかり言って一歩も動かなかった過去の自分と決別するのだ。毎日開く手帳が執筆の文字で埋まっている。ほかの予定を入れるためには、それを消さなくては書き込めない。ほらほら、だんだんやらざるを得ない状況になっていく。

まっさらだったスケジュールが3ヶ月分びっしりと埋まる。これだけの時間をとらないと、今のわたしは、長編小説は書き上げられない。「暇だ」とか「余裕がある」とかとても言えない現実が突きつけられる。

これで必要な時間を確保した。確保しただけで、うまくいくかはわからないけど、少なくとも、確保しなかったら可能性はゼロだ。

自分の可能性を作るのは自分だし、自分の可能性をつぶすのも自分なのだと思う。

そうして確保した時間を使って受賞作を読むところから始めている(そんなことすら、今までできていなかった)。面白いと思える作品もあるし、良さがわからない作品もある。

純文学とは何か。わたしが今考えていることは、言葉や文章で何ができるのかという可能性を探り続けている小説ではないかということ。文章そのものをゼロから手作りして研ぎ澄ましていくのか、他のジャンルにはできないものを探るのか、エンターテイメント分野では受け入れられないことを表現しようとするのか。いろんな試みがあってよくて、小説の可能性を広げようとする小説なのではないだろうか。

とはいえ、ろくに書いても読んでもいないから、本当のところはわからない。わからないからこそ、挑戦してみたいのかもしれない。書くためには真剣に考える必要があるから。

ともかく、わたしは始めた。ゼロは1になった。書けたら受賞するなんて、いまは全然まったく微塵も思わない(若い時は思ってた)。10年くらい書き続けて、いつか文学として認められるものが書けたらいいなと思う。10年で50歳。そして60歳までに5冊ほど書けるだろうか。最後の1冊は、ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟みたいな大作がいいな。

それからあとは、行き場のない老猫を保護してのんびり生きようかな。そして死ぬ前は自分の作品に囲まれて、それらを心ゆくまでぱらぱらと眺めたい。子供や孫に囲まれて死にたい、っていうあれの応用バージョンか。

なんだか、最近、自分ができないことを恥じる気持ちがなくなってきた。年の功だ。すごい人にたくさん出会った。わたしは思っていたほどすごい人じゃなくて、思っていたよりできないやつで、でも、案外やったらできることも多いこともわかった。

挑戦して、できなくて当然、できたらラッキー。そんな軽やかさ。仕事はそういうわけにはいかないけど、これは、仕事ではない(今は)。誰にも迷惑かけない自分だけの挑戦をしつこく続けたいと思います。

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